管理組合というものは、リーダシップがない?またはあってはならない?という話を聞いたことがある。マンションの管理組合においては、全員が上下関係なく、同一の立場で、様々な考え方が並列的に並び相対的な集約は可能であっても、絶対的な集約はできない世界。したがって、そうした場での千差万別なメンバーの考え方を一つの方向にまとめるためには、摩擦を防ぎながら、できるだけ穏やかに穏やかにと心がけながら人心を収束させていく慎重な感覚が求められるという話である。
現実に理事長をやって、そういう感覚でないとまとまらないと思う反面、それでは何一つ進まないような気もする。様は使い分け? 簡単な案件だと、リーダシップをもって進められても、重要な案件はとことん議論を尽くして、(それも穏やかに説得調で)慎重に結論を導くようにしないとしこりやわだかまりが残って、後々紛糾のタネになる。
ところが管理組合の場合、ほとんどの人間が、『無関心』であり、ちっとも主体的に動こうとはしない。まるで、『主役』のいない芝居みたいになる。たとえ関心はあっても、『誰かがやってくれるだろう』と傍観者をきめこんでいる傾向が大きく、いずれにしても、組織として活力が認められない状態になるのはなぜなのだろう。
管理組合という組織の抱える本当の問題がここにあるようにも思える。メンバー相互が同じ水準の水平的関係にあれば、「みんな同じ」になってしまうためにエネルギーが拡散して、焦点がぼやけてしまう。そういう現実から、目をそらしたまま法律の決めている意思決定システムだけを当てはめようとするに近い「管理規約」というものからでてくるひずみが、委任状本位でようやく成り立っている総会の形式化、役員を選ぶのに四苦八苦となる原因かもしれない。
現実に理事長をやって、そういう感覚でないとまとまらないと思う反面、それでは何一つ進まないような気もする。様は使い分け? 簡単な案件だと、リーダシップをもって進められても、重要な案件はとことん議論を尽くして、(それも穏やかに説得調で)慎重に結論を導くようにしないとしこりやわだかまりが残って、後々紛糾のタネになる。
ところが管理組合の場合、ほとんどの人間が、『無関心』であり、ちっとも主体的に動こうとはしない。まるで、『主役』のいない芝居みたいになる。たとえ関心はあっても、『誰かがやってくれるだろう』と傍観者をきめこんでいる傾向が大きく、いずれにしても、組織として活力が認められない状態になるのはなぜなのだろう。
管理組合という組織の抱える本当の問題がここにあるようにも思える。メンバー相互が同じ水準の水平的関係にあれば、「みんな同じ」になってしまうためにエネルギーが拡散して、焦点がぼやけてしまう。そういう現実から、目をそらしたまま法律の決めている意思決定システムだけを当てはめようとするに近い「管理規約」というものからでてくるひずみが、委任状本位でようやく成り立っている総会の形式化、役員を選ぶのに四苦八苦となる原因かもしれない。
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