なにやら噂では、この「ケータイ捜査官7」に某作品関係の方々が係わっているとか聞いたので、初回は見逃したものの、とりあえず2回目は見てみよう!とビデオに撮って見てみました♪
う~ん、、、
どうなんやろ??
この話を見て、なんやら7の「悪魔の住む花」に結び付けたくなるのはなんぼなんでも歳が知れる??(爆)
そうやねぇ、、、主役の高校生がフレッシュ♪&好感!!
もう少し見てみないと、様子がわかりまっせん!!・汗;
でもね~♪
初回にはあの「龍騎」の編集長が出てたのね、、早々に亡くなっちゃったみたいで残念ですけど、、、あとさ、なんと、龍騎の時のナイト人間体君=松田悟志君もレギュラー出演なんですね~!
龍騎当時、ナイト君に燃えた(萌えた、では決してありません^_^)当方としては、ついつい昔(というほど年月は経っていませんが)を思い起こしてしまいますわ~。
ということで、、、
「仮面ライダー龍騎」が放送されたのは、2002年、かな?
で、何について書いてみたいのかというと、
昭和と平成ライダーの違いについて。
ちなみに当方、コアファンではないので、詳細な分析等をされている方の上を行くほどの論文は書けません(^^;)
まぁね、昭和のライダーは「悪」のためによく戦った、と言われていますよね。
でも、平成のライダーは「悪」のためではなかったりする。
この龍騎のライダー達もライダーを倒しながらオンリーワンに向かって戦い続ける。それぞれが、それぞれの目的のために。
昭和のライダーが気に入っていたファンの方には、それが“ライダー”ではない、と称するところでもあるらしい。
しかしですね、「悪」の定義がなんともよく分からなくなった現在、もっと他の『戦う』ライダーの見せ方があってもいいとも思うのですよ。
現に龍騎のライダー達は当初は「自分」のために戦っていることが多かった。
それが、一年という時間を経た終盤には、オンリーワンを目指す「仲間」同士が戦うことに集約されてくる。
本来の、恋人を救うため、と今まで一緒に戦うことも多かった龍騎を倒そうとするナイト(=人間体を松田君演)。
それがね、倒せないんですよ、彼は。
もう、この龍騎の初回から、ただひたすらに「恋人」のために戦って来たナイトが、今目前にいる龍騎を倒せば、願いが叶う=意識を回復しない恋人を救える、という、「ようやく!!」の時にトドメを刺せないのです。
いやね、この回の印象はかなり強烈でした。
まさか?
でしたから。
その心の動きを表情のない、ライダー姿で演じた中の役者さんたちに拍手しましたよ。
それじゃぁ、このドラマは一体何を目指していたのか?
一言では片付けられないかもしれないけど、
少なくとも、
「個人の欲望」だけで、満足な社会生活が送れるのではない。
生活圏ではいろんな人々とかかわりがあり、それらの人々の中で、
相応の葛藤?を経て『満足な生活』を手に入れられる。
満足な生活=欲求が全て満たされた生活ではなく、
まわりの人々と円満な関係を築ける生活。
そのための戦いは、決して「悪」に向けられているのではなく、
チョット極端な言い方かもしれないけど、円満な生活という、
最大公約数的な調和を得るための戦いであったと思うのです。
それは、現代社会に置いてかなり偏った「自分がよければそれでいい」という、
排他的な考え方から脱する必要があると、制作者が考えていたとすれば、
この番組はこれはこれで、すっかり成功作品、といえる展開であったと思うのです。
故にですね、某ブログ管理者様。<誰^^;)
途中で見るのを諦めないで、この作品の終盤の展開を、是非楽しんで欲しい、
と思うのですよ。
龍騎とナイトの係わり合いだけでなく、それぞれのライダーがそれはそれは、
いろんな体験を綴ってゆく。
これらは、今私達のすぐ近くでもあるかもしれない、と思わせる、人々の人生模様でもあるのです。
戦いは、常に「悪」に向かっているのではなく、
時には、人=人間が人生を全うするために、
それぞれいろんなシガラミと戦っていくことも、
ライダーというキャラクターを通して訴えられればそれでいい、と、そう思うのです。
小さな子供達が、何か、仮面ライダーというヒーロー達に少し心を寄せ、大きくなって、
「あ、あの時、彼らはこういうものと戦っていたのか!」と、
そんな発見をしてもらえれば、平成の仮面ライダー達はウレシイのではないかと、そんなことも思うのです。
えへっへ、こじつけ過ぎですっかね(^^;)
う~ん、、、
どうなんやろ??
