YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-21 09:33:42 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
   △エローラ石窟群の中の一部、カイラーサナータ寺院)-CFN

・昭和44年2月22日(土)晴れ(エローラの遺跡見学と食堂での水の出し方)
 6時30分に起きて、駅前から7時30分の『一日周遊観光バス』に乗り込んだ。このバス代は3.4ルピーで安かったが、本当はこれぐらいが妥当な運賃であった。昨日のアジャンタ石窟群前の停留所からアウランガーバードまでのバス代4.2ルピーは『ヤラレタ』と言う事だった。
 周遊観光バスが最初の寄った箇所は、アウランガーバードから直ぐ近くの小高い山の上にある『ダウラタバード城』と呼ばれ、11世紀頃の自然の地形を利用したイスラム系最古の城であった。


     △イスラム最古のダウラタバード城-CFN

 次に1時間半位でElora(エローラ)に到着した。AD580年から850年までの間に造られたエローラ遺跡は、ヒンドゥ教、大乗仏教、それにジャイナ教の石窟寺院群であった。一枚岩で出来た巨大なカイラーサナータ寺院は、まさに圧巻であった。その内部回廊にはヒンドゥ教の神々の像が彫られ、神秘的な世界、仏教的で言うなら極楽浄土の世界を抱かせる、空間的世界がそこにあった。


         △エローラ石窟群-CFN

 今日も一段と暑い日で、見学するのも疲れた。私と荻はお昼に遺跡近くの食堂へ入った。イギリスから来た年配の団体客(婦人が目立った)15人程も、店内に居た。我々が席に着くと20歳位の男の〝店員〟(インドでは何処でも、どんな店へ行っても、女性が働いている姿が見られなかった。)が、水が入っている2つのコップの中に〝右指〟(『左手は不浄の手』とみなされている。)を突っ込んで運んで来た。
「いくら右手は不浄ではなくても、コップの中に指を突っ込むな、不潔だ。」と注意した。
そうすると、「そうだ、その通り。」とイギリス団体客のおばさん達も後押ししてくれた。彼はイギリス人団体客にも、指をコップの中に突っ込んで運んだのであろう。彼等もインド人に腹を据えかねていたのだ。しかし彼は私が言った事が分ったのか分らなかったのか、キョトーンとしていた。荻が再度、ジェスチャ交えて言ったのであるが、彼は理解出来ない感じであった。勿論、新たに持って来る訳でもなかった。お客さんにコップの出し方も分らない、衛生観念が違うインド人にこれ以上言っても仕方ないし、それに生水を飲む気もなかった。インド人にはギブアップであった。しかしインドではこの様な出し方は普通で、珍しくなかった。
 エローラ石窟群見物の後、Bibi Ka Maqbara(ビービー・カー・マクバラー、ムガール帝国の王妃の廟墓。)と言う、タジ・マハールに似た回教寺院を見物して、我々を乗せた観光周遊バスは、アウランガーバードに着いた。一日遺跡巡りしてバス代は3.4ルピー、妥当な運賃、そして良い観光めぐりであった。


    △ビービーカーマクバラー回教寺院-CFN

アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-20 09:20:50 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
          △アジャンタの石窟群-CFN

