YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

インド最後の日~カルカッタの旅

2022-03-01 13:07:37 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年3月5日(水)曇り(インド最後の日)
 BOACの営業所へ行って、ダーウィンまでの航空券(336米ドル)を買った。M&M券では足らず、10ドルばかりをトラベラーズチェックで支払った。あれ程悩んでいたオーストラリア行きはこれで決定し、明日いよいよオーストラリアへ行く事になった。
 ルピーが残りそうなので〝インドのお土産〟(インド人との取引の話を参照)を買いに行った。夕食は中華レストランで食事をして、インドの最後の夜を過ごした。

ヒッピーから紳士に変身?~カルカッタの旅

2022-02-28 11:37:58 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年3月4日(火)晴れ(ヒッピーから紳士に変身?)
 午前中、部屋でゆっくり休んだ。オーストラリアへ行って、職探しをしなければならないので、『少し容姿を整えなければ』と思い出した。午後、近所で目に付いた床屋へ行った。
 ここの宿泊所(YMCA)は、表通りから少し裏通りへ入った所にあった。宿泊所の前は広くないが、餓鬼どもの遊び場として適度な広さがあった。広場右手の方は、古ぼけた汚い民家が並んでいた。
 出掛けようと表に出たら昨日と同様、餓鬼ども数十人が頭からつま先まで色々な色に染まりながら又、粉を掛け合っていた。私は粉を掛けられない様にソット行ったが、餓鬼どもに見つかってしまった。「ヒッピー、ヒッピー」と餓鬼どもは、はしゃぎながら粉をぶつけようと、私を追って来た。『掛けられてたまるか』と素早く表通りへ逃げ出した。それにしてもインドの餓鬼には敵(かな)わないよ、と思った。
 床屋へ行ったら、直ぐ店主が台に案内してくれた。しかしカットの方法でお互いに言葉が通じ合わないので困ってしまった。店主がカットのサンプルを持って来てくれた。私は裾を刈り上げ、髪を7:3に分けたサンプルを指し、「Leave others to you(他は貴方にお任せします。)」と言った。分ったのか、分らなかったのか、いずれにしても私は『まな板の鯉』の心境であった。
 カットして、頭を洗って、髭も剃ってくれた(カットと髭剃りは7ヶ月振り)。しかも髪型は、7:3に分け、ビッシト決めてくれた。理髪代は2.5ルピー(約125円)で思った以上に満足したので、お釣りの50パイサをチップとして渡した。店主は、嬉しそうに店の外まで見送ってくれた。
 そして私はYMCAへ。餓鬼達はまだ広場で遊んでいた。餓鬼達は私の顔を見て、キョトーンとなってしまった。そしていつも言っている『ヒッピー、ヒッピー』の言葉も無かった。それに私の変身振りに餓鬼達は粉を掛けるのも忘れていた。「ざまーみろ、紳士になったのだ。餓鬼達にバカにされる覚えはないぞ。」と意気揚揚と建物の中へ入って行った。しかし着ている物とヘアースタイルはアンバランスであった。
 〝ホーリー祭〟(ヒンドゥ教の3大祭の1つ。2月~3月頃、春の訪れを祝う熱狂的な祭りで、この日ばかりは誰でも区別なく色付き粉や液体を掛けても無礼講であるらしい。)で今度は、大人達が広場で夜遅くまで騒いでいた。おまけに今夜は蒸し暑く、寝苦しかった。

オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅

2022-02-27 09:30:01 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年3月3日(月)晴れ(オーストラリアへはBOACに決定) 
 カルカッタからオーストラリアへの行き方で、私は2つのルート選択で悩んでいた。①カルカッタからバンコクへ飛んで、それからマレー半島を南下しシンガポールへ。シンガポールで自分の旅への気持、手持金、その他の状況を考え、『帰国した方が良い』と判断したら、船(M&M)で帰国する。『オーストラリアへ行きたい』と判断したら飛行機で行く方法。②ここからダイレクトにオーストラリアへ飛行機で行く、この場合一番安く行ける航空会社と空路はと言う事であった。
 悩んだ末に①を選択した為、タイの査証を直ぐ取る必要があった。今日も又、JALへ行きその後、タイの領事館へ査証を取りにタクシーで行った。降りる時、メーターが2.5ルピーを示していた。いつもの様に「高い、まけろ。」と言ったら、タクシー運転手は2ルピーにしてくれた。多くの場合、インド人は法外な請求をして来るのが常であるのに、この運転手はメーター表示金額より安くしてくれた。如何してなのか疑問であった。でも言う方も言う方だが、インドだから言えたのだ。  
 折角来たのにタイ領事館は閉まっていた。玄関口に、『お祭りの為2ヶ月間休みます』と書いてあった。私は、『インドのお祭りで、タイの領事館が如何してそんなに長く休むの、考えられない』とショックを受けた。しかし、考える必要はなかった。インドは常識的に考えられない事が起こりえる国、そう思えば納得した。この場合、査証を直ぐ取るにはニューデリーのタイ大使館へ行かねばならないが、3月16日までオーストラリアに入国しなければならないし、そんな面倒な、しかも日数とお金も掛かる事は出来なかった。そして既に悩んでいる暇はなかった。②の方を決断せざるを得なかった。
 帰りもタクシーを使った。降りた場所は、最初乗ったJALの所であった。やはり料金メーターは2.5ルピーを示していたが、2ルピー渡した。「50パイサ不足だ。」と運転手。「否、行く時は2ルピーにしてくれたぞ。」と私。ここで私と運転手は、スッタモンダの言い合いになった。でもメーターは『2.5』を示していたし、50パイサ(約25円)なので妥協した。
 JALで再び相談し、その後エール・フランス、BOAC(英国航空の営業所)へと回った。そしてBOACで一番安くオーストラリアへ行ける空路がそこにあった。それは、オーストラリアと言っても一番北に位置する『ダーウィン』であった。安く行けるならオーストラリアなら何処でも良かった。私はBOACでダーウィンへ行く事にした。3月5日に航空券購入(336米ドル)で再度、来る事にした。     
 タイ領事館へ行くまで悩んでいたが、長期間休みの為に査証が取れなくなり、帰国の事も棚上げして急遽、BOACでダーウィンへ行くと決めた。M&M乗船券引き換え書は326ドル分程残っており、それがBOACでも使える事が分った。それにトラベラーズチェックは、まだ120ドルぐらい残っていた。
 昼抜きであちこちと駆け回り、帰りも歩いてYMCAに戻った。途中、裏通りで子供や大人達が色の付いた液体や粉を掛け合っているのを見た。『面白い遊びをしているなぁ』と思った。あ!若しかしたら『これがインドのお祭り行事なのかも』と思った。この催事は『ホーリー祭』であった。
 YMCAの近所の餓鬼ども数10人も白や赤の粉や液体を掛け合って騒いでいた。YMCAに入る寸前、危うくその粉を掛けられるところであった。この餓鬼達は私の事を「ヒッピー、ヒッピー」とバカにした様に言っていた。インドの餓鬼にバカにされる様では、私のヒッピースタイルも年貢の納め時になった。確かに、ヨーロッパでもヒッピーが屯していると、眉をひそめる大人はいた。しかしヨーロッパや中近東に於いて、子供達までがバカにする、そんな様子や言動は無かった。
 腹の調子の方も少しおかしかった。

YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談~カルカッタの旅

2022-02-27 09:10:01 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年3月1日(土)曇り(YMCAに宿泊のネパール人とJALで相談)
 このYMCAに旅人は私1人だけであった。昨日からカルカッタを去る日まで6日間宿泊したが、誰も旅人は来なかった。これは珍しい現象であった。何故だろう、不思議であった。 
 私の部屋は階段を上って2階の右手一番手前の部屋で、そこから先は空室であった。左手側には10部屋程あった。各部屋はネパール人留学生が宿泊していた。最初に彼等に会ったのは、私が2階の窓から景色を眺めていた時でした。日本人が向こうから来たと思い話し掛けたが、フンでもスンでもないので英語で話した。話をしたら彼らはネパール人で3ヶ月間ここに滞在して、カルカッタ大学で勉強しているとの事でした。それにしてもネパール人は、本当に日本人に良く似ている、と感心する程であった。
 YMCAでゆっくりしてから、オーストラリアまでの航空運賃、その他を相談しに歩いてJAL営業所へ行った。営業所には日本人を含め誰もお客さんは居なかった。

パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

2022-02-26 14:36:49 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年(1969年)2月28日(金)曇り後雨(パトナーからカルカッタへ)
 6時30分に起き、渡辺と共にドミトリーを出た。渡辺はネパールへ行くのでガンジス川を渡る船着場の方へ、私はパトナー駅へ行くので宿泊近くの大通りで各々左右に別れた。振り返ると彼は、船着場の方への坂をトボトボと歩いて行った。彼の旅愁を帯びた後ろ姿は、終に見えなくなった。「お互い元気で旅を続けよう。さようなら。」と別れ際に言ったが、真にそう思った。本当は私も出来れば彼と共にネパールへ行って見たい心境であったが、金銭的な事、ネパールの査証の事、そしてオーストラリアへの入国時期が迫っている等で、彼と共に行く事が出来なかった。  
 駅へ行くのにリキシャを拾った。着いて60パイサ払った。リキシャのおじさんは、「少ない」と言っている様であったが時間の無駄、交渉せず無視してスタコラと駅構内へ入って行った。おじさんは何を言っているのか分らないが、犬の遠吠えの様にワンワンと吠えていた。私は確信していた、60パイサ(約30円)が妥当な額だと。
 駅食堂で朝食取ってから、10分遅れのカルカッタ行きの列車に乗車した。運良く座る事が出来た。長い列車の旅であったが、18時40分、〝カルカッタ〟(現在は「コルカタ」と言う)のハウラ中央駅に到着した。外から見たハウラ駅は、ボンベイの駅と同じく、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていた。
 カルカッタの宿泊は、YMACと決めていた。雨が降っていたので、駅前からタクシーで行く事にした。雨に降られたのはいつ以来であろうか。それにしても久し振りの雨であった。牛がたむろしていた為、Hoogly River(フーグリー川)を渡るHowrah Bridge(ハウラ橋)は交通渋滞であった。車から眺めるカルカッタの街の様子は、人が歩道から溢れている様な状態であった。『カルカッタは凄いなぁ』と言うのが私の第一印象であった。交通渋滞があったが駅から40分前後でYMCA(138 Keshab Sen Street Calcutta)に着いた。タクシー料金は、2ルピーであった。これは正当料金の様に感じた。  
部屋はドミトリーでなく、1日4ルピーの1人部屋であった。綺麗とは言い難いが、ニューデリー以外でインド滞在中、最適でしかもシャワー付であった。今夜はシャワーでも浴びて、ゆっくり休みたかった。

浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-25 08:58:20 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
                                △浮浪者の子供との別れ-Painted by M.Yoshida

