YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅

2022-02-13 14:39:47 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月10日(月)晴れ(ボンベイの洗濯屋さん)
 朝や夜のニューデリーは、寒かった。だがかなり南下して来たのか、夏の気候の様にマハーラーシュトラ州は列車に乗っているだけで汗が額からポタポタ落ち、暑かった。
 朝食は食べたが、昼食は抜いた。列車はボンベイ駅に近づきつつあるらしく、速度を落として走っていた。バラックの家々が直ぐ線路脇まで建てられ、それらの家々が延々と続いた。そして線路内を大勢の人が構わず歩いていた。何とも形容し難い光景であった。投石されても怪我をしない様、乗客各自が窓の木製のカーテンを閉めた。インドでは大都市周辺では投石があるらしく、列車がデリーに近づいた時も、乗客が一斉にカーテンを閉めていた。列車は、2時30分頃に到着した。ボンベイのターミナル駅は、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていて、街の建物も英国風であった。ボンベイ(現在は「ムンバイ」)は、マハーラーシュトラ州の州都、アラビア海に面するインドの西の玄関、東のカルカッタ(現在は「カルカタ」)と並び、インドで最も西欧化の進んだ商業都市である。
 私とロンはそんなボンベイに足を踏み入れた。駅を出て、歩いて間もなく大きな洗濯場があった。コンクリートの洗い場で何人もの裸の男達が洗濯物を頭上に持ち上げ、それを何回も繰り返してコンクリートに叩きつけて洗濯していた。変わった洗濯方をしているので、我々はそれを眺めていた。洗濯物の量が多いので、個人的に洗っているのではなく、洗濯を商売にしている様であった。電気洗濯器が無いのであろう。彼等は洗濯物を叩きつけて洗濯する方法の他に、足で踏んで洗濯する方法、或は手で揉んで洗濯をしていた。いずれにしてもコンクリートに叩きつけたら生地が痛むであろう。そうでなくてもインドの生地は余り良くはないのに(?)、とその様に思いながら暫くの間見物していた。
 所で、私はまだロンに言ってなかったが、実は心の中で、『今日、駅に着いたらロンと別れて1人、Buddhist Temple(仏教寺院と言って、インドにある仏教のお寺は無料で宿泊させてくれると言う情報を得ていた)へ行って、そこに宿泊しよう』と思っていた。しかしロンと別れるのも寂しいし、今日は暑いし、腹は減っているし、道は分らないし、探し回るのが億劫であるし等々、自分に都合の良い理由を付けて、我々が泊まろうとしているThe Salvation Army(救世軍の宿泊所)へロンと共に行く事にした。
 我々が汗をかきながら通りを歩いていると、多くのインド人は素足で歩いていた。足が蒸れて来たので、『私も素足で歩こう』と思い、試しに素足で歩いてみた。その途端「アチチチ」、道路は焼け付く熱さ、とても素足では2歩も歩けなかった。「インド人の足裏とヨシの足裏とでは、皮膚が違うのだ」とロン。全くその通りであった。
 サルベーションアーミーに着いたが、既に満室との事で我々は泊まれず、ガッカリ。ここの前で1時間ぐらいウロウロしていたら、ニューデリーの部屋で一緒だった竹谷に再会した。彼はここに宿泊していたのだ。確か彼は我々より2日早くニューデリーを発っていた。でもこんな所で又出逢うとは、本当に旅は面白い。
 ロンはあちこちと宿泊探しに歩き回っていた。私は2.3人の日本人とここで話に花を咲かせていた。彼等の話しによると、「シーサイドホテル(ドミトリー)が安い」と言うので、宿泊探しから戻って来たロンと共にそのホテルへ行った。宿泊料金5ルピーは思ったより高いらしく、ロンは怒った。我々は一旦引き上げた。しかし、結局他に適当な宿泊場所が無く又、戻って来て泊まる事になった。
 夜、私、ロン、竹谷は他の日本人2人と共に港の方へ散歩に出掛けた。海に面する海岸通は椰子の木が繁り南国風で美しく、アラビア海の塩の香りが鼻をくすぐった。〝Gateway of India〟(『インドへの門』と呼ばれ、パリの凱旋門に似ていた)及びその周辺は、海風に吹かれながら散歩を楽しむ上流階級のインド人家族の人々も見うけられた。我々も涼しい塩風に吹かれながら、安らぎの一時を過ごした。

