新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

島の発電所

2023-07-24 19:14:32 | 旅行

 

  戦前の島ではどのように電力が供給されていたか、は明瞭な記録が無い。戦前に島で製糖産業を独占していた東洋製糖株式会社は、業務に必要なため1917年に無線電信所を設置した。島からは、ラサ島経由で那覇まで電信通信を行っていた。このことから、無線電信所を開設した時には、島には発電機が設置されていたと考えられる。また、同年には島内での連絡のための電話回線が敷設されていることから、この年から島での電化が始まった。しかし、この時の発電機の能力については不明であり、無線電信所や電話局だけを照明する小さな電灯が使用されていたのではなかろうか。
 製糖業が東洋製糖から大日本製糖に譲渡された後の1923年には、無線通信所の設備は増強されて発電能力も高まったようであったが、発電量は不明である。南大東村誌の344ページには、当時の設備として「50Kwの無線電話器、1Kwの無線電信機等が設置されていた」と記載されている。しかし、この能力には疑問がある。1925年に東京の愛宕山で開局したラジオ放送局(後のNHK)の出力は1Kwであった。沖縄の離島であるからと言って、これだけ高出力の無線設備が必要であったとは思われない。
 何れにせよ、戦前の島での発電所の能力は小さいものと考えられ、在所集落にある住宅にだけ電灯を灯すための電力が供給されていたらしい。その発電設備も米軍の空襲により焼失し、戦後の一時期は全く電力が供給されなかった。1948年には農業組合が発電事業に乗り出してきてから電化が始まった。1950年になると発電事業は農業組合から大東糖業株式会社に移され、電力供給が増強された。しかし、この頃でも電気による文化生活を楽しめるのは在所集落の住人だけであり、在所集落から離れた農家では蝋燭や灯明による灯で生活しなければならなかった。しかし、内地でも1955年頃までは山間部には給電されず、ランプ生活している住宅も多かった。電化が進まなかったのは離島というだけの理由ではなかった。
 さて、大東糖業が発電事業を承継したが、給電は夕方から5時間程度で、在所集落周辺のみであった。その後、1970年に発電能力を200Kwに増力することで全島の住宅に給電できるようになり、さらに1971年には24時間給電することができるようになった。各家庭での電化には役に立ったが、民間企業による発電であったことから電気料金は沖縄本島に比べると高かった。本島と離島での料金格差を解消するため、大東糖業は発電設備一式を沖縄電力の譲渡し、それ以降の電気料金は本島と同じとなった。
 沖縄電力は、本島と離島とで電気料金を差別をしておらず、沖縄県内ではどこでも同じである。しかし、離島では当然のように発電にかかる経費は本島のそれより高額となる。本島と離島の全ての発電経費を集合し、単位当たりの電気料金を算出すれば、当然のように東京電力、関西電力などの電気料金よりも高くなるはずである。実際に、沖縄での電気料金は高い。
 東京電力では、20A契約の基本料金は623円で、従量料金は120Kwhまでは29.8円である(それ以上消費すると従量料金は段階的に増加する)。
 沖縄電力では、基本料金は10Kwhまでが640円で、それ以降の従量料金は1Kwhについて40円である(それ以上消費すると従量料金は段階的に増加する。2023年度)。
 全国の一世帯当たり1カ月の平均消費電力は348Kwhである(2021年度)。すると、東京電力の電気料金は一世帯当たり月12695円であるが、沖縄電力では月15534円となる。東京電力の電気料金より2割以上高いことになる。
 一段目の写真は沖縄電力南大東電業所の入口、二段目は同事務所の玄関である。ここには出力3千Kwhの発電機が3基設置され、全島に電力を供給していた。発電機はディーゼルエンジンで駆動されているのだが、工場に近づいても静かであった。30年以上前のことであるが、或る離島に出掛けたことがあった。その島でもディーゼルエンジンを利用した発電所が設置されていたが、非常にうるさかったことを記憶している。南大東島の発電所が静かであるのは、工場にある消音設備が優れているのか、エンジンが騒音の少ないものに改良されたのかは不明である。
 三段目の写真は発電所内に設置されている燃料タンクである。490KLを収容できるタンクが2基設置されていて、これで2、3か月は発電を継続できるそうである。燃料となる重油は那覇から船で搬送されているのだが、2百L入りのドラム缶で搬送されていた。ドラム缶の重油を一本づつ燃料タンクに移し替えていくのであり、大変な手間がかかっている。これなら発電所と港の間にパイプラインを設営し、那覇からタンカーで重油を搬送し、タンカーからパイプラインで重油を燃料タンクに移送すれば簡単ではないかと思われる。しかし、内航タンカーの多くは一度に搬送できる能力は5千KL以上であり、この島にある燃料タンクの容量の10倍以上ある。つまり、タンカーの積載能力に比べて南大東島の発電所で収容できる容量が小さすぎるのであり、タンカーを利用して搬送するとなれば船賃が高くなってしまう。このような理由により、現在でも燃料はドラム缶による搬送がされていた。