・昭和44年2月27日(木)晴れ(浮浪者の子供との別れ)   
 列車は1時間30分遅れで朝の8時頃、パトナー駅に到着した。まだ例の子供は私の後方に付いて来た。アラーハーバード駅から私が何処へ行くのか、ずっと見張っていたのだ。『私の後を追い掛けても、食べ物はもうあり付けないぞ。私だっていつまでも君にかまっていられないのだ。』と彼に言いたかった。私と渡辺は駅の食堂へ入った。2人で5ルピー。食事に満足したので、ボーイ(ウェイター)にインドで初めて50パイサのチップをした。
 我々は駅を出て、リキシャを使ってホテル探しをする事にした。子供はまだ私の後から付いて来た。彼の目を見ると、『僕を見捨てないでくれ。』と悲しい目で訴えているかの様であった。『頼むから、もう付いて来ないでくれ。』と言う私の気持であった。リキシャが走り出し、暫らくしたら彼も諦めたのか、その姿は見えなくなっていた。ホッとすると同時に、なんだか悲しくなって来た。
彼と1日一緒に居たので、情が湧いたのも確かであった。旅人にとって情を断ち切るのは、早ければ早いほど良いのだ。しかし彼にとって昨日は、最高の日であった事であろう。残り物と言っても余り手を付けていないタリーを2回も食べられたし、アイスクリームも食べられたのだ。彼にとっては大変なご馳走であったのだ。彼は次の食事をいつあり付けるであろうか。アイスを今度、いつ食べられるのであろうか。私も多少、気に掛かった。立場の弱い、知恵も無い子供の浮浪者・乞食は、生きて行くのに大変であろう。私だって彼の事や乞食の現実を思うと、涙が出るほど悲しいのだ。しかし、乞食や浮浪者(人間)は、生きる執念を持っている。道路や歩道を這いずり回っても、生きて行っているのが現実なのだ。『彼も生き抜いてもらいたい。』そう願うのであった。
 我々は、安いドミトリーを方々探すのにリキシャを5回使った。5回ともリキシャマンは嘘をついた。大体1ルピー前後で乗れるのに、その内1度は、大トラブルがあった。終に宿泊代1人2ルピー(約100円)の所を見付けた。しかし2ルピーのドミトリーにリキシャ代を1人3ルピー近く費やしたとは、情けない話であった。
 我々は一休みした後、夕方ガンジス川を渡る船着場の食堂で食事をした。茫々たるインドの大地と母なる川・ガンジスの豊かな流れを見ながらの食事は、最高であった。『旅は良いなぁ。』としみじみ感じた。

