3.いっさいの必要としてイエスを見る (2)
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神がご自分の民の罪以外の必要を満たす場合には、イエスをつかわされなくても事が足りた。
事実旧約聖書の場合にはそのようにされたし、また私たちの時代にも引き続いてそのようにす
ることがおできになった。しかし罪人としての民の必要となると、どうしてもイエスでなけれ
ばならなかったのである。それ以外に方法はなかった。罪の価を払うために、それ以外のよき
ものはなかった。そのため神は御子イエスを惜しまれなかったのである。神は私たちを愛する
あまり、ご自分の栄光の輝きであり、また本質の形であるイエスを地上に送られた。そしてこ
のイエスは、自らの血を流すことによって、私たちのために罪からの十分な贖いを成し遂げ、
さらに復活された救い主として、絶えず、罪人としての民が必要とするいっさいのものとなっ
ておられる。罪人としての私たちの必要は、天国の門に至るまで絶えることがないからである。
ここまで来ると、必要のあるところに神がおられるばかりでなく、罪のあるところにイエス
がおられると言うことができる。この後半の思想は、前半の思想に比べてはるかに驚くべきも
のである。
人間の必要の中には、いつも責められるべき要素があるとはかぎらない。そのため神が人間
の必要にあわれみを覚えて近づいて下さるということは理解できよう。しかし人間の罪は、さ
ばき以外の目的によっては神を引き寄せない。しかし事実はそうではない。神はその御本質の
ゆえに、イエスはその御本質のゆえに、また恵みはそのご本質のゆえに、罪のあるところにい
つでもイエスがおられるということが輝かしい事実となるのである。
イエスは罪をゆるし、それがもたらすあらゆる被害を回復しようと心待ちにしておられる。
彼は人間の失敗を見てショックを受けられるようなことはない。むしろ人間の失敗の中にホ
ームを見いだし、それに引かれ、どのように処理するべけきかを知っておられる。なぜなら、
彼は彼ご自身と血のゆえに、自ら人間のあらゆる失敗の解答となられるからである。
したがって、私たちはイエスについて考える時に、罪という不快なものによってのみ来臨の
必要を促したおかたについて考えなければならない。彼は最初から最後まで罪の解答である。
そればかりでなく。神はイエスによって私たちの罪の解答を与えるばかりではなく、霊的、精
神的、経済的を問わず罪以外のいっさいの解答をお与えになったのである。「御子とともに、
万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8・32英訳)。
このようにして、イエスはご自身の中に、旧約中のエホバの持つあらゆる複合名称を包括さ
れた。また、イエス「私はあなたがたの救いである」という最終的な複合名称において、旧約
のあらゆる複合名称をカバーし、それらの一つ一つを成就されたのである。
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以上のことは、たとえ私たちが長年間健全な信仰者であったとしても、罪人としての自分自
身を見なければならないことを意味している。しかも私たちは単に論理的にではなく、聖霊に
よる深い洞察力を伴う特別な自覚をもってそうしなければならない・これから先私たちはくり
返しくり返しこの点に帰って来る。罪人として自分自身を見なければ、イエスのうちに私たち
が慕っている美しさを見いだすことはできない(参照 イザヤ53・2)。彼は罪への解答として
以外にはなんらの意味もない。「あなた自身を罪人として見ることは救いの初めである」と聖
アウグスティヌスは言った。私たちはこの言葉に付け加えて、私たち自身を罪人として見続け
ることは救いの継続である、と言うことができよう。あるアフリカ人は、長年の間自称キリス
ト者で通ったあと罪を示されて、「私は自分の罪を通してイエスを見るまでは、イエスの姿が
わからなかった」とあかししている。
イエスを見るとは、単に彼についての客観的な知識を得ることではない。それは主観的、体
験的な事柄である。それは罪人、失敗者、貧しさの極にある虚弱者としての私が必要としてい
るそのものとして、イエスを信仰によって見ることであり、しかもこの時間に、彼にそのよう
な存在になっていただくことである。このようにイエスを見ることは、利己心の表れではない。
私が罪人としての必要をもって彼を見る時に、彼はご自身を現し、その存在をしらされるので
ある。
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