こんにゃく歳時記

ありゃ、打ち間違えちゃったわ~・汗)『今昔歳時記』がタイトルです~(^^;)懐かしい風景やHOTな今を書いていきます!

映画の「おくりびと」好評の話題に、かつて実際に出会った「おくりびと」さんに感謝!!

2009年02月22日 23時51分03秒 | 『懐かしい風景』
ここ最近特にアメリカの映画アカデミーショーの話題もあって
「おくりびと」の文字を目にする記事が増えていますが、
ほんと、私自身の祖父や父を見送ってくれた葬儀屋さんのみなさんは
特に印象に残りました。
祖父の時は祖父の時なりに、ちょっと念入りな納棺をしたのですが、
その時も本当に亡くなった人への配慮というか、
納棺の儀式を崇高に行ってくださった、というか、
死者への最高の礼を尽くして下さっているのが伝わり、
それだけに哀しみにくれている家族が、
亡き者の旅立ちへ気持ちを切り替えられる
そういう意識がめばえました。

そして、父の時も、納棺に際して、
「愛着のある服とか、背広とかをお持ち下さい」
と言われまして、
弟が仕事に行っていたときに好んで着ていた
背広と、ワイシャツ、ネクタイを持ってきました。
そして、それを着せることはできませんでしたが、
棺に入った父にあたかも身に纏っているかのように、
配置してくださり、棺の中の父も若き会社員に
戻ったように見受けられました。
その時の心の動きを、どう説明したらいいのか、
今もってよく分かりませんが、
すっと、その場に背広を着た父が立ち上がるかの
ような錯覚と共に、ほんと、どちらか言えば、
憎しみが父の逝去を喜ぶかのような、
そんな気持ちでいたはずなのに、納棺の
一連の流れによって
“ストン”と、父を許せたような気がしたのです。
一言でいえば、
「あ、もう、ええわ」でした。
それもまた、
納棺を行ってくださった方々が
心のこもった亡き者へ礼を尽くされた
結果であったと思うのです。

日曜日に目にした記事の中にも、「おくりびと」の
脚本家さんが、現実の納棺師に聞いた言葉として、
「死とは究極の平等である」という言葉に
強く触発されたらしいとありましたが、
“人”が必ずいつかは到達する“死”に、
残された人々が優劣をつけずに
少し前まで生あった人を真摯に見送りたい、と思うのです。

ふぅ、、、
かつての熱い思いをちょっと文字にしていたら、
ついつい自分が「いい子」になったような気になりますが、
正直死に到達するまでの
周りの苦労やらしんどさやらを考えたら、
やっぱり恨みつらみはどこかで出ますよね。
今自分の身の回りでも、
もうチョットなんとか手を貸せんのか?と思いながら、
自分についつい甘えを許している、
嫌な自らを再認識したりもしております。

そうは言いつつ。
「ありがとう、当時の葬儀屋さんm(__)m」
あなた方のおかげで、親子は違う世界で今はもめずにおります、、、

コメント
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