・昭和44年2月21日(金)晴れ(アジャンタの遺跡見物)
 列車は予定より1時間30分遅れて、午前6時30分Jalgaon(ジャルガウン)駅に到着した。ここからAjanta(アジャンタ)行きのバス(2.5ルピー)に乗り換えた。1時間半位で着いたのであろうか、バスは遺跡入口前の停留場に到着した。停留場前にホテルがあり、そのホテル前でウロウロしていたら、上の方から日本語が聞こえて来た。見上げたら日本人のお坊さんであった。彼は2週間前からここに滞在して、仏教の勉強をしているとの事でした。私と荻はお坊さんが宿泊している部屋に荷物を置かせて貰い、3人で遺跡近くの食堂で朝食を取った後、見物に出掛けた。
 【アジャンタ遺跡は、黒紫色の断崖に横穴を28掘って造られた仏教石窟寺院群であった。BC2世紀からAD7世紀までの900年間に、前後5回にわたって掘られたと言われている。AD2世紀末、〝小乗仏教〟の衰退によって一度見捨てられたがその後、5世紀に〝大乗仏教〟が盛んになって再び栄えた。7世紀にバラモン教が仏教徒の王侯を亡ぼした為、その後約1000年間に渡って忘れられ、1817年に英国の1将校によって発見されるまで、この世から殆んど消えていたのでした。】ー参考資料より
 いずれにしても、大勢の僧達は王侯の援助や信者達のお布施を受けながら修行を行い、仏教の教えを会得していたのであろう。私は洞窟内の大きな壁画や仏像、そして2000年以上前、既に壮大な石窟寺院群を造り得る高い文明、美術、技術、膨大な財力があっ事に凄く感銘した。    
 見学後、我々はお坊さんの部屋に置いて貰った荷物を受け取り、Aurangabad(アウランガーバード)行きのバスに乗る事にした。バス運賃4.2ルピーと聞いてビックリ。朝、ジャルガウンからここまで2.5ルピーの倍近くの値段、しかもここからアウランガーバードまでは、距離的に見て同じ位であった。
「如何してこんなに高いの。」と私は車掌に聞く。
「ツーリスト・プライスです。」   
「ツーリスト・プライスとは何なの・・・。」私は驚きと苦情気味に。
「外国人の特別料金です」
「如何して外国人は、特別料金を払わなければならないだ。」
「分りません。乗りたくないなら、バスを発車させます。」と車掌。
『コンチキショウ!我々の弱みに付け込んで、外国人観光客からお金をふんだくりやがって。』と思いつつも仕方なく、バスに乗った。如何してこうも問題を起こさなければならないのか。待てよ、こちらが問題を起こしているのではなく、インド人の方に問題があり過ぎたのだ。
 アウランガーバードの『Government Holiday Camp』と言うバス停で下車し、ホテル探しをした。我々が泊まるホテル(ドミトリー)に渡辺が滞在していて驚いた。彼は我々と同じ日にボンベイを発ったのであった。 
 夕食は3人で近くの食堂へ行った。そこで暫らくの間、今のインドの現状について話し合った。
夜、インド人の若者が同じホテルに居たので、我々が抱いているインドの問題について4人で話し合った。しかし私は疲れていたので、間もなくして先に寝た。荻と渡辺は遅くまでインド人と話をしていた様だった。

ロンとの別れと座席の奪い合い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-19 14:21:37 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△テヘランから共に旅をして来たロン(右)~サルベーションアーミーにて

