学校生活を紹介します。
6:30 起床 錬成 清掃 朝食
9:00 学科
12:00 昼食
13:00 訓練
17:00 入浴
18:00 夕食
19:30 自習
20:00 消灯
*注・・・40年前の事なので正確ではありません、大体こんな感じだと思って下さい。
朝起きてから寝るまで時間に追われてる感じでしたね。
土曜がクラブ活動 ブラスバンド部と剣道部でした。
日曜は休みで、外出もOKです。
夏と冬の休暇がそれぞれ二週間。
学校行事は、体育祭、参加実習、修学旅行、ロードレース大会、等。
訓練は、前半が基礎訓練、後半が競走訓練。
記録会が4回。
卒業前に資格検定があって、
最大のイベントが、卒業記念レース
卒業式で終了。
一年間はとても長かった・・・
続く
1980年当時、4月入校の奇数期と、10月入校の偶数期の年二期制でした。
新卒が多い奇数期に比べると、偶数期はレベルが低いといわれています。
奇数期は疲労度の大きい夏場に基礎訓練を行うのでレベルが高いみたいです。
試走タイムでランク付けされた後は、A教場、B教場に分かれての訓練。
バンクでのオートバイ誘導、集団でのモガキ、持久力強化の1㎞サーキット、5kmサーキット。
テレビでよく観る聳え立つ壁のような「登坂走路」あれは、滅多にやらなかったですね。
自分は、体重が軽かったので(入校から3㎏増えて57kg)さほど苦しくはなかったっですが。
帽子の色はB評価から始まったわけですが、その後はD・D・B・Dと白帽を被れなかったのが残念でした。
学校生活は、午前中が授業、午後から訓練となっており。
土曜が、クラブ活動、日曜が休み。
練習量は確実に減るので、脚力低下は免れなかったです。
3月で基礎訓練は終了、4月からは競走訓練が始まります。
続く
10月、競輪学校入学式の前日に集合、受付(この時、受験票の写真を見て同一人物である事を確認)を済ませ、入学式の準備。
制服、訓練服等の配布を済ませます。
翌日が入学式。
前述しましたが、この時同年のスピードスケート冬季五輪の代表選手が入校していたこともあって報道陣が多い印象を受けました。
スキー場でバイトしてた時テレビで観てた大会だなぁって思ってましたが。
入学式も無事終わって、同期のお母さんが一言「みんな、あなたより大きいわね」って・・・
はい、161㎝・54㎏、十分自覚はしております。
で、その翌日から体験入隊で、御殿場の自衛隊・板妻駐屯地へ、
ここで、2泊3日で行動訓練に明け暮れます。
競輪学校に戻って、いよいよ訓練が始まります。
まず、試走タイムの測定、この試走タイムでクラス分けがされます。
タイムによって以下の評価になります。
A評価:スピード、持久力ともに優れている。
B評価:スピードは優れている持久力は劣る。
C評価:スピードは劣るが持久力は優れている。
D評価:スピード、持久力ともに劣る。
評価ごとにヘルメットカバーの色が決められており。A(白)・B(黒)・C(赤)・D(青)となってます。
何でもランク付けする競輪界らしいですね。
A評価の証、白のヘルメットカバーは白帽とも呼ばれていて、エリートの証です。
目指せ白帽って感じでチャレンジ!
200㍍・400㍍は基準タイムをクリア。
1,000㍍もクリア。
最終種目は、2,000㍍。
この種目、入学前に1回だけやった事があり、大変苦しかった覚えがあります。
矢張りというか、案の定というか・・・
ゴールしてから、しばらく動けず、タイムを聞いて更に落ち込むという結果に。
基準タイム3分5秒に対して、3分20秒という大変遅いタイムでありました。
早い生徒だと2分40秒台で走っていて、自分から見たら異次元の走り、だからエリートって呼ばれるんだよね。
訓練のクラス分けも終わり、いよいよ競輪学校・地獄の訓練に突入です。
続く
7月が二次試験で、合格発表の8月まで1か月。
二次試験直後にバンクで前走者の落車に乗り上げ靭帯損傷の怪我を負う事態に陥ったりしながら、発表を待つ日々を送ります。
「合格するまで、何回でも受験するんだ!」という気持ちもありながら、「怪我もしてるし、もう駄目かな?」と弱気にもなります。
一次試験だけだと、受験料+健康診断書+合宿費=大体2万円位で済みますが。
一次試験に受かると血液検査の診断書+二次合宿費+修善寺までの交通費+試験中の滞在費=7~8万円かかります。
どうせ不合格なら一次で落ちた方がダメージが少ないですが・・・
落ちる前提で試験受けてないですしね。
そんなこんなで、発表の日、愛好会担当の方から「合格」の知らせを受けた時は、月並みな言葉ですが、本当に・・・嬉しかった。
10月が競輪学校入学です。
続く
東京から、新幹線で三島、在来線で修善寺、そこからはタクシーで、群馬の受験生と相乗りして競輪学校に向かいました。
競輪学校、到着後、受付→自転車検査を済ませ、この日からは修善寺の旅館に宿泊です。
スケジュールは、
1日目:受付、自転車検査
2日目:学科
3日目:200㍍タイムトライアル、1,000㍍タイムトライアル
4日目:身体検査
5日目:面接
40年前の事なので記憶が曖昧なので違ってるかもしれませんが、大体こんな感じです。
2日目の学科試験を終え、
翌3日目は実技試験です。
当日は、豪雨。
課題の200㍍は、慣れない400バンクという事もあり12秒1と微妙なタイムに終わります。
午後からの1,000㍍は、もう後がないという気持ちもあって、本当に頑張りましたよ。
タイムは、1分11秒1。
1,000㍍のタイムは申し分ないものの、200㍍がイマイチだったので、結果待ちかな?って思いながら家路につきました。
続く
本日、「競輪学校」改め「競輪選手養成所」で卒業式が行われました。
一昨日の卒業記念レースでは、119期:桑名僚也(埼玉)120期:西脇美唯奈(愛知)が優勝。
成績の良かった人も、良くなかった人も、悔いの無い選手生活を送る事を願っています。
さて、前回からの続きです。
1980年当時、競輪学校の合格者は100名ちょっと、
自分の時で、確か・・・600人位受けたと思います。
一次で600人→200人
二次試験で半分が合格です。
一次が1,000㍍一本だったのが、二次では1,000㍍に加え、200㍍のダッシュ、学科(国・数・社)作文、身体検査、面接と、多岐にわたります。
問題は、実技に200㍍が加わった事。
内容は、「400㍍の助走後200㍍のタイムを計測する」となっております。
助走でバンクの上部を走って、2コーナーから山おろしでダッシュをかけるわけですが、
この種目は大の苦手でして、当時は(今もかな?)バンク上部を高速で走る事が好記録の条件と考えられており、タイムが出ないと更に高速で走るよう怒鳴られアドバイスを受けます。
「遅いんだよ!(上がね)だからダメなんだよ!全力で走れ!(上をね)」
で、仕方なく素直にアドバイス通りに走りますがタイムは出ない・・・
当然です。
そもそも、その走り方はダッシュ力に難がある人(半面、持久力の優れた人ね)に適しており、自分のような持久力に劣る者には向かない走り方ですね。
大体ね、例えば自分みたいな陸上競技出身の人間に「全力で走れ」と言えば、全力で走りますから。
例えば、陸上で、全力で走った後、スタートラインにつくようなものです。
私だったら、「脚に負担がかからない範囲でスピードを上げればタイムが出るよ!」と教えます。
と、今なら言えますが、当時は怒鳴られるのが