Aコープの道路を挟んで反対側には石造りの巨大な倉庫がある。これはAコープで販売する商品の保管倉庫である。定期便は週一回の入港のため、次の入港があるまでに販売する分量の商品を保管しておかなければならないためこのような倉庫が必要となった。壁を石組みで造り上げた頑丈な倉庫は、強烈な台風による被害を防ぐためである。内地のコンビニエンスストアでは毎日3回程度のトラックによる配送があるため、バックヤードは狭い。このように大きな倉庫を必要としているのは離島の宿命と言える。二段目の写真は倉庫の内部であり、実際に貯留されている商品はこの写真の数倍以上はあるようだ。
定期便が予定通りに入港していれば問題は無いが、台風などで運行が遅れ、一ケ月も運休すると忽ち品切れになる。Aコープの商品棚からは商品が消えてしまうという。真先にに売れ切れるのは生鮮食料品で、煙草は買い占められるらしい。
この石造りの倉庫は、戦前に島で製糖業をしていた東洋製糖が大正時代に建設したらしい。「らしい」という表現をしたのは、この建物は不動産としては未登記物件なのであるからだ。建物の構築方法が西港にあるボイラー小屋(国指定登録文化財)と良く似ていることから、ボイラー小屋が建設された1924年前後に建築されたと推定される。すると、この頃の島の所有者であった東洋製糖が建設したようだ。
現在、この倉庫の固定資産税はJAおきなわが支払っているので、所有者はハッキリしているが、JAおきなわの所有物になった経過には複雑な事情がある。戦前の南大東島全域は私有地であり、最初は開拓者の玉置半右衛門が支配する玉置商会の所有であった。1918年に東洋製糖へ売却され、さらに、1927年に東洋製糖は大日本製糖に吸収合併された。終戦時には島の全部は大日本製糖の所有物であったが、1946年6月になると米軍による軍政府により全財産が接収された。つまり、民間人の持つ家屋や私財を除いて、島全体が米軍の管理下に置かれたことになった。この頃は沖縄本島との定期便も無く、砂糖きびを育成して粗糖を生産しても販売する手段が無く、農家はさつまいも等を栽培してそぼそぼと自活生活していたらしい。翌1947年1月になると農業協同組合が設立され、本格的な戦後の復興が始まった。さらに、1950年9月には現在の大東糖業が設立され、製糖設備などを農協から引き継ぎ、戦災で破壊された工場の再建が始まった。
と、ここまでは「南大東村志」に記録されているのだが、農協が設立されて大日本製糖が所有していた倉庫がどのように軍政府から農協に引き渡されたのかは記録されていない。また、農協より後に設立された大東糖業は、大日本製糖の所有物であった倉庫の所有権をなぜ主張しなかったのであろうか。このあたりが曖昧なのである。何れも戦後のどさくさに紛れて資料が逸散したのか、契約などなしに馴れ合いで資産が譲渡、移転されたのではないかと推測される。実は、大東糖業が設立されてから農地の所有権の問題が発生し、長年の問題が解決したのは1964年になってからであった。こうした戦後のどさくさと土地所有権の問題があったことから、この頃の資料をわざと残さなかったのか廃棄したのではなかろうか。
いずれにせよ、倉庫の登記簿が無いため真相は不明である。