・昭和44年(1969年)2月20日(木)晴れ(ロンとの別れと座席の奪い合い)
 今日、仕事があると思ってサルベーションアーミーの前に行ったら、誰もいなかった。ロンに聞いたら、「今日も休み」との事であった。今日の休みについては私の耳に入ってなかった。荻が今日、「アジャンタ、エローラを見てからマドラスへ行く」と言うので、いつまでもボンベイに滞在していても意味が無いと思い、私も荻と共にそこを見物して、それからカルカッタへ行く事にした。本当に急遽な話で、決断も行動も早かった。
 午前中、私は早速Student Concession(学生割引許可証)を取りに駅へ行き、午後、カルカッタまでの学生割引3等切符を買った(私は偽の学生証を持っていた)。午後6時30分、私と荻はシーサイド・ホテルを後にした。旅仲間のロンに別れの挨拶をする為、サルベーションアーミーに立ち寄った。
 思えばロンと随分長い間、旅を続けて来た。彼と初めて会ったのが1月18日、テヘランのアミルカビル・ホテルであった。以後、我々はバスでシルク・ロードの旅へ、そしてパキスタンのクエッタ、ラホールを経てインドに入り、ニューデリー、アグラ、ボンベイへと1ヶ月間以上、共に旅をして来た。何人かの旅人と道中共に過ごした事があったが、彼ほどこんなに長く旅をした事はなかった。因みに鈴木との旅は、昨年の7月17日モスクワで知り合い、バルセロナで別れたのは8月6日で、21日間の旅であった。アメリカ人のロンと如何してこんなに長く旅をして来られたのか。気が合った理由は、(私の推測であるが)お互いに強い主張・意見等出さず又、互いに干渉しなかった事が、長く旅をして来られた第一の理由かもしれなかった。
 私がサルベーションアーミーへ行ったら運良くロンは、談話室でくつろいで居た。
「ロン、元気?実は・・・、私はこれから旅発ちます。別れの挨拶に来ました。」
「Yoshi、本当ですか。随分急な旅発ちですね。何処へ行くの。」
「アジャンタ、エローラを見学して、それからカルカッタへ行きます。ロンとは長い間、旅をして来たので別れが辛いです。でも、行かねばならないのです。」
「Yoshiと別れるのは、私も寂しいよ。オーストラリアへ行ってからアメリカへ行く予定でしょう。アメリカへ着いたら連絡して、住所を教えるから。」
お互いに住所交換をして、「ロンはインドの後、日本へ行くのでしょう。私はロンに日本を案内する事が出来なくて、本当に残念です。」
「Do not mind. 私はもう少しボンベイに滞在します。元気で旅を続けて、Yoshi。グッドラック。」と言ってロンは手を差し、私はその手をガッチリ握った。
「グッドラック(ごきげんよう)、ロン。」私とロンは硬い握手をし、そして別れた。
 寂しい様な、悲しい様な感じで、ロンとは何となく別れ難かった。大事な忘れ物をした感じでもあった。でも、これが旅なのだ。彼も元気で旅を続けられれば、と願うだけであった。荻は入口で私を待っていてくれた。我々はボンベイ最後の夕食を、例の中国レストランへ食べに行った。
 午後9時10分の列車(行き先不明)に乗る為、私と荻は1時間前にボンベイ・ヴィクトリア駅に着いた。それから間もなく列車に乗車する事になったが又、突撃態勢で〝陣地取り合戦〟(座席の奪い合い)が始まった。我々は〝敵〟(切符が無いのに座席を先取りして乗客に売り付ける人達、又は3等切符を持っている他の乗客)より奮闘したお陰で、陣地2つ確保する事が出来た。陣地確保後も敵から攻撃を仕掛けられるので、油断が出来なかった。案の定、我々が分捕った陣地をインド人特有の主張で奪い返そうと、攻撃して来た。私と荻は力を合わせ、敵を撃退した。そして列車が動き出すと、いつもの事だが合戦は終結した。

ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め~ボンベイの旅

2022-02-18 08:32:19 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月17日(月)晴れ~19日(水)晴れ(ボンベイを去る日が近付く、そして最近の収入の纏め)

 17日~8時に4人で相乗りしてタクシーで撮影所へ行った。運賃は10ルピーで、割り勘して払った。エキストラの仕事は相変わらずで、席に座ってワイワイやっていればそれで済んだ。楽な仕事だ。昨日、値上げ交渉したお陰で、今日は60ルピー貰った。
撮影所で今日も又、ロンは何処かでコカ・コーラ2本ゲットして来て、1本私にくれた。どうせ何処かでくすねて来たのであろう。彼はこの様な事が上手いのであった。
帰りもタクシーで帰って来た。夕食に又、1人で中華レストランへ行ったら、今日は休みであった。『新年(中国の正月)の為、3日間休む』と張り紙に書いてあった。
シーサイドホテルに私と荻の他に渡部と言う日本人(仮名、以後敬称省略、26歳)が宿泊するようになった。 夜、溜まった日記を書いて過ごした。
 18日(火)~エキストラのバイトに出掛けた。
 19日(水)~今日、エキストラの仕事は休みで午前中、寝ていた。午後、渡辺と共にオーストラリア領事館、或は安く行く為の情報を得る為、JALの営業所へ行ってみた。ここで日本の商売人に会って、話をした。夕食をレストランで、渡辺と共に彼からご馳走してもらった。日本人から食事をおごって貰ったのは、初めてであった。

 最近の収入の纏め~アグラでジャケットを売った代金20ルピー。撮影所でカメラを売った代金170ルピー。エキストラのバイト代35ルピーが3日で計105ルピー、そして、60ルピーが2日で計120ルピー。総収入計415ルピーになった。415ルピー入ったので、金銭的にゆとりが出来た。単純計算であと1ヶ月間、インドに滞在出来る額であった。

