明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

プルースト「雨の描写」に見る 本性境=大手印・認識の構造『南華密教・功法入門』 篠沢教授に全部!訳して欲しかったプルースト その3

2024年08月10日 | 仏教

この記事は以前に書いたものを修正・追記し、

篠沢教授に全部!訳して欲しかったプルースト  の、続編として編集しなおしました。

 

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何かがあたったように、窓ガラスに小さな音が一つ、つづいて、上の窓から人が砂粒をまいたかのように、ゆたかな量感の、さらさらとした落下、ついでその落下はひろがり、そろって、一つのリズムをおび、流となり、ひびきとなり、音楽となり、無数にひろがり、くまなく四面に満ちた、―雨だった。(マルセルプルースト作『失われた時を求めて』井上究一郎訳・筑摩世界文学大系より)

 

小さな音が窓ガラスにして、なにか当たった気配がしたが、つづいて、ばらばらと軽く、まるで砂粒が上の窓から落ちてきたかと思うと、やがて落下は広がり、ならされ、一定のリズムを帯びて、流れだし、よく響く音楽となり、数えきれない粒があたり一面をおおうと、それは雨だった。マルセルプルースト作『失われた時を求めて』吉川一義訳・岩波文庫より)

 

窓ガラスに何かが当たったような小さな音がしたかと思うと、上の窓から砂粒をばらまいたように、軽やかに何かがたっぷりと落ちてくる音が聞こえ、やがて広がり、規則正しくリズムを刻み、流れだし、音を響かせ、音楽を奏で、無数の音となって、あたりを覆った、雨だった。(マルセルプルースト作『失われた時を求めて』高遠弘美訳・KOBO電子書籍版)

 

どの訳も、大きな違いはなく、解釈の違いなどの問題はないものと思われます。

窓ガラスに小さな音が一つ(井上)

小さな音が窓ガラスにして(吉川)

窓ガラスに何かが当たったような小さな音がした(高遠)

 

井上訳のみ、「小さな音が一つ」という表現をしていますが、

あとに続く、「砂粒をまいたかのような」音との違いを強調しているものでしょうから、特に他と矛盾するものではないでしょう。原文に当たる機会があれば確認したいところです。

 

篠沢教授に全部!訳して欲しかった

というほどの違いは、ないかもしれません。

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追記:その後に作成した拙訳も掲載させていただきます。

 

 窓ガラスに何か当たった様な小さな音が聴こえ、上の窓から砂粒を撒いた様に、サラサラと軽やかで、たっぷりと豊かに落ちる音、其の音は広がり、整ったリズムを刻み、流れとなり、響きと為り、音楽を奏で、無数の音と為って、隈なく辺りを覆った、―雨だった。

 

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ここで示される、プルーストの認識のありかたは独特であり、

そこらへんが「世界最高の文学」と呼ばれる所以ですが、

このような認識のありかたは、仏教の「唯識論」や、功法の「大手印」に通ずるものであり、「三境」のなかの「本性境」という境地を意味します。

 

認識の構造

私たちの見る対象は、私たち自身が対象として捉えたものであり、その対象がどのような対象であるかについても、私たちが、心でつくりだしたもので、自分でつくって自分で見ている、という構図になっており、これを「自証分」と言います。さらに、その自分の心を見つめる別の心、つまり自省や反省の心を「証自証分」と言います。

「自証分」とは、「もう一人の自分」であり、「証自証分」というのは、「もう一人の自分」を見ている、「もう一人の自分」と言うことになります。

  

「相分」というのは、「自証分」のうちのひとつであり、つまりは、自分の心がつくったものです。「相分」を形成する世界は三種類あって、これを「三境」といいます。 

 

○独影境は、想像の世界。主観的に勝手に描いた妄想、幻想。耳鳴りの音、飛蚊症の蚊など、  

自分で作った音や映像。白昼夢やいろいろな空想も独影境の世界。

創作、芸術、宗教などは、独影境がなければ成立しません。 

 

○帯質境は、解釈の世界と言えます。独影境と違って、物そのもの、事そのことは、確かに

あるように見えますが、私たちがとらえた対象は、対象そのものではなくて、自分の

「阿頼耶識」から出た意味・価値を付加して勝手な解釈を加えてつくった世界であり、

一般的な情報、知識、学問・科学、方法・技術などは、すべて「帯質境」によって

形成されたものです。

一見客観的な事実を記述したように見えても、それはあくまでも、一つの解釈であり、

ある解釈には、必ず別の解釈も成り立つものです。

 

○本性境は、ありのままの世界。ものごとそのものに対して、想像と解釈を加えない世界。

  たとえば、欠けた木の葉を見たときに、欠けた葉があるな、と思うのが「本性境」ですが、ほとんどの人は、虫に食われた葉があるとか、風で千切られた葉があるという風に、解釈や連想を加えた見方をします。これが「帯質境」です。

もし「天女が降りてきて千切っていった」などと考える人がいたら「独影境」と言えますが、文学的な表現だとすれば、本気でそう思っているとは限りません。

 

余計な解釈や想像を加えずにものごとを見るのは非常に難しいもので、仏法を学ぶのは、自分のこの部分(本性境=仏智)を引き出そうとする努力とも言えます。

 

 「自証分」には、もうひとつ「見分」というものがあり、これも自分の心から出たもので、  

認識の水準、つまり、ものの見方のレベルを表わすものです。

 「見分」を構成する要素も三種類あり、これを「三性」と言います。

 

