南大東島には村立の南大東小学校、南大東中学校があり、併設された南大東幼稚園もある。校舎は池之沢集落の外れにあり、1923年からこの場所で学校教育が継続されてきた(学校教育はそれよりも前に別の場所で行われていた)。島内には高等学校が設置されていないため、中学校を卒業するとほぼ全員が那覇の高等学校に進学している。少年少女が勉学のため故郷を離れ、新天地で生活するのは切ない思いがある。このような故郷を離れなければならない少女の心情を描いた「旅立ちの島唄~十五の春」という映画が制作された。監督は吉田康弘で、2013年に公開された。船便しかなく、通信手段は内地と違って大幅に到着が遅れる手紙しかなかった時代では、さぞかし心細かったのではなかろうか。しかし、昨今では空路が日常的に利用でき、電話、インターネットなどの情報伝達方法が発達したため、島を離れても昔ほど大きな感慨を持つことはないであろう。
一段目の写真は正門であり、幼稚園に3歳から通うとなれば12年間はこの正門を通過することになる。正門の前の道路には島唯一の交通信号機が設置してあり、離島の信号機は珍しいので、旅行記やブログなどでは必ず紹介されている。
二段目の写真は小学校の校舎であり、写ってはいないが左側には中学校の校舎がある。南大東小学校の全生徒は87名、南大東中学校の全生徒は36名であり、合計123名が在学している(2022年度)。
三段目の写真は小中学校共通の屋内運動場で、2021年に竣工したので私が訪問した時はピカピカの新しい建物であった。手前が運動場であるが、生徒数に比べて遙に広い。これだけ広いのには歴史的な理由がある。南大東村誌から拾った、各年代における学校の敷地面積と生徒数は次のようになる。
敷地面積 生徒数
1903年 寺子屋式の私塾の開始 32名
1909年 149名
1915年 346名
1916年 358名
1925年 13596平米
(運動場は10296平米)
1927年 600名
1932年 20348平米
(運動場を6752平米拡張する)
1933年 738名
1944年 725名
1945年 247名
1973年 536名(小中)
1985年 33948平米 233名(小中)
2023年 42171平米 123名(小中)
(戦前の生徒数は尋常科のみか高等科も含めたのか不明、戦後は小中学生)
1915年から1973年の間は尋常小学校、中学校の卒業生数しか統計が無く、この間の在籍生徒数は不明である。1985年以降は在籍生徒数の記録が残っているが、1945年から1984年の間で記録が残っているのは1973年だけである。1973年の在籍生徒数は536名であったが、この数値が戦後最大の在籍生徒数であったとは思われず、実際にはもっと多い時期があったと考えれる。
村の人口が最大であった年度は1960年で、3513人を記録している。1973年の人口は1879人に減少している。全生徒の数が全住民の人数と比例すると仮定するなら、1960年の在籍生徒数は1973年に比べて86%も多かったことになり、1千人を越えるマンモス校であったことになる。これだけ多人数の生徒を収容するためには、この広さの運動場が必要であった。現在の運動場が全生徒数に比べて広大なのは、島が砂糖産業が好況で、島には生徒が多く居住していた時代の名残なのである。
なお、2023年に役場が発表した村勢要覧によれば、学校の敷地面積が増加している。数年前、今後の教育施設の拡張のため、三段目の写真にある屋内運動場の左側の砂糖きび畑を買収したからである。
四段目の写真は小学校の脇に併設された南大東幼稚園であり、2022年度で4歳児、5歳児合わせて32人を預かっている。2023年度からは2歳児も預かる、と告知している。また、幼稚園の他に、村役場のそばには保育園があり、こちらでは1歳半児から預かっていて、2022年度は35名の園児が在籍している。都会で問題となっている待機児童はおらず、育児については島では至れり尽くせりである。