宿泊所についてとバイト代値上げ交渉~ボンベイの旅

2022-02-17 14:06:33 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月16日(日)晴れ(宿泊所についてとバイト代値上げ交渉)
 ここのシーサイドホテル(安宿)は、『インドへの門』へ12~13分で行かれ、市の南端に位置していた。他の場所と比較したら割と清潔で静かな、そして路上生活者や乞食を余り見掛けらえない所であった。暑い所為か夜、外にベッドを出して寝ている多くの人々が居た。ホテルの名前は格好良いが、大部屋(ドミトリー)でベッドも部屋も汚く、いろんな臭いがした。そんな部屋にベッドが1階に15台程あった。私のベッドは2階へ上る階段脇にあり、2階にも部屋があった。1階は勿論、2階の話し声も直に聞こえて来た。インド人は寝るのが遅いし、ペチャペチャといつまでも話をしていた。大体、12時(0時)近くにならないと寝ないのだ。そして朝は遅くとも、7時頃に起きていた。いずれにしてもこの部屋は蒸し暑く、それに環境が悪いので、ここ何日か寝不足気味で眠いし、暑さで身体もだるかった。そんな訳で今日、私は座っているだけのバイトでも眠く身体もだるく、仕事が辛かった。
 エキストラのバイトが終って帰ろうとしたら、送迎用のバスが故障して動かなかった。撮影所のスタッフによると、「タクシーが来るまで時間がかかる」と言う事であった。それでアメリカ人を中心に、「タクシーが来るその間に、バイト代が少ないから皆で交渉しよう。」と言う事になって、私も彼等の後に付いて行った。ある建物の会議室で撮影所側代表と我々20名程で話し合った。
その結果、「明日からタクシー代無しで、1人35ルピーから60ルピーにアップ。」と言う事で交渉は、意外に早く纏まった。映画会社は儲かっているのか、短い交渉時間で倍近くの賃上げになった。下層労働者の20日分の収入が1日で貰えるなんて、私には考えられなかった。我々はタクシーで分散して帰って来た。当然、今日のタクシー代金は払わなかった。勿論、運転手は請求しなかった。映画会社が払ったのだ。
 夕食は又、あの中華レストランで炒飯を食べた。

ショーを見に行く~ボンベイの旅

2022-02-17 14:04:09 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月15日(土)晴れ(ショーを見に行く)
  エキストラのバイトは、昨日と同じであった。
夜、荻とKhartoum(ハルツーム)のショーを見に行った。開演は9時30分(インドは夜の部のショーや映画上映時間が遅い)、入場料金は3ルピーであった。