〇分別性=遍計所執性は、没理の世界であり、偏見で計測してとらわれるところの性であり、執着と迷いによる認識を言います。自分の認識を実体化して固定化し、それに執着することであり、

ものごとの認識のしかたが、好み、偏見、思い込み、こだわり、希望的観測、などを 

もとにしているものです。

「分別」とは、要するに差別のことであり、別け隔てすること、ものの考え方が不平等で偏見があることを言います。

 

〇依他性=依他起性は、論理の世界であり、見たり、聞いたり、味わったり、

臭いを嗅いだり、触ったりして、得られる認識を言います。

これは、「五蘊」とか「縁起」などと言い換えることもでき、誤伝と錯覚さえなければ、あまり問題がなく、ごく普通の認識の仕方です。

 

〇真実性=円成実性は、「超理の世界」(無理)であり、円満に成就した真実の見方。

「依他性」の真実に目覚めること、「依他性」の世界をそのまま自覚することを言います。

 「依他性」というのは、「五蘊」や「縁起」のことですから、

そのまま「依他性」の世界に自分も入り込んでいるものですが、

「真実性」は、「依他性」の世界の外にいて、「依他性」の世界を冷静に醒めた目で見て、 

「照見五蘊皆空」とか、「色即是空」などというように、それを認識する認識であり、

「智慧」「論理」「悟り」の世界とも言えます。

 「唯識」の知識が、日常生活に役立ってこない原因は、何らかの事柄を取り上げるときに、「相分」のうちのどれになるのか判断がつかなかったり、「分別性」か「依他性」のどちらかで見てしまったり、「真実性」で見ることが出来ない状態、つまり知っている通りに意志決定できない、即ち、悟っていないと、せっかく「唯識」を学んでも、あまり役に立たないものです。

 それぞれの用語をよく理解した上で、静坐、瞑想する際に「認識の図」を頭に描き、いつでも「認識の図」が出てくるように訓練することが必要です。

 

 

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「序論」より

  南華密教について 

 仏教の開祖、お釈迦様は、紀元前六世紀ごろインド北辺の貴族の家に生まれ、妻子を儲けましたが、道を求めて出家し、「悟り」によって仏陀と仰がれ、仏教が誕生しました。

 仏教の根本の教えは、「四印」と呼ばれ、「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)・諸法(しょほう)無我(むが)・一切(いっさい)皆(かい)苦(く)・涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)」という四つの項目から成ります。

 仏陀の死後も弟子たちは仏教を広め、理論面で大きな進歩があり、「五位七十五法」という分類法により、「諸法無我」つまり「我」=「アートマン」が存在できないことを証明しました。この段階の仏教を「有」といい、これは「存在」するものは「分類」できる、という考え方です。

 ところが、どんな「存在」や「現象」でも「分類」はできますが、同じものでも「縁起」によって違う「分類」に入る、つまり物事の本質は「空」であるという理論が竜樹らによって展開されました。

 「有」と「空」の理論により「我」は完全に否定されましたが、インドには「輪廻(りんね)」という根強い思想があり、「我」が無いのにどうやって「輪廻」できるかを説明する必要が生れます。この問題を解決したのが「識」の理論、すなわち「唯識論」であり、「輪廻」の主体が「唯識」であることを解明し、ある事象がどんな「縁起」であるかは、自分の立ち位置によって違うことを論証しました。

 次に、インドの仏教では密教化が進みます。

「密」とは「タントラ」の漢訳で、「広げる」という意味ですが、もとは「織機」の意味であり、「縦糸と横糸」で連続させることを表わします。つまり、「密」とは「秘密」のことではなく、「緊密」のことであり、蓄積した知識を「緊密」にあつめて使うことを意味します。

 インドでの仏教は、イスラム教徒の侵攻によって「密教」もろともに滅亡しましたが、中国に入った「密教」は、一行禅師によって、道教=五術的要素を取り入れ、中国独自の「密教」として発展しました。中国でも仏教に対する弾圧は苛烈で、特に明朝では、元朝の国教であったラマ教ことチベット密教を取り入れた「中国密教」は徹底的に弾圧され、信者たちは密かに法灯を守り、チベット密教の教えをさらに進化させ、特に江南地方の在家信者たちが、「南華(なんげ)密教(みっきょう)」という秘儀体系に仕上げました。

 もともと「密教」には、「如来蔵」という、「六大如来」「八大菩薩」「五大明王」などを記号化した「記号類型学」があり、「曼荼羅」という図形で表現されました。ところが「記号類型学」なら、「干支」や「易卦」を使う「道教」の「五術=命・卜・相・医・山」のほうが優れた面が多々あり、『般若心経』などにみられる「受想行識」という用語も、「道教」の「五体論」から借用したもので、サンスクリットの表現とは非常に異なる概念となっています。

 南華密教における「功法」は、「易卦」「干支」とともに「如来蔵」も重要な要素となっており、「功法」に入る前に習得しておく必要があります。 

 

  南華密教の功法

 

 第一段階―持戒―やってはいけないことをやらない

 第二段階―持行―やるべきことをやる

 第三段階―調身―体を調える

 第四段階―調気―気を調える

 第五段階―煉気―小周天―――気功

 第六段階―煉神―内火――――神功

 第七段階―参禅―幻身・修夢          

 第八段階―三昧―光明・転移・中陰(度亡) 浄土思想を排除  

 第九段階―大手印――――――識功

 

 
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   お申し込み先  

日 本 員 林 学 会 

 代表 掛川掌瑛(東海金)

 ☎Fax 0267-22-0001

E-MAIL  showayweb◎msn.com 

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