この話を見て、なんやら7の「悪魔の住む花」に結び付けたくなるのはなんぼなんでも歳が知れる??(爆)
そうやねぇ、、、主役の高校生がフレッシュ♪&好感!!
もう少し見てみないと、様子がわかりまっせん!!・汗;
でもね~♪
初回にはあの「龍騎」の編集長が出てたのね、、早々に亡くなっちゃったみたいで残念ですけど、、、あとさ、なんと、龍騎の時のナイト人間体君=松田悟志君もレギュラー出演なんですね~!
龍騎当時、ナイト君に燃えた(萌えた、では決してありません^_^)当方としては、ついつい昔(というほど年月は経っていませんが)を思い起こしてしまいますわ~。
ということで、、、
「仮面ライダー龍騎」が放送されたのは、2002年、かな?
で、何について書いてみたいのかというと、
昭和と平成ライダーの違いについて。
ちなみに当方、コアファンではないので、詳細な分析等をされている方の上を行くほどの論文は書けません(^^;)
まぁね、昭和のライダーは「悪」のためによく戦った、と言われていますよね。
でも、平成のライダーは「悪」のためではなかったりする。
この龍騎のライダー達もライダーを倒しながらオンリーワンに向かって戦い続ける。それぞれが、それぞれの目的のために。
昭和のライダーが気に入っていたファンの方には、それが“ライダー”ではない、と称するところでもあるらしい。
しかしですね、「悪」の定義がなんともよく分からなくなった現在、もっと他の『戦う』ライダーの見せ方があってもいいとも思うのですよ。
現に龍騎のライダー達は当初は「自分」のために戦っていることが多かった。
それが、一年という時間を経た終盤には、オンリーワンを目指す「仲間」同士が戦うことに集約されてくる。
本来の、恋人を救うため、と今まで一緒に戦うことも多かった龍騎を倒そうとするナイト(=人間体を松田君演)。
それがね、倒せないんですよ、彼は。
もう、この龍騎の初回から、ただひたすらに「恋人」のために戦って来たナイトが、今目前にいる龍騎を倒せば、願いが叶う=意識を回復しない恋人を救える、という、「ようやく!!」の時にトドメを刺せないのです。
いやね、この回の印象はかなり強烈でした。
まさか?
でしたから。
その心の動きを表情のない、ライダー姿で演じた中の役者さんたちに拍手しましたよ。
それじゃぁ、このドラマは一体何を目指していたのか?
一言では片付けられないかもしれないけど、
少なくとも、
「個人の欲望」だけで、満足な社会生活が送れるのではない。
生活圏ではいろんな人々とかかわりがあり、それらの人々の中で、
相応の葛藤?を経て『満足な生活』を手に入れられる。
満足な生活=欲求が全て満たされた生活ではなく、
まわりの人々と円満な関係を築ける生活。
そのための戦いは、決して「悪」に向けられているのではなく、
チョット極端な言い方かもしれないけど、円満な生活という、
最大公約数的な調和を得るための戦いであったと思うのです。
それは、現代社会に置いてかなり偏った「自分がよければそれでいい」という、
排他的な考え方から脱する必要があると、制作者が考えていたとすれば、
この番組はこれはこれで、すっかり成功作品、といえる展開であったと思うのです。
故にですね、某ブログ管理者様。<誰^^;)
途中で見るのを諦めないで、この作品の終盤の展開を、是非楽しんで欲しい、
と思うのですよ。
龍騎とナイトの係わり合いだけでなく、それぞれのライダーがそれはそれは、
いろんな体験を綴ってゆく。
これらは、今私達のすぐ近くでもあるかもしれない、と思わせる、人々の人生模様でもあるのです。
戦いは、常に「悪」に向かっているのではなく、
時には、人=人間が人生を全うするために、
それぞれいろんなシガラミと戦っていくことも、
ライダーというキャラクターを通して訴えられればそれでいい、と、そう思うのです。
小さな子供達が、何か、仮面ライダーというヒーロー達に少し心を寄せ、大きくなって、
「あ、あの時、彼らはこういうものと戦っていたのか!」と、
そんな発見をしてもらえれば、平成の仮面ライダー達はウレシイのではないかと、そんなことも思うのです。
えへっへ、こじつけ過ぎですっかね(^^;)