バンクの使者!走れ忍者!

元・競輪選手のブログ

久しぶりの更新

2024-06-11 14:01:43 | Weblog

訃報です。

サイパン関連のサイトで知り合った「きんちゃん」が
5月28日に亡くなった事、奥様がブログに書き込んでいました。
きんちゃんとは、20年近くのお付き合い、
年齢、生まれ月、血液型が一緒、違うのは好みの女性のタイプ(笑)
と、いう事で仲良くなった次第です。

住まいが離れていたため会う回数は限られていましたが、
自分が中部遠征時には、名古屋オフ、きんちゃんが出張の時は東京オフ、
と、楽しく過ごす事が出来ました。

最後に会ったのは北海道オフだったか?新橋のカレー屋さんだったか?

冥福を祈ります。
きんちゃん、ありがとう。


競輪選手への道・学校生活

2021-03-07 17:09:49 | Weblog

学校生活を紹介します。
 6:30 起床 錬成 清掃 朝食
 9:00 学科
12:00   昼食
13:00   訓練
17:00  入浴
18:00  夕食
19:30  自習
20:00  消灯
*注・・・40年前の事なので正確ではありません、大体こんな感じだと思って下さい。
朝起きてから寝るまで時間に追われてる感じでしたね。
土曜がクラブ活動 ブラスバンド部と剣道部でした。
日曜は休みで、外出もOKです。
夏と冬の休暇がそれぞれ二週間。
学校行事は、体育祭、参加実習、修学旅行、ロードレース大会、等。
訓練は、前半が基礎訓練、後半が競走訓練。
記録会が4回。
卒業前に資格検定があって、
最大のイベントが、卒業記念レース
卒業式で終了。
一年間はとても長かった・・・
続く


競輪選手への道・基礎訓練

2021-03-06 17:46:30 | Weblog

1980年当時、4月入校の奇数期と、10月入校の偶数期の年二期制でした。
新卒が多い奇数期に比べると、偶数期はレベルが低いといわれています。
奇数期は疲労度の大きい夏場に基礎訓練を行うのでレベルが高いみたいです。

試走タイムでランク付けされた後は、A教場、B教場に分かれての訓練。
バンクでのオートバイ誘導、集団でのモガキ、持久力強化の1㎞サーキット、5kmサーキット。
テレビでよく観る聳え立つ壁のような「登坂走路」あれは、滅多にやらなかったですね。
自分は、体重が軽かったので(入校から3㎏増えて57kg)さほど苦しくはなかったっですが。
帽子の色はB評価から始まったわけですが、その後はD・D・B・Dと白帽を被れなかったのが残念でした。

学校生活は、午前中が授業、午後から訓練となっており。
土曜が、クラブ活動、日曜が休み。
練習量は確実に減るので、脚力低下は免れなかったです。
3月で基礎訓練は終了、4月からは競走訓練が始まります。

続く


競輪選手への道・競輪学校入学

2021-03-04 17:30:29 | Weblog

10月、競輪学校入学式の前日に集合、受付(この時、受験票の写真を見て同一人物である事を確認)を済ませ、入学式の準備。
制服、訓練服等の配布を済ませます。
翌日が入学式。
前述しましたが、この時同年のスピードスケート冬季五輪の代表選手が入校していたこともあって報道陣が多い印象を受けました。
スキー場でバイトしてた時テレビで観てた大会だなぁって思ってましたが。
入学式も無事終わって、同期のお母さんが一言「みんな、あなたより大きいわね」って・・・
はい、161㎝・54㎏、十分自覚はしております。
で、その翌日から体験入隊で、御殿場の自衛隊・板妻駐屯地へ、
ここで、2泊3日で行動訓練に明け暮れます。
競輪学校に戻って、いよいよ訓練が始まります。
まず、試走タイムの測定、この試走タイムでクラス分けがされます。
タイムによって以下の評価になります。
A評価:スピード、持久力ともに優れている。
B評価:スピードは優れている持久力は劣る。
C評価:スピードは劣るが持久力は優れている。
D評価:スピード、持久力ともに劣る。
評価ごとにヘルメットカバーの色が決められており。A(白)・B(黒)・C(赤)・D(青)となってます。
何でもランク付けする競輪界らしいですね。
A評価の証、白のヘルメットカバーは白帽とも呼ばれていて、エリートの証です。
目指せ白帽って感じでチャレンジ!
200㍍・400㍍は基準タイムをクリア。
1,000㍍もクリア。
最終種目は、2,000㍍。
この種目、入学前に1回だけやった事があり、大変苦しかった覚えがあります。
矢張りというか、案の定というか・・・
ゴールしてから、しばらく動けず、タイムを聞いて更に落ち込むという結果に。
基準タイム3分5秒に対して、3分20秒という大変遅いタイムでありました。
早い生徒だと2分40秒台で走っていて、自分から見たら異次元の走り、だからエリートって呼ばれるんだよね。
訓練のクラス分けも終わり、いよいよ競輪学校・地獄の訓練に突入です。
続く