映画のエキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

2022-02-16 16:49:14 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)
 私と荻は欧米人と共にサルベーションアーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。歩道は多くの寝ている乞食、路上生活者や歩行者、そして道路は車とリキシャで相変わらず溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイはもう何から何まで凄く、そしてあらゆる面で雑多な都市であった。
 40分位で撮影所に到着した。そこは市内から25キロ程(タクシーで10ルピーの区間)の郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約50円、闇両替は39円)
 午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲気の様な酒場であった。我々外人はただ席に座って、酒(コーラを薄めたドリンク)を飲みながらお互い雑談し、インド人スタッフが「舞台に踊り子達が登場するから、拍手してくれ」と言う指示、また「踊り子が登場したと仮定して、皆一斉に手を叩き、そして踊りが終ったら、皆は席を立って手を叩き、踊り子達に向かってブラボーとか、ワンダフルとか、ベリーナイスと言って大袈裟に彼女達を称賛してくれ」と言うので、拍手や踊りが終ったと仮定して手を叩き、大袈裟に称賛の言葉を投げ掛ける、そう言った練習を何回か繰り返した。
 本番は午後3時頃からであった。我々は酒場で酒を飲み、或はお互いに雑談をして酒場の雰囲気を作った。間もなくサリーを纏ったインド美人の踊り子4人が舞台に登場、そこで一斉に拍手した。そしてインドの音楽に合わせて踊りだした。直ぐに踊りは終了した。そこで我々は拍手喝采し、そして席を立ち彼女等に、「ブラボー、ベリーナイス、ワンダフル」と言って大袈裟に称賛した。この様な部分的な撮影を繰り返し、エキストラの仕事は1時間半位で終了した。
 しかしこんなエキストラの撮影で良い映画が出来るのか、疑問であった。私は映画撮影の事を分らないが、そんな感じがした。
 所で、インド映画の特徴は、勧善懲悪の単純なストーリーで、歌と踊りがいっぱいの娯楽に徹した映画と言われている。ストーリーの中で裸のセックス場面やキッスの場面も無い、純情その物と言う。女優の水着姿の場面があれば、観客は口笛を吹いたり拍手をしたりして、大騒ぎをするそうだ。それは我々のエキストラの仕事と重なり合う場面でもあった。  
 話は逸れたが、それにしてもただ座っているだけで、しかもトータルにして3時間、それで35ルピーとは良い仕事であった。インドの下層階級の人が1日重労働して2~3ルピーなのに、少ない時間でその10倍以上貰ったのだ。私は満足であった。因みにインド中流クラスの1ヶ月の収入は、180~230ルピー位であるらしい。それでもアメリカ人の中には不満を漏らしていた人も居た。「1日拘束され4ドルとチョットでは少なすぎる。アメリカで1日働くと軽く12~15ドル(87~109ルピー)は稼げるのだ」と。
 撮影終了後、監督らしき人(スタッフではなかった)に、「貴方は随分良いカメラ持っていますね。」と声を掛けられた。実はこの時、私は肩からカメラをぶら下げ、撮影所内を歩いていたので、彼の目に留まったのだ。
「イエス、キャノンのカメラで高かったよ。」と私。
「見せてくれる。」と彼。 
彼はカメラを良く見てから「売ってくれないか。」と言って来た。
それは私にとって渡りに船であった。しかし私は売る気のない素振りをして、わざと考え込んだ振りをした。
「良い値で買わせてもらうよ。」と彼。街では最も高い値で「100ルピー」と言っていたので、「200ルピーなら売りましょう。」と私は言った。
「200ルピーは高い。150ルピーで買います。」と彼。
「150ルピーは安すぎる。170ルピー、これで如何でしょうか。」と私。
「それでは170ルピーで買いましょう。」と言って商談は成立した。彼はその場でズボンのポケットから札束を出し、その内から170ルピーをポンと支払ってくれた。
 バスで帰って来た。先日、カメラを売り歩いている時に街で中華レストランを見付けたので今日は懐が暖かいし、夕食はそこへ行って炒飯(5ルピー)を食べた。最近ろくな物しか食べていないので、頬っぺたが落ちるほど旨かった。

エレファンタ島の石窟寺院見物~ボンベイの旅

2022-02-15 13:53:55 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△ボンベイの偽物の万年筆屋さん~「撮るな」、と言って手を出した瞬間

・昭和44年2月13日(木)晴れ(エレファンタ島の石窟寺院見物)
 私、ロン、竹谷、そして竹谷の知り合いの日本人と共に4人で、『インドへの門』付近から8時30分発のモーター・ボートに乗って〝Elephanta Island〟(エレファンタ島、ヒンドゥ教の石窟寺院があり、ボンベイの観光名所の一つ。)へ行った。 
 海は穏やかで、島まで東海上10キロ、約1時間半のクルージングを楽しんだ。この船賃は往復で3.20ルピーであった。島は亜熱帯風の小さな島であった。船着場から長い石段を昇って行くと、そこに石窟郡があった。パンフレットによると7つの石窟があるが、1番手前の石窟がメインで、ヒンドゥ教の彫刻の宝庫となっていた。壁面いっぱいにシヴァ神に関係する神々が彫られていた。圧倒するのは壁面に高さが6mもあるシヴァ神も彫られていた。この石窟は、6世紀から8世紀に掛けて建造された物で、ヒンドゥ教の代表的な石窟の一つであると記されていた。見学後、島で泳ごうとして海水パンツを持って来たが、我々が予定している帰りの出航時間の都合で時間が無く、海水浴は出来なかった。
 インドへの門に午後1時30分頃、船は到着した。その後、カメラを売りに又、街へ出掛け、いつもの通りを歩き回った。何回もこんな事をしていると、呼び掛けて来るストリートボーイ達も、そして連れて行かれる元締めの所も同じであった。そんな事を繰り返している内、私は彼等と顔馴染になったが、結局良い値で売れなかった。
 通りを歩いていると、歩道に簡易の店を設けた商人が、「ヨーヨージャパン、ヨーヨージャパン」と言って万年筆を売っていた。それはパイロット万年筆で、メイドインジャパンと表示されていた。しかしそれは日本製のパイロット万年筆に似ていたが、日本人なら直ぐにで分かる模造品、粗悪品であった。インドは貿易が自由化(保護貿易政策をしている)されていないのだ。万年筆、時計、カメラ、電化製品等輸入していないので、インドにはある訳ないのであった。 
「私は日本人だから良く知っているが、これは日本製の万年筆ではない。偽物だ。日本製と言って売るな。」と英語で言って商人に注意を促した。分ったのか、彼は狼狽した。
「証拠として写真を撮る。」と言ってカメラを構えた。
「止めてくれー。」と彼は言ってカメラの前に制止の手が伸びて来た。「カシャ」、シャッターの音がした。
偽物まで出回る事は、パイロト万年筆等の日本製品が優秀な証で、まんざら悪い気はしなかった。 
 夜、私と荻はタクシー(80パイサ)に乗ってEros Theatre(エロス映画館)へ映画を見に行った。上映時間は午後9時30分から、入場料は1.5ルピー、上映題名はBullt(洋画)であった。入場券を買う時、我々がチョッと買うのにまごついていたら、「You are wasting time.」とか言うので、その生意気な若い係員に2人で猛反発した。
 インドはまだテレビが普及されてない様で、唯一の娯楽である映画は、インド映画にしても洋画にしても、映画館は何処でも繁盛していた。我々の席は1階の特別席であったが、それにしても入場料1.5ルピーは、下層階級の人々にとって、1日の稼ぎに相当するので、映画を見るのも夢の世界であった。 
 明日、映画のエキストラのアルバイトがある。これはロンから情報を得たのである。映画会社が欧米人の若者達をエキストラとして20名近く、募集したのだ。「Yoshiも行って見ないか」とロンに誘われ、私と荻も参加する事にした。