浮浪者の子供との出逢い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-24 14:11:08 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月26日(水)晴れ(浮浪者の子供との出逢い)
 昨夜、インド人の話し声、列車の振動、盗難の心配等で当然良く寝られなかった。夜間の3等客車の旅はしんどかった。
 10時頃、タリー(インドのカレー定食)で朝食を取った。前の座席の子供は腹を空かしているのか、食べたそうに私の方をじっと見ていた。その子供は9~10歳位であろうか、裸足で汚れたヨレヨレのシャツと擦り切れたズボンを履いていた。明らかに浮浪者か乞食だ。どうせ汽車賃も払ってないで乗っているのであろう。カレーは辛すぎて余り食べられないし、他におかずが無いので、殆んどご飯も食べられず、当然残った。その残ったカレー、ご飯、チャパティ、その他を盆ごと子供に示し、「食べるか」と聞いた。彼は分ったのか、盆を受け取った。彼はかぶりついてタリーを食べた。そして彼は満足し、感謝した顔をして私に盆を返した。あどけないインド人の子供の顔がそこにあった。
 私はインドでこれが5回目の列車の旅となった。大体に於いて3等客車に乗っていて、車掌の車内検札があったのは1度も無かった。しかも乗る時、降りる時の改札が無いので、無賃乗車をする気なら幾らでも出来た。
 列車はインド大陸のど真ん中、デカン高原を走っていた。車窓から泥の家や草や葉っぱで作られた、数多く家が目に入った。大都会の近代的建物と原始時代の様な家々、余りにもギャップがあった。暑いせいもあろうか、デカン高原の人々や牛は、乾いた大地の上で死んだ様な感じであった。
 午後1時頃、昼食にボーイが注文を取りに来たので又、タリーを注文した。腹が空いていたが、半分も食べられなかった。私には辛過ぎて、どうもインドのカレーを好きになれなかった。残ったタリーを又、その子供に上げた。暫らくした後、彼は何処かで拾ったか、貰ったのか分らないが、お礼と言う意味を込めてか、タバコ1本を私に差し出した。「キャナワード」(ヒンディー語でありがとう)と言ったら、彼は白い歯を見せ、ニッコと笑った。何処の国でも子供はかわいい。そのかわいい多くの子供達が餓死したり、栄養失調で亡くなったりしている。それがインドを含む後進国の現実であった。
 午後3時頃、私は彼に50パイサ(約25円)のアイスクリームを奢ってやった。彼にとってアイスなんて食べた(舐めた)事が無いのか、この上もないご馳走、もったいない素振りをして舐めていた。しかし、私と彼が通じ合う言葉は無かった。
 この列車はカルカッタ行きではなく、Allahabad(アラーハーバード)行きである事が分ったが、構わず乗っていた。アラーハーバードはデリーとカルカッタ間の丁度中間に位置する、わりと大きな町である。
 午後11時頃、終点のアラーハーバード駅に到着した。カルカッタ行きのホームを聞いて、3番ホームへ行った。まだ大分時間があるし、腹が空いているので駅の食堂へ行こうと思ったら、あの子供は私の後に付いて来た。私の傍にいれば、『食べ物にあり付ける』と思っているのであろう。私は食堂へ入った。子供は入口で立ち止まり、中に入らなかった。彼は入らなかったではなく、入れなかったのである。駅の食堂は一応、高級レストランに属するのだ。その辺の食堂とは違うのだ。従って浮浪者や乞食は入れないのだ。案の定、彼が入口でウロウロしていたら食堂のオジサンに、「あっちへ行け」と言わんばかりに、追い立てられた。ティーとパンを注文した。しかし、空腹なのにパンを食べられなかった。体調、腹の調子がおかしくなって来たのか、不安であった。
 食後、駅構内をウロウロしていたら、前方にリックを背負った日本人らしき人が、これ又ウロウロしていた。よく見たら渡辺であった。
「おーい、渡辺さん。私です。」
「やあーYoshiさん。よく逢いますね。」と彼。
「私より1日早く出立したのに、どうしてこんな所でウロウロしているの。」
「インドの鉄道はもうむちゃくちゃと言うか、酷くってね。」と色々とインドの鉄道の悪口を言い出した。彼も私と同じ境遇、彼の文句にさらに私が体験した事の文句、悪口を重ねるのであった。
私は彼の事を全く知らないのあった。『袖擦り合うも多少の縁、或は旅は道ずれ世は情け』と言った感じだけで、ただ一緒にいるだけであった。
 3番ホームから彼と共にニューデリー発カルカッタ行きに乗った。車内は相変わらず混雑していて、途中駅からで我々は座る事が出来なかった。彼はネパールへ行くのでPatna(パトナー)で下車すると言う。疲れていて身体を休めたかったので、私もパトナーで下車する事にした。我々は車内通路に尻を下ろし、リックを抱えて夜を明かした。インド3等客車の旅は疲れるのであった。

