●あっという間の2年間で放置の果てに内示電話
平成28年4月1日の金曜日。始まりの一日においては、県庁から燕市役所への出向2年間を考えると、特に県職員としての勤務があと10年足らずとなり、課長職にすら就いていない段階での出向を思うと、なんという長さだろう、なんという遠回りだろうと意気消沈したものだ。ドラマ半沢直樹よろしく「片道切符の島流し」になる可能性もあるのではとも悩まされたものだ。
そして私が出向して初年度の秋である。私を燕市へと送り出した県知事が次期出馬しないこととなり、国政与野党ガチンコの知事選になったのだが、私のボスであるところの市長を含め県市長会が総意で応援した与党系の候補が落選した。この時は本気で青ざめてきたものだ。新知事が私の主義主張や政治的志向とかから見てどうこうということではない。選挙で敵側に回った市長の下で幹部の一員を務めていた私の処遇は、県庁に復帰する時に一体どうなってしまうのだろうかという不安からだ。「君はもう、少なくとも県本庁に戻ってこなくてもいいよ、なんならお仲間の市長会の皆さんに面倒を見てもらうべく、引き続き市役所を転々とすれば良いじゃない。それも退職まで」。そんな寝汗をかくような悪夢や妄想に苛まれるのであった。
場合によっては県庁に戻れないかもしれない。下手な戻り方で冷遇されるよりは燕市役所で骨を埋めた方が良いかもしれない。妄想のエスカレートは、かえって逃げ場や退路のない出向という意識を手前勝手に植え付けてくれたので、せめて燕市長からは見捨てられないようにと、日々の業務に精進することにつながった。人間の心情というのはゲンキンでヒニクなものだと我ながら思った。
それにしても、企画財政課長の仕事は、新モノの政策課題への対応に関する自らによる企画立案や担当部署による施策や事業案についての大きな方向性の調整といったものから、辞書数冊分の厚さにも及ぶ予算要求書の一枚一枚をめくりながら、それこそ、費目の一つ一つごとに円単位で見ていくといった微に入り細にわたる予算査定業務まで、次元もレンジも程度も非常に幅広く奥深いものである。特に企画調整の総括ともいえる予算査定作業については、県庁で財政課の査定担当として朝帰りを繰り返していた頃からはすでに10年。部下をよく指示してナンボの管理職にいい加減慣れてきてからの細かい作業は本当に大変だった。
それでも、当初予算編成のとりまとめを2回。特に2年目は、自らの発意を基に地方創生に向けた政策横断的な視点で大胆に施策の再編や組み換えを主導し、もって地方創生推進交付金という国費を全国トップ水準で確保することを達成した。個別事案を振り返れば、用途に幅広い論点がありその扱いに厳しい議会議論が続いていた県央大橋周辺開発に係る土地の一部処分と活用方法への道付けに資する対応もした。ものづくりのまち燕市を知ることのできる燕市産業資料館のリノベーションが、単なる観光施設で落ち着かずに、より体験性を高めて交流人口を増やし、ふるさと納税の増進やそもそもの産業振興にも資するようなものとできるよう、担当部署と一緒に企画調整に汗をかいた。その多くはアイデアマンといわれる市長の意向や差配に頼るところが大きかったのだが、それは50歳を過ぎて管理職としての経験も重ね、県庁で催される講師の自己満足に付き合わされるだけのような研修や演習などではモチベーションアップに飽き足らなくなっていた私にとって、まさにリアルなケーススタディによる大変に刺激があり有意義なOJTだった。
そんな市長をはじめ、燕のボブディランと呼ばれてギターを弾き語り、ハーレーダビッドソンを乗りこなす一方で聞かせてもらえば大変な苦労を重ねてこられていた副市長、県から出向者の私は時に生意気に感じられたであろうに大抵が寛大で時に厳しく実務を導いてくれた企画財政部長、喧々諤々とやりとりした各部署の部課長さんや担当の皆さん達、そして何よりも、燕市をよく知りもしないで繰り出す私からの指示などに応え支え続けてくれた課員たち…。「感謝しかない」とはこのことだ。
(「燕市企画財政課27「あっという間の2年間で放置の果てに内示電話(その1)」編」終わり。県職員としては異例の職場となる燕市役所の企画財政課長への出向の回顧録「燕市企画財政課28「あっという間の2年間で放置の果てに内示電話(その2)」編」に続きます。)
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