インドのカレー定食の話~ボンベイの旅

2022-02-12 17:58:47 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・インドのカレー定食の話
 インドの大衆食堂や列車の食堂では、カレーセットと言うか、カレー定食があった。普通、カレーと言えば「タリー」と言うこのカレー定食を指す。カレーの種類は野菜カレー、マトン・カレー、チキン・カレーがあったが、豚肉や牛肉の入ったカレーは無かった。インド人は宗教上ベジタリアンが多いので、特にマトンやチキンのカレーを注文しなければ、野菜カレーが出る。
 今日(1969年2月9日)、食堂車へ行ってタリーを注文したら野菜カレー(1.5ルピー)であった。出された野菜カレーは、お盆にアルミ製のボールが5つ(値段によってボールの数が異なる)載せてあり、その内の3つのボールに強烈に香辛料やスパイスがきいた、種類の異なったカレーが入っていた。残りの2つのボールには、ヨーグルトと豆のスープが入っていた。叉そのお盆の上にご飯茶碗に3杯分位の量のご飯が山盛りに出され、更にそのご飯の山にチャパティ2枚が載っていた。その他、お盆の上に玉ネギ(日本の玉ねぎと違う。紫色で大きさ・形はラッキョウより少し大き目であった。)も付いて来た。カレー定食のビッグな量には驚きであった。寧ろ、我々日本人には多過ぎる感じがした。しかしそれでもインド人は、ご飯をお替り(お替りは自由)する人もいた。
 インド人の食べ方は、カレーをご飯にまぶせ、直に右手でカレーとご飯を満遍なく掻き回し(と言うより、こねくり回し)、右手でそれを掴んで食べていた。何だか汚らしい食べ方であった。手を使って食べる習慣がない私は、給仕の人にスプーンをお願いして食べた。
野菜カレーと言っても中にジャガイモ、人参、玉ネギ等の野菜が入っているのか分らず、本当に野菜入りカレーなのか疑う程であった。ご飯は日本米の様にフックラ、モチモチ感がなく、ボロボロしていて不味かった。インドのカレーは、我々が普段食べているカレーと比べて非常(7倍から10倍位)に辛いので、私はほんの少しご飯にカレーを掛けるだけで、ご飯も半分食べるのがやっとであった。又チャパティも少しカレーを付けて1枚食べるのがやっとで、後はいつも残した。とにかくカレーは非常に辛く、ご飯やチャパティも不味く、それでも私は無理して腹の中に入れていた。
 ヨーグルトも何か変な味がして、飲める代物ではなかった。カレーが辛過ぎる人は、ヨーグルトをカレーに混ぜて食べると辛さが薄まると言うのでやって見た。でも返っておかしな味になってしまって、余計に食べられなかった。インドの生水は、コレラや赤痢になってしまう恐れがあるので、カレーが辛くても絶対に飲む気になれなかった。インドは、タリーを食べるのも苦労した。このカレー定食は、安い所で1ルピーから高くても2ルピー以内で食べられた。

列車転覆事故を見る~ボンベイの旅

2022-02-12 17:47:13 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月9日(日)晴れ(列車転覆事故を見る)
 ロスは、「後1泊してデリーへ戻る」と言う事で、私とロンは彼と別れた。我々がリキシャで駅へ向かう途中、馬車に乗った日本人2人が向こうからやって来た。ロンが、「もしもし」と日本語で話しかけたが、知らん振りして行ってしまった。
 我々はアグラ駅からBombay(ボンベイ=改名し現在はムンバイ)行きの列車に乗り込んだ。我々は1人4.5ルピーの3等の寝台車を取った。私にとって3等寝台車は混雑している3等客車より余程良かった。この寝台は身体を横に出来る十分なスペースがあり、それは良いのであるが、毛布が無く、又ベッドはインド人が裸足のまま使用し、鉄道側はカバーを取替えないし、洗濯もしないから極めて汚れていて、不潔さを感じた。そして鉄格子の窓になっていて、まるで牢屋の様であった。それでもこの寝台は、3等客車より余程益しであった。
 3時頃、我々は食堂車で昼食を取った。私はインドの代表的な料理であるカレー定食(1.5ルピー、約75円)を注文した。ロンはカレーが食べられないので、コーラを2本飲んで食事代わりにした。しかし彼は1本分しか払わなかった。彼は良い奴だが、どうもずるい所があった。私は夜も、カレー定食を食べた。
 所で、昼間ある区間を列車がノロノロ走っていたので、如何したのかな?と、外を眺めていたら、貨物列車の転覆事故(機関車と貨車10数両程が脱線し横倒していた。)を見てしまった。案の定、インドは転覆事故や列車正面衝突の事故が多発している、その証明でもあった。
 夜、昼間の事故を思い出した。「この列車は大丈夫なのであろうか。」と心配になるやら、不潔な寝台の寝心地の悪さで、寝付きは余り良くなかった。「この列車の機関士さん、どうか居眠りをしないよう、安全運転をお願いします。」と私は祈った。