駅員の盥回しと田舎の臭い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-23 09:51:08 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月25日(火)晴れ(駅員の盥回しと田舎の臭い)
 Manmad(マンマード)駅へ早く行けば、カルカッタ行きの3等寝台車を予約出来ると思って、6時半に起きた。
 アウランガーバード7時30分の列車でマンマード(切符代3.30ルピー)へ行った。
ボンベイとジャルガウンのほぼ中間のマンマード駅に到着し、お問合せ・予約窓口で、カルカッタまでの寝台券について尋ねた。そうすると係員は「2番ホームへ行け」と案内した。2番ホームへ行ったら、そこは切符集札所であった。乗車券、寝台券の事でどうして切符集札事務室を案内したのか、不審に思った。又、『インド国有鉄道の盥回しが始まったな』と思った。とりあえず尋ねたら、「出札窓口へ行け」と言われた。出札係は何の説明も無く、再び2番ホームの事務所を案内した。完全に盥回しであった。私はついに頭に来て、「2番ホーム事務所でこちらの窓口を案内され来たのだ。アッチだぁーコッチだぁーと案内するな。カルカッタまでの寝台券は何処で買えるのだ」と文句を言った。文句を言ってもインド人特有の守備範囲以外はノータッチの態度であった。インドの駅員は『旅行者の要求に応えてやろう。正確な、そして親切な案内に努めよう』と言う駅係員としての仕事・心構えが全く欠けていた。
 仕方なく、再び2番ホームへ行った。係員は又来た私を訝った。事情を説明した。彼は「23時に来れば助ける事が出来る」と言ってくれた。お役人様の駅員はカーストの上流階級なので英語が話せるのだ。偉いお役人様からやっとお言葉がいただけたのだ。どう助けてくれるのか分らないが、まだ時間も随分あるし、私は疲れているのでひとまず駅前の安ドミトリー(1.25ルピー)で休む事にした。汚い安いと言っても、これが都会以外のインド人が利用する普通の宿泊所料金であった。
 疲れていたけど、『グッスリ』と言う訳に行かなかった。今日も暑くて、気(け)だるさや気持が悪い様な感じがした。私がボンベイに到着したら、マハーラーシュトラ州は既に夏であった。
暑い所為もあり、宿泊所の近くにコカ・コーラを飲める店があったので今日、私は5回も行ってしまった。店の人はボトルで持って来たので、以前体験したコーラ・トラブル(2月23日)は起きなかった。糖分の取り過ぎの感じもあったが、食事をしていないのでカロリー補給分だ。5回も行くと最後の方は、お店の人達と顔馴染みになってしまった。
 お店の前の通りには、牛があちらこちら屯して、家並みも貧弱であった。歩いていると色んな臭い(ウンコ、オシッコ、牛糞、カレー、ゴミ、汗臭い等々の混ざり合った臭い)が漂って来た。インドのそんな臭いも慣れて来ると、そんなに嫌でもなかった。それはむしろ懐かしい日本の田舎・農村の臭いの様な感じがした。
 日本人が珍しいのか、5回も出歩くとこの辺りで目立つ存在になってしまった。子供達までが、「ジャパニ(日本人)だ、ジャパニーだ。ホワッチュアーネーム?(バカの一つ覚えで、これしか知らない)」とうるさかった。 
 ドミトリーを去り、言われた通り23時にマンマード駅2番ホームの切符集札所へ行った。しかし私に言ってくれた係員は居なかった。他の係員では経緯が分らなかったので、私は事情を説明した。その係員が、「何とかするから、2番ホームで待て。」と言うので、私は2番ホームで待った。灯りも点かない真っ暗なプラットホームに、大勢の人が寝ていた。既に寝台車(寝台券)の事は如何でも良かった。
午前0時30分、カルカッタ行きの列車が入って来た。係員は「これだ。」と言わんばかりに、指差しで示した。車内の様子を見ると3等車は、ギュウギュウ詰であった。乗ろうとしたら、ドアは施錠されているのか、混んでいるので中から開かないよう押さえているのか、いずれにしろ押しても引いてもドアは開かなかった。そうこうしている内に乗客多数を残して、列車は発車して行った。こんな満員状態では、無理して乗りたくもなかった。次の列車まで待つ事にした。
 次の列車がいつ来るのか分らなかったが、30分したら来た。何処行きの列車か分らなかったし、係員から何の指図も無かったが、私は構わずその列車に乗った。座席は空いていて、2人分の座席を1人で使用する事が出来た。私はそこに『くの字』に身体を横にした。

渡辺も去り一人ぼっちになる~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-23 09:01:00 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月24日(月)晴れ(渡辺も去り一人ぼっちになる)
 渡辺は午前7時に去って行った。2人が去って私1人になってしまい、ドミトリーの部屋に取り残された感じで、何か『ポカーン』となった様な、そんな心境になった。
 二人が去ってから私は、カルカッタに着いたらオーストラリアへ行くのであるが、そのオーストラリア行きに不安、心配が生じて来てしまった。『行って見なければ分らない』と思っていたが、荻や渡辺が去って、その不安が私の心に湧いて来た。
 1人寂しく近くの食堂へ昼食を食べに行った。

コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-22 13:46:40 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月23日(日)晴れ(コーラ、バナナ事件と荻との別れ)
 久し振りに10時までユックリ寝ていた。今日も昼食時、インド人と張り合った。食堂で私と荻はコカ・コーラを頼んだ。いつも食堂ではビンのまま持って来たが、この店はコップに入れて持って来た。飲んでみると水っぽい感じがした。『インド人め、人のコーラを飲んでその分量だけ水で薄めたな。』と我々は1口飲んで直ぐ分った。しかし私と荻は全部飲んでしまって、これが失敗であった。しかも生水を飲まない様にしていた私は、飲んでしまった。これは、油断であった。
払う時になって、「貴方達は注文した我々のコーラを半分飲んだから、半分の代金しか払わんぞ。」と我々は言った。
「コーラ全部飲んで、如何して半分だけなのだ。」と店員。
「人のコーラを飲んで、その分、水を入れたコーラなんか全部払えるか。」
「飲んでいない。」
「飲んだ。水を入れて補充したのだ。薄くなってコーラの味がしなかったぞ。だから半分しか払わない。」
「否、飲んでないし、水も入れていない。」
「ボトルでコーラを持って来てくれ。もう一度試して見るから。」
「コーラは売れ切れて、もう1本も無い。」
「無い事はないだろう。おかしいではないか。」
どう考えてもインド人はおかしい。これは証拠隠しだ。それにしても如何してコーラを飲んでしまったのか、しかも全部。これでは我々としても、証明する事が出来なかった。
我々は、『インド人に負けてたまるか。』の一念で店側と、「飲んだ」「飲まない」、「半分払う」「全部払え」、「ボトルを持って来い」「売れ切れた」と英語で完全に通じ合わなかったが、押し問答を繰り返した。そして最後には、インド人に負ける運命にあった。時間を費やすし、疲れるし、最後は『1ルピー位、まぁいいか』と思ってしまったのだ。思ったら負けなのだ。現実には、『たかが1ルピー、されど1ルピー』と思って戦っても、敗れるのであった。
 ずるいのはお昼の事だけではなかった。今日、バナナ1房(一本の大きさは、日本の輸入バナナの半分か3分の1程度。食事代わりに私は度々買っていた。)を買った時もそうであった。1ルピー出して買ったのであるが、ボンベイでは12本付いて来たのに9本だけであった。そこで又も、「3本少ない、3本よこせ」、「駄目だ」の繰り返しの応酬であった。インド商人はがめついし、ずるかった。外国人旅行者は彼等の鴨になっていた。
そうこうしている内にこの時は、英語が話せる人が現れて、「如何したのか。」と尋ねられ、事情を説明した。シーク教徒のその方が今回、私を助けてくれて、バナナ3本取り返してくれた。英語を話せるインド人は、カーストの上層部に位置する人、若しくはシーク教徒の人達であった。彼等は我々の様な貧乏旅行者を公平に見てくれた。特にシーク教徒の人達にはインド滞在中、随分助けて貰った。 
 午後、何もする事が無かった。今夜の11時、荻はマドラスに向けて旅発つと言う。彼はマドラスから船でペナンに渡り、マレー半島を南下し、シンガポールから日本に帰る、と言っていた。渡辺も明日の早朝、旅立つとの事。
 夕食の後、私は何だか寂しい、落ち着かない感じになった。そして夜の11時過ぎ、荻は去って行った。荻とは2月11日、ボンベイの食堂で偶然逢って以来2週間弱、共に過した。私は彼と出逢えた為、ボンベイの滞在やアジャンター・エローラの旅が楽しく出来た。そんな荻と言う旅人と別れるのは、淋しかった。彼とは色々な所で出逢ったが、もう逢える事はあるまい。『達者で、そして、無事に日本に帰国してくれ。』と願った。
 その夜、私は変な夢を見た。ホモに襲われ悲鳴をあげ、そして目が覚めた。薄明かりの中、時計を見るとまだ未明であった。