路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅

2022-02-14 15:52:13 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月12日(水)晴れ(路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨)
 ボンベイの街も通りには、路上生活者や乞食が多かった。実際に彼等の区別は出来ないのだ。「バクシーシ」と言って金を乞われれば乞食だし、ただそこにいれば路上生活者だ。彼等は似た様な人達であった。大半の彼等は、生気を失った表情でうずくまっているか、何も敷かずに寝転がっているだけであった。中には寝転がったままで身動きしない、まるで死人の様な人もいた。彼等の内で、弱衰死をしていても不思議でなかった。
又、乳呑み児を抱えて、しゃがみ込んでいる母親達もいた。母親の栄養状態が悪いのか、萎んだオッパイを吸っても乳が出ないので「オギャ、オギャ」と力無く、やっと泣いている赤ん坊もいた。或は栄養状態の悪い乳児の顔に群がっている蝿を追い払おうともしない、何の気力もない虚脱状態の母親もいた。今日もカメラを売る為、ボンベイのそんな街路地を彷徨した。
 何回か当たりはあったが、又もや竿を引き上げる程のものでなかった。大体に於いてインド人(ストリート・ボーイや元締め)は、世界的に有名なキャノン・カメラの事も、カメラの知識、その取り扱いも知らないのであった。しかも値段もまちまちで、最も良い値で100ルピー(約4,000円)では、私は全く売る気にならなかった。1日中歩いても売れないし、暑いし、疲れたし、彼等(乞食や路上生活者)のウンコを踏ん付けてしまうし、もう散々であった。
 ロンは空きベッドをゲット出来たので私から離れ、サルベーションアーミーへ移ってしまった。空きは1人分しかなかったのだ。ロンのベッドに移って来た荻と共に、私は引き続きシーサイド・ホテル(ドミトリー)に滞在する事にした。