お酒とタバコの話~アグラの旅

2022-02-11 09:43:30 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・お酒とタバコの話
  インドはイスラム圏の様に飲酒についてそれ程厳しくないが、州によって法律で禁酒されている所もあるそうです。いずれにせよインド人は、お酒(アルコール類)を飲まない習慣になっている様であった。そんな関係か、街にはお酒を売っている酒屋が無かったし、街の食堂(高級レストランは除く)でも、お酒は置いていなかった。外国人が泊まる高級ホテル(外人観光客用。我々が泊まるドミトリーでは飲めなかった)ではお客さんの為に用意されていた。飲みたい時は今日(1969.2.8)みたいに高級ホテルへ行って飲む事(小瓶のビール1本が5~6ルピー)が出来た。しかしこの国の低所得者は、1日働いても2~3ルピーの稼ぎで、ビール1本すら飲む事が出来ないのだ。高い、インドは国民にとってお酒が非常に高いのであった。
 所で、ニューデリーやボンベイ、カルカッタと言った大都市の路上で、よくタバコのばら売りをしている売店が目に付いた。インドは20本入りのタバコを1箱買うと2ルピー(約100円)から3ルピーであった。タバコが高いので1箱買えない人達の為に、店主は1本毎にばら売りをしていた。銘柄によって異なるが、1本10パイサ(約5円)から15パイサで売っていた。これまた一般の人達にとって、タバコも非常に高かった。ましてやリキシャのオジサン達は一生懸命にペダルを漕いで1日2~3ルピーの稼ぎなので、彼等にとって1箱買うのは夢の世界であった。
 インドは、〝酒税、たばこ税が世界で一番高い〟(一般人の収入と比較して、その率が高い)と感じた。そう言う訳か、インドに一ヶ月以上滞在したが、一般のインド人がタバコを吸っている、アルコール(ビール)を飲んでいる姿を、私は見た事が無かった。

サリーとインド美人の話~アグラの旅

2022-02-11 09:09:22 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△可愛い子供とカラフルで美しいサリーを纏った婦人達―アグラ城にて

・サリーとインド美人の話
  アグラ城見学の時、サリーを着た美人のご婦人達が印象的であった。さすがにインドのみならず、世界的にも有名な観光地へ来る様なインド人は、上流階級を感じさせる人達であった。特にご婦人達が着ているサリーは、色々な柄や模様が描かれ、艶やかで、街で見慣れた汚らしいサリーとは断然違っていたのが印象的であった。
 サリーとは、インド女性が纏う民族衣装の事だ。美しい色鮮なサリーは、男性が頭からスッポリ被って着る白のシャツ(汚れて茶色に近い)をだらりと裾に出して、白のパジャマの様なだぶだぶなラッパズボンとは対照的であった。私は『サリーは着る』とばかり思っていたのであるが、『巻く』のが本当なのだ。サリーは、幅1m長さ5m程の1枚の布で出来ていて、それを腰にグルグルと巻き、残り半分を上体に掛けるのである。色は大体、茶系統か赤系統が多かった。従って『サリーを着る』と言う、言い方は間違っているので、『纏う、或は巻く』といった言い方が正しい。
 インド美人は、日本や欧米と違って美人体型が少し異なっている様であった。美人の基準は、少し肉付きの体(太っていては駄目)で、どちらかと言えば黄色か白色系の肌(肌が真っ黒では駄目)、そして顔は整っている顔立ちが条件である様であった。少し肉付きの体が美人の条件、その背景には、ろくに食事が取れない人々が多い所為か、皆スンナリ(痩せている)なので、「私は上流階級なので、充分に食事を取っていますヨ。その証拠として貧乏人の様に痩せていませんヨ。どうぞ私の体型を見て下さい」と言っている様であった。何処の街を歩いていても、綺麗なサリーを纏(まと)ったご婦人は少し肉付きの体であったし、インド映画の看板やブロマイドの女優達、或は実際にボンベイの映画撮影所で会った女優さん達も皆、肉付きのある女性であった。

アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅

2022-02-10 16:05:56 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△私と右は同行者の中村(仮名)。王様が王妃の死を悲しんで建てられた墓宮、調和の取れた白大理石造りが美しかったータジ・マハールにて

・昭和44(1969)年2月8日(土)晴れ(アグラ見物と元インド国民軍兵士)
 今日、アグラへ行くので6時に起きた。私とロンは、ニューデリー駅までタクシーで行った。着いて運賃が「1ルピー」と言うので、ロンは「高い」と言って怒ったが、まぁ妥当な運賃であった。インドのタクシー運賃は、『最初の1.5キロまで80パイサ、以後1キロ増すごとに50パイサ加算』と言う計算から行くと、我々が乗った距離はそんなになかったので、80パイサか1ルピー30パイサでなければならなかった。運賃が丁度1ルピー、と言う事は無いので、ドライバーは半端な運賃は切り上げて請求するのが常であった。インドのタクシーは、メーターもドライバーが言う運賃も当てにならなかった。
一昨日、私は切符を買うのに出札口を盥回しにされたのに、今朝は15分で切符(ニュー・デリー~ボンベイ間、3等列車38.95ルピーを学生割引だからその半額の運賃)が買えた。あの時は、如何してあんな事になったのか、未だに理解に苦しむのでした。
 私とロンは駅構内でロスが来るのを待っていたら、ロンが宿泊代を払わず、しかも自分が使っていた毛布を持って来てしまったので、そこのマネージャーが血相を変えて駅まで我々を追って来た。ロンと彼はやりあったが、悪いのはロンの方であった。彼は直ぐに毛布を返し、宿泊代を払った。それにしてもマネージャーはよく追って来たものだ、と感心した。普通のインド人であったら何処へ行ったか分らないものであるが、我々外国人旅行者は、行くルートが決まっているので、彼等からすれば見つけ出すのは簡単なのであろう。
「ロン、マネージャーが大声を出して追って来た時は、ビックリしたよ。私は5ルピー払ったが、如何してロンの宿泊代が1.5ルピーで済んだの」
「ヤー、ビックリしたよ。宿泊代の事は私にも分らない。でも安いに越した事はないよ」とロン。

