・昭和44年2月26日(水)晴れ(浮浪者の子供との出逢い)
昨夜、インド人の話し声、列車の振動、盗難の心配等で当然良く寝られなかった。夜間の3等客車の旅はしんどかった。
10時頃、タリー(インドのカレー定食)で朝食を取った。前の座席の子供は腹を空かしているのか、食べたそうに私の方をじっと見ていた。その子供は9~10歳位であろうか、裸足で汚れたヨレヨレのシャツと擦り切れたズボンを履いていた。明らかに浮浪者か乞食だ。どうせ汽車賃も払ってないで乗っているのであろう。カレーは辛すぎて余り食べられないし、他におかずが無いので、殆んどご飯も食べられず、当然残った。その残ったカレー、ご飯、チャパティ、その他を盆ごと子供に示し、「食べるか」と聞いた。彼は分ったのか、盆を受け取った。彼はかぶりついてタリーを食べた。そして彼は満足し、感謝した顔をして私に盆を返した。あどけないインド人の子供の顔がそこにあった。
私はインドでこれが5回目の列車の旅となった。大体に於いて3等客車に乗っていて、車掌の車内検札があったのは1度も無かった。しかも乗る時、降りる時の改札が無いので、無賃乗車をする気なら幾らでも出来た。
列車はインド大陸のど真ん中、デカン高原を走っていた。車窓から泥の家や草や葉っぱで作られた、数多く家が目に入った。大都会の近代的建物と原始時代の様な家々、余りにもギャップがあった。暑いせいもあろうか、デカン高原の人々や牛は、乾いた大地の上で死んだ様な感じであった。
午後1時頃、昼食にボーイが注文を取りに来たので又、タリーを注文した。腹が空いていたが、半分も食べられなかった。私には辛過ぎて、どうもインドのカレーを好きになれなかった。残ったタリーを又、その子供に上げた。暫らくした後、彼は何処かで拾ったか、貰ったのか分らないが、お礼と言う意味を込めてか、タバコ1本を私に差し出した。「キャナワード」(ヒンディー語でありがとう)と言ったら、彼は白い歯を見せ、ニッコと笑った。何処の国でも子供はかわいい。そのかわいい多くの子供達が餓死したり、栄養失調で亡くなったりしている。それがインドを含む後進国の現実であった。
午後3時頃、私は彼に50パイサ(約25円)のアイスクリームを奢ってやった。彼にとってアイスなんて食べた(舐めた)事が無いのか、この上もないご馳走、もったいない素振りをして舐めていた。しかし、私と彼が通じ合う言葉は無かった。
この列車はカルカッタ行きではなく、Allahabad(アラーハーバード)行きである事が分ったが、構わず乗っていた。アラーハーバードはデリーとカルカッタ間の丁度中間に位置する、わりと大きな町である。
午後11時頃、終点のアラーハーバード駅に到着した。カルカッタ行きのホームを聞いて、3番ホームへ行った。まだ大分時間があるし、腹が空いているので駅の食堂へ行こうと思ったら、あの子供は私の後に付いて来た。私の傍にいれば、『食べ物にあり付ける』と思っているのであろう。私は食堂へ入った。子供は入口で立ち止まり、中に入らなかった。彼は入らなかったではなく、入れなかったのである。駅の食堂は一応、高級レストランに属するのだ。その辺の食堂とは違うのだ。従って浮浪者や乞食は入れないのだ。案の定、彼が入口でウロウロしていたら食堂のオジサンに、「あっちへ行け」と言わんばかりに、追い立てられた。ティーとパンを注文した。しかし、空腹なのにパンを食べられなかった。体調、腹の調子がおかしくなって来たのか、不安であった。
食後、駅構内をウロウロしていたら、前方にリックを背負った日本人らしき人が、これ又ウロウロしていた。よく見たら渡辺であった。
「おーい、渡辺さん。私です。」
「やあーYoshiさん。よく逢いますね。」と彼。
「私より1日早く出立したのに、どうしてこんな所でウロウロしているの。」
「インドの鉄道はもうむちゃくちゃと言うか、酷くってね。」と色々とインドの鉄道の悪口を言い出した。彼も私と同じ境遇、彼の文句にさらに私が体験した事の文句、悪口を重ねるのであった。
私は彼の事を全く知らないのあった。『袖擦り合うも多少の縁、或は旅は道ずれ世は情け』と言った感じだけで、ただ一緒にいるだけであった。
3番ホームから彼と共にニューデリー発カルカッタ行きに乗った。車内は相変わらず混雑していて、途中駅からで我々は座る事が出来なかった。彼はネパールへ行くのでPatna(パトナー)で下車すると言う。疲れていて身体を休めたかったので、私もパトナーで下車する事にした。我々は車内通路に尻を下ろし、リックを抱えて夜を明かした。インド3等客車の旅は疲れるのであった。