一日中カメラ売りと荻さんとの再会~ボンベイの旅

2022-02-14 09:00:55 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月11日(火)晴れ(一日中カメラ売りと荻さんとの再会)
 朝から暑かった。朝食を食べて、サルベーションアーミー(救世軍)へ泊まれるか如何か行ってみたが又、駄目であった。
 所で、オーストラリアへは3月19日までに入国すれば良いのだ。まだ1ヶ月以上、インドに滞在出来るのだ。しかし1ヶ月間滞在に必要な所持金は、オーストラリアへの旅費の事を考えると、余り手持のお金を使いたくなかった。私の売れる物、と言ったら腕時計かカメラであった。腕時計は旅をするに何かと必要だ。後は売れるものと言ったらカメラだけであった。
 インドは不潔だ、衛生面が悪い、乞食が多い、カレーは非常に辛く満足に食べられない、それに口に合った食べ物が無い。そんなインドで手持のお金を使いたくなければ、早くインドを出れば良いではないか、と思うのだ。しかしその反面、ヨーロッパや他の国には無い、旅人の心を引き寄せる何か、がインドにはあった。 
 私の売りたいキャノン・カメラは、就職した年の昭和38年12月の暮れ、初めて会社からボーナスとして4万円支給された時に、2万円で買った物であった。私の初めての高価な買物で、愛着のあるカメラであった。因みに夏のボーナスは6ヶ月経っていなかったので、1円も支給されなかった。
 カメラと言えば旅行始めた頃、構わずパチパチ撮っていた。だがヨーロッパ列車の旅が終ってからは、外国に対する新鮮味が無くなり、写真を余り撮らなくなっていた。昨年8月末、私はペンフレンドのシーラと会い、彼女とロンドン見物をした。その時、ロンドンの名所・旧跡を何枚か撮ったが、10月のある日、アパート近くの写真屋で現像をお願いしたら、どんな訳か殆どのネガが真っ黒で、現像出来なかった。折角シーラに会ったが、2人のツーショットの写真は1枚も無かった。こればっかりは本当に残念であった。彼女の実家・ウェールズへ行った時も全く写真を撮らず、彼女の家族やウェールズの写真は、1枚も無かった。これも今考えたら、本当に残念であった。如何してあの時に1枚も撮らなかったのか、不思議であった。ともかく勝手から5~6年経ったそんな私のカメラであったが、愛着があり手放すのは残念であるが、そんな事情で売るのも仕方がなかった。
 私はサルベーションアーミーの宿泊を断られた後、1人でカメラを売る為、街に出た。ストリートボーイが声を掛けて来るのを宛ても無く、1日中街の中を歩き回った。何回かストリートボーイの喰い付きはあったが、「グイッ」と竿を引き寄せるそんな〝当たり〟(150ルピー、約6.000円で売りたかった。)は無かった。 
 夕方、宿泊近くの街角にある食堂で夕食を 取っていたら、アグラの町で見掛けた日本人が入って来た。彼は私とロンがボンベイ行きの列車に乗る為、駅へ行く途中、向こうから馬車に乗って遣って来たので、ロンが日本語で、「もしもし」と言ったが、気付かずに行ってしまった旅人であった。私が「今晩は」と言って彼にその事を話したら、彼は「イヤー失礼致しました。全く気が付きませんでした」と言った。彼と2言3言、話をしていたら、旅慣れたそれらしき日本人が又、この食堂に入って来た。彼をよく見たら、何処かで会った事のある人ではないか。「そうだ、あの荻さんだ。」こんな所で逢えるなんて、私の鼓動は、早くなっていた。
「荻さんではありませんか。」と私。
「・・・・・?」
「Yoshiです。オスロ、サルプスボル、コペンのユースで会ったYoshiです。」
「Yoshiさん?ワァ・・懐かしい。随分と旅慣れた様子に変わってしまったので、一瞬分らなかった。」
「こんな所で又又逢えるなんて、奇遇ですねぇ。」と2人が同じ事を言って、ガッチリ再会の握手をした。私は嬉しくて仕方がなかった。
最初に荻さん(仮名、以後敬称省略)と出逢ったのは、昨年7月25日のオスロのユースであった。この時、彼はちょび髭を生やし『旅慣れた感じの日本人』と言った印象だけであった。お互いに会話も無かった。2回目はその翌日、オスロから南下したサルプスボルのユースで再会した。ユースの宿泊者は私、鈴木、そして荻の日本人3人だけであった。この時、我々は大いに語り合った。そして3回目は、7月28日のコペンハーゲンのユースで逢ったが、この時も余り話す機会が無かった。いずれにしても彼と4度目の再会は、コペンハーゲン以来7ヶ月振り、お互いそれ以来の簡単な状況について話し合った。彼も無事に旅をしているので本当に良かった。それにしても旅をしていると面白い。「偶然」、「奇遇」等、色々な言い方がある巡り逢いがあるが、これ程の巡り逢いが、私の人生に2度とあるであろうか。