        
△左からアグラ見物を共にしたロス、私、そしてロンーアメリカ大使館裏庭にて

 そんな事を話しているとロスがやって来た。すると一昨日の夜、ミカドで会った〝それらしき旅人〟と再び駅構内で出逢った。彼の名は、中村さん(仮称、以後敬称省略)と言って、頭の毛も髭も伸び放題、長い間、旅をしている感じであった。聞けば彼もアグラへ行くとの事、4人で共に行く事になった。しかし中村は乗車券を所持しておらず、無賃乗車をするつもりであった。私が3等車に乗ろうとしたら、ロンが「1等車に乗ろう」と言うので、我々は構わず乗り移った。さすがに1等車は、綺麗でゆったりした座席であった。この車両には我々の他、数名しか乗っておらず3等切符で構わず座席に付いた。
 7時に列車は出発した。線路端近くまでバラックの家々が密集して立っていて、暫らくの間そう言う光景が続いた。インドでも線路内は、当然立ち入り禁止のはずだが、大勢の人々が構わず線路内を歩いていた。必然的にこんな状態なので、列車はスピードを上げられず、ノロノロとニューデリーを進出した。      
 我々4人が1等車に乗っていたら、間もなく車掌が車内検札にやって来た。車掌に、「この切符では1等車に乗れないので、3等車へ移動しろ」と言われてしまった。ロンが、「アグラまで1等車の切符を買った」と言ってみた所で、そんな屁理屈は通用せず、移動する羽目になってしまった。さすがにインドでも一番の観光地・ニューデリーとアグラ間を結ぶ急行列車だけあって、3等車でもそれ程汚くなかった。3等車は「切符拝見」の車内検札が無く又、アグラ駅で下車の際の改札(乗車する際の改札も無い)も無かったので、中村はスンナリと駅を出られた。そうなのです、彼はニューデリー・アグラ間を無賃乗車したのだ。
 我々が駅前をウロウロしていたら、「アグラに観光で来られた日本の方ですか」と突然、流暢な日本語で40歳台後半のタクシー運転手に声を掛けられビックリした。「そうです。観光です」と私は答えた。「アグラはTji Mahal(タジ・マハール)の他に見所が多くあり、離れているので歩きは無理です。1日1人8ルピー(4人で32ルピー)で有名な場所を全て回るので、私の車を利用しませんか」と運転手に勧められた。
我々4人は相談をして高くないと判断(如何言う訳か、値引き交渉をしなかった)し、彼にお願いする事にした。それに日本語を話せるのが心強く、普通のインド人に比べて何か誠実感があった。  
 我々は運転手に2ルピーのホテル(ドミトリーで約100円)を案内してもらい、一先ず部屋に荷物を下ろしてから観光する事にした。
「如何してそんなに日本語が上手なのですか」と私は聞いた。
「独学で日本語を勉強しました。昔、日本で数ヶ月間、軍事訓練を受け、インド国民軍(インド独立の志士・チャンドラ・ボース氏が日本軍の援助の下で創設した、約2個師団の軍隊)の兵士としてインドの独立の為、日本軍に協力しインパール作戦(チャンドラ・ボースの狙い~インド・アッサム州のインパールかコヒマに独立政府の新国旗を掲げ、インド独立の拠点としたい為。日本陸軍の狙い~インパールを落とし、インドの英軍の兵力を削ぎ、インドからビルマ・支那への軍事物資・援助を遮断する為)に参加しました」と彼。
多くのインド人は金儲けの為に嘘を平気で言うし、値段を吹っ掛けたりもするが、彼の話は信用出来るものであった。彼の様なインド独立の為に戦った勇気ある元兵士、しかも日本語が上手い彼が一介のタクシーの運転手として、その日暮らしをしていると思うと(多分)、残念であった。彼が如何にインパール作戦を戦ったのか、日本軍敗走後、インド国民軍は霧散消散してしまった様であるが実際にその後、どの様にしてインド独立に拘ってきたのか、その辺の事を彼に聞いてみたかったが、その機会を逃してしまった。
 アグラは、16世紀から17世紀の中頃までムガール王朝時代のインドの首都であったので、見るべき史跡も多いのだ。最初、アグラから大分遠い(40キロ程)Fatehpur Sikri(ファテプール・シクリ)へ行った。途中、道路に牛や土地の者が屯(たむろ)していたり、壁に牛のウンコをベタベタと張り付けた家があったり、そんな田舎の様子等をタクシーから眺めた。


△アグラ郊外の風景-牛(左)と村民(右)が土の上で屯しているのが見えた。インドの農村の家は土、牛の糞そして藁(わら)で出来ていた。(タクシーの車内から撮影)

 ファテプール・シクリは、アクバル大帝の宮殿や大モスクの遺跡であった。そこで子供2人が我々について回り、一生懸命ガイド役をしていたが、案内してくれと頼んだ訳でもなく、勝手に付いて来ただけなので、我々は彼等に何もやらなかった。


△ファテプール・シクリのディーワーネハース(皇帝の私的な謁見のための建物)

 ファテプール・シクリの見物後、アグラに戻った。アグラへ戻って昼食を取った後、Fort of Agura(アグラ城)へ行った。砂岩で造られた城壁は高く又、幾つかの城門があった。その一つの門を潜ると内部は広く、壮麗な城であった。天気は良く、澄み切った青空の下、観光には最高の日であった。この城からはジャムナ川を臨み、遠く地平線が広がる光景や、タジ・マハールも望め、その風景にただ感嘆した。


△陽気なロンと共に。ジャナム川の向こうにタジ・マハールが見えた。王様もここからの眺めを楽しんでいたかも知れませんーアグラ城にて


△旅人の私の心はこの透き通った青い空のように純粋であったーアグラ城にて

 この後、Itimad ud Daulah(イティマード・ウツ・ダウラ)へ行った。これは王様の墓廟であった。あまり面白くなく、印象が無かった 
       
 次にTaj Mahal(タジ・マハール)を訪れた。タジ・マハールは、王様(シャー・ジャハン)が王妃の急死を恨んで建てられた墓宮で、正面から見る白大理石のモスクが池に映るその美しさ又、青い空にその壮麗なモスクが吸い込まれる様で、他に比類する物はない程であった。我々は正面から内部に入り、モスク内を裸足になって見学した。モスクの境内からの眺めも最高であった。


△青い空に白大理石の墓宮が吸い込まれる様は他に比類する物は無いほどであった。世界で最もロマンチックな光景、それがタジ・マハールだ。


△墓宮の2階から正面入口の方を撮った写真―タジ・マハールにて
 
 帰り際、白大理石のモスクは夕日で金色に染まり、その影が池に映し出され、この世ではない美しさがそこに在った。(私の)世界で最もロマンチックな光景、それはタジ・マハールであった。
 ここを見学していたら、歳を取った乞食、見方によって仙人の様な人が墓宮内をウロウロしているのを見掛けた。それが不思議な事に、彼が本当のヒッピーの様な感じがした。


△タジ・マハールの仙人・・・

 タジ・マハール見学中、インド人から私が着ているジャケット(3年も既に着ている1.000円程した物)を売ってくれと声を掛けられた。値段交渉をして20ルピー(980円)で最終的に売った。割かし高く売れた感じがした。それにしても向こうから売ってくれと言われた事は、余り持ち合わせがなかった私とって、勿怪の幸いであった。 
 今日、これら4個所を見学するのに入場料金は20パイサで、合計80パイサ払わなければならないが、係員を配置して入場ゲートがある箇所はアグラ城とタジ・マハールで、私は2回払った。しかしロンは如何した事か、1回だけしか払わなかった。 
 アグラ見物の後、同行の中村は「ニューデリーに戻る」と言う事で、我々は彼を駅まで車で送り、それからドミトリーに戻った。夜、他の高級ホテルへ行って、ビールを飲んで帰って来た。今日の食事は、昼食の1回だけであった。しかしそんなに腹が空いている感じがしなかった。私も段々と本当のヒッピーに近づきつつある様な、そんな感じがするのでした。   お休み。


ニューデリー最後の日~ニューデリーの旅

2022-02-10 13:58:07 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
     △ニューデリーの路上の床屋さん(一番左)、その左隣は歯医者さん

・昭和44年2月7日(金)晴れ(ニューデリー最後の日)
 今日、私とロンはアグラへ行く事になっていたので、6時に起きた。しかしロンはまだ寝ていた。
「ロン、起きろ。6時過ぎだぞ。アグラへ行くのだろう」と私。
「午前3時に帰って来たのだ。眠いよ。明日行こう、Yoshi」と言って彼は又、寝てしまった。そんなに急ぐ旅でないので、明日でも私は一向に構わなかった。
 今日は本当に何もする事がなかった。映画「007」でも見に行こうと思ったが又、超満員で入れなかった。インドは自国のインド映画も洋画も繁盛していた。
 夕方、食事にインデア・コーヒ・ハウスへ行ったらロンが居た。暫らくすると昨夜のアメリカ女性も来た。どうも2人は示し合わせていた感じであった。私が来てしまったからロンも仕方ないと言った感じであった。3人で又、日本レストランのミカドへ行って食事をした。
                    

デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話~ニューデリーの旅

2022-02-09 09:30:08 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・デリーとインド人の口の周りが真っ赤な訳の話
デリーは、オールドデリーとニューデリーを合わせて総称として呼ばれている。オールドデリーはニューデリー駅北方に位置し、レッドフォート(赤い城塞)の城壁に囲まれた、所謂『城郭都市』です。ニューデリーは、オールドデリーの南方に隣接され、イギリス統治時代に新しい都市造りとして出来た都市です。当然、都市造りは近代イギリス様式が取り入れら、そしてニューデリーのみならず、インドの大都市の建物は、イギリス建築様式に似ていて、何処へ行ってもまるでイギリスに居る様な感じがした。
 ニューデリーの中心は、Connaught Place(コンノート広場)で、そこから四方八方に道路が延びていた。広場の周囲には、事務所、映画館、レストラン、商店等が軒を連ねていた。その中心の円形の広場は、芝生と花のある小公園となっていた。
 2つのデリーの光景は、極端に違いがあった。オールドデリーの街は汚く、ゴチャゴチャしていた。特に大通りから分かれた生活道路や路地は、怖くて入って行けない地域であった。所がインドに慣れて来たボンベイやカルカッタでは、しばしばその様な所まで足を踏み入れた。オールドデリーの道路脇の歩行者専用通路は、多くの路上生活者や乞食が居た。夜間、良く下を見て歩かないと、彼等を踏み付けたり、寝ている足に躓いたりして、歩くのも大変であった。ボンベイ、カルカッタはもっと凄かった。このデリーは、古い街と新しい街、ゴチャゴチャな汚い街と良く整備された街、貧乏人が密集している街と金持ちが集まった街、それがデリーと言う都市であった。
  所で、街を歩いていると通りで植物の実を葉っぱに包んだ嗜好品の「パーン」を並べて売っている店が多く、インド人男性が好んでそれを買っていた。彼等はそれを口の中に入れ、クチャクチャ噛んでいる内に口の中は勿論、口の周りも真っ赤になった。そうすると彼等は赤い唾を辺り構わず「ベッ、ガーベッ」と吐き散らし、通りは辺り一面その赤い唾で真っ赤になっていた。しかも近代的建物の前や軒先まで彼等は「ベッ、ベッ、ガーベッ」と唾を吐きだすので、近代的都市の美観まで侵されていた。インド人の不潔さ公衆道徳の無さ、これもニューデリーの一面であった。

インドの現状の話~ニューデリーの旅

2022-02-09 09:15:55 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・インドの現状の話
  所で、2月6日(木)「駅で盥回しにされる」の文中に「訳の分らない」と「何でもあり」と言う語句を使ったが、それについて私がその様に思っている、或いは感じているだけで、他の人々(外国人旅行者や現地インド人)は特に思っていないかも知れません。
 しかしあえて言うならば、次の事を指摘しておきます。それらは、一国のインドで多言語、多民族、カースト制度と不可触民の存在(憲法下では廃止されているが、確かに根強く現存している)、人口過多(街のあちこちで産児制限奨励のポスターや看板が目立つ)、貧富の格差、圧倒的に貧乏人の多さ、路上生活者や乞食の多さ、都市の超人口過密、宗教の雑多、原始社会から近代社会の存在、都市と農村のあらゆる格差等々であり、それらが混然一体となっている現状の事です。そして訳の分らない、或はなんでもありとは、上記に述べたそれらの矛盾性から来る主観的な私の捉え方(折に触れ、それらの事をなるべく記して置く様にしています)である。インド政府はこれら諸問題を抱えながら、国を統治して行かなければならないのである。私は、『インド政府は大変だなぁ』とつくづく思うと同時に、『インドは何でも受け入れる事が出来る』と言う凄さに感心するのでした。 

インドの鉄道の話~ニューデリーの旅

2022-02-09 08:53:31 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・インドの鉄道の話
 私とロンはニューデリー駅で乗車券を買うのに、軽くインド人にあしらわれてしまった。この様に乗客を盥回しにする様な案内、或は態度・接客の悪さを駅長やもっと上層部に訴えても埒(らち)が開かないし、加えて私の語学力の無さでは充分に訴える事が出来ないであろうと思った。例え英語で充分に話が出来たとしても、『何でもあり』のインドでは、1人1人の乗客否、乗客ではなく、如何でも良い利用者の声・意見等を一々聞いてくれる様なインド国有鉄道組織でないのだと理解した。
 駅員の態度、言葉の悪さ、非能率、無責任、自分の窓口しか感心がない縄張り主義、偉ぶっている権威主義等、インドの鉄道には問題が色々あった。インドの鉄道は国有なので、駅員はお役人様なのだ。カースト制度でも上級クラスに入るのであろう。上級クラスのお役人様だから利用者を盥回しにしても、屁とも思っていなかったのだ。  
  私はインドの腐った官僚機構の一端を見てしまったのだ。いずれにしてもインドの鉄道はこんな事だから死傷者何百人と言う、列車転覆事故や列車正面衝突事故が度々発生しているのだ。1968年(去年)、インドは国際観光記念の年であった。これを機会にインド政府及びエアー・インデア(インドの航空会社)は観光に力を入れている様であるが、全般的に受け入れ態勢が全くなっていなかった。インドの表玄関であるニューデリー駅ぐらいは、もう少し何とか成らないかと強く感じた。