競輪選手への道・合格発表

2021-03-03 17:57:38 | Weblog

7月が二次試験で、合格発表の8月まで1か月。
二次試験直後にバンクで前走者の落車に乗り上げ靭帯損傷の怪我を負う事態に陥ったりしながら、発表を待つ日々を送ります。
「合格するまで、何回でも受験するんだ!」という気持ちもありながら、「怪我もしてるし、もう駄目かな?」と弱気にもなります。
一次試験だけだと、受験料+健康診断書+合宿費=大体2万円位で済みますが。
一次試験に受かると血液検査の診断書+二次合宿費+修善寺までの交通費+試験中の滞在費=7~8万円かかります。
どうせ不合格なら一次で落ちた方がダメージが少ないですが・・・
落ちる前提で試験受けてないですしね。
そんなこんなで、発表の日、愛好会担当の方から「合格」の知らせを受けた時は、月並みな言葉ですが、本当に・・・嬉しかった。
10月が競輪学校入学です。
続く


競輪学校への道・二次試験(2)

2021-03-02 17:35:19 | Weblog

東京から、新幹線で三島、在来線で修善寺、そこからはタクシーで、群馬の受験生と相乗りして競輪学校に向かいました。
競輪学校、到着後、受付→自転車検査を済ませ、この日からは修善寺の旅館に宿泊です。
スケジュールは、
1日目:受付、自転車検査
2日目:学科
3日目:200㍍タイムトライアル、1,000㍍タイムトライアル
4日目:身体検査
5日目:面接
40年前の事なので記憶が曖昧なので違ってるかもしれませんが、大体こんな感じです。
2日目の学科試験を終え、
翌3日目は実技試験です。
当日は、豪雨。
課題の200㍍は、慣れない400バンクという事もあり12秒1と微妙なタイムに終わります。
午後からの1,000㍍は、もう後がないという気持ちもあって、本当に頑張りましたよ。
タイムは、1分11秒1。
1,000㍍のタイムは申し分ないものの、200㍍がイマイチだったので、結果待ちかな?って思いながら家路につきました。
続く



競輪選手への道・二次試験

2021-03-01 17:28:49 | Weblog

本日、「競輪学校」改め「競輪選手養成所」で卒業式が行われました。
一昨日の卒業記念レースでは、119期:桑名僚也(埼玉)120期:西脇美唯奈(愛知)が優勝。
成績の良かった人も、良くなかった人も、悔いの無い選手生活を送る事を願っています。

さて、前回からの続きです。
1980年当時、競輪学校の合格者は100名ちょっと、
自分の時で、確か・・・600人位受けたと思います。
一次で600人→200人
二次試験で半分が合格です。
一次が1,000㍍一本だったのが、二次では1,000㍍に加え、200㍍のダッシュ、学科(国・数・社)作文、身体検査、面接と、多岐にわたります。
問題は、実技に200㍍が加わった事。
内容は、「400㍍の助走後200㍍のタイムを計測する」となっております。
助走でバンクの上部を走って、2コーナーから山おろしでダッシュをかけるわけですが、
この種目は大の苦手でして、当時は(今もかな?)バンク上部を高速で走る事が好記録の条件と考えられており、タイムが出ないと更に高速で走るよう怒鳴られアドバイスを受けます。
「遅いんだよ!(上がね)だからダメなんだよ!全力で走れ!(上をね)」
で、仕方なく素直にアドバイス通りに走りますがタイムは出ない・・・
当然です。
そもそも、その走り方はダッシュ力に難がある人(半面、持久力の優れた人ね)に適しており、自分のような持久力に劣る者には向かない走り方ですね。
大体ね、例えば自分みたいな陸上競技出身の人間に「全力で走れ」と言えば、全力で走りますから。
例えば、陸上で、全力で走った後、スタートラインにつくようなものです。
私だったら、「脚に負担がかからない範囲でスピードを上げればタイムが出るよ!」と教えます。
と、今なら言えますが、当時は怒鳴られるのが嫌でしたから・・・
間違った走りをしてましたね。
このような、間違った指導法にも負けずに、練習に励みます。
あ、師匠は当時としては珍しく理論的でした。
二次試験前には師匠遠征の為、休養日になる、と指折り数えて楽しみにしていたところ、
同僚の選手に練習を託されました、全く余計なことをしてくれます、気遣いに感謝して(笑)「合宿」に参加。
二次試験、集合日の朝まで練習して(朝から独走を走って)、そのまま家に寄ってレーサーを輪行バッグに詰めて、そのまま電車で競輪学校に出発しました。
やれやれ、これでノンビリ出来ます。
続く


競輪選手への道・一次試験

2021-02-27 17:56:46 | Weblog

半年前の試験は、11月という事もあり、気温が低く、そして強風のためボロボロでしたが、
この日は天気も良く風もなく、絶好のコンディション。
脚に負担がかからないように、ウオーミングアップは、ゆ~~~~っくりと行い、
本番です!
落ち着いているつもりが、矢張り緊張していたようで、
得意のスタートでタイミングを狂わせてしまい、出遅れ・・・
道中、リカバリーを試み、
ゴールイン!
タイムは・・・
1分11秒フラット(自己新記録だった)
合格発表を待つまでもなく、といったところです。
1980年当時、これで落ちたらどうすりゃいいの?っていう好タイム。
これで、一安心?
と、思いきや。
師匠の一言
「今度は二次試験だからな!」
わかってます・・・
続く


競輪選手への道・練習再開!

2021-02-26 17:57:27 | Weblog

6月の入試に向けて、練習再開です。
バイトの3か月間、自転車に乗ったのは、12月に松戸競輪場で行われた「クラブ対抗」という草レースだけ。
練習してなかったけど、参加費払ってエントリーしてたし、協賛企業が多く、賞品が良かったので(笑)
結果は、速度競争が予選落ち、ポイントレースは予選、決勝共、ゴール1着のダブルポイント狙い(わかる人にはわかります)で3位入賞。
真面目に練習してる人、ごめんなさい(笑)
バイト前に注文していたフレームも出来上がってきて、部品も新しくして、シューズもオーダーして・・・
部品で強くなるわけではないんだから、「練習しなさい」って話だよね。
再開直後、大宮競輪場で行われた「一都三県」に出場し全て予選落ち、1,000㍍のタイムは・・・
憶えてないですね、忘れたいほどロクでもないタイムだったのでしょう(笑)
それでも、徐々にタイムを縮めて一次試験が射程圏に入ったかな?って勝手に思っていた4月頃、競輪場で師匠と顔を合わせました。
実は、師匠がプライベートで忙しく、ずっと独りで練習していたので、これではいけないと思ったようで、
その場で、師匠の家に連れていかれ(一旦自宅に着替えを取りに寄って)一週間ほど「合宿」が始まりました。
いやもう、今思い出しても練習したな、って感じで・・・
まず、今までやったことのない早朝練習。
朝食後、再びロード・トレーニング。
午後は、競輪場で、受験するライバル?仲間?と汗を流します。
まあ、どこが猛練習なの?って思われるかもしれませんが、兎に角きつかった。
師匠は、現役の競輪選手なので当然、競輪に参加するわけですね。
なので、師匠の競輪参加が待ち遠しかった(笑)
本当はこんな事考えてはいけません。
1,000㍍のタイム、師匠との合宿前は合格圏内にの1分12秒台が出ていましたが、
その後は、落ち込み師匠も心配してたようです。
実際は、疲労した状態でバンクに行くので、ヘロヘロで好タイムを出しようがなかったですけどね。
師匠も試験の二日前から練習量を落としてくれ、身体が軽くなってきたところで、試験当日です。
6月某日、一次試験、平塚競輪場。
前夜、色々と余計なことを考えて一睡もできずに試験会場へ。
もうね、俎板の上の鯉状態で、「早く終わって楽になりたい」
って感じで試験開始。
続く・・・


競輪選手への道

2021-02-23 23:43:37 | Weblog

中学、高校と趣味でサイクリングを続け、
夢は、自転車で世界一周、なんて思った事もありましたが、
並行して競輪の世界にも興味がわいた1977年、高2の時、
中野浩一(福岡35期、現評論家)が世界戦スプリントで優勝した記事を見た事がきっかけで、
競輪選手を目指すことになりました。
と、いう事で、
高3の時、自転車競技会にコンタクトを取り、「愛好会」に入会、競輪選手への第一歩です。
自転車競技会は主に競輪開催業務に携わっており、自転車競技スポーツ競技者の養成もしています。
当時は一次試験が1000㍍のタイムトライアルで1分15秒がボーダーライン。
因みに、高校記録が1分9秒、日本記録が1分7秒でした。
自分の場合は、1分20秒から始まって、すぐに1分18秒までタイムを縮めたものの、
その後は横這い、
なので、適性試験での受験を選択。
試験は、自転車を使用する「技能試験」と100㍍走、立ち幅跳びの「適性試験」の二種類がありますが、
自転車のタイムが出ない時点で才能がなかったんでしょうね。
高3で受けた45回生の試験は一次で不合格。
当時は、年2回募集してたので、高校卒業後の6月を目指して練習に励むも、
タイムが出ずに、またまた「適性試験」で願書提出。
よく考えてみれば、タイムが出ないから適性で、という考えがそもそも甘かったですね。
勿論、不合格・・・
次の試験は11月、47回生を目指して練習の日々です。
実は、高校卒業後、競輪選手に弟子入りして練習を見てもらっていました。
夏が終わった頃から力が付いてきたようで、
1000㍍も1分12秒をマーク!
「これって受かるんじゃないの?」
と、思って臨んだ一次試験。
タイムは・・・
1分15秒9・・・
一次のボーダーは1分15秒5、だったそうです。
たったの0.4秒ですが、そこに何十人と入ってるわけですから。
負けは負けです。(結構潔い)
諦める気持ちはなかったものの、金が無い。
家に負担を掛けたくなかったので、住み込みでバイトを探しました。
といえば、親孝行に思えるが、
練習したくなかった、というのが本当のところ(笑)
最初の一か月は工場で、次はスキー場のホテルで二か月働いて、
2月末に22万円のバイト代を手にして千葉に帰ってきました。
「さて、試験の資金も出来たし、あとは練習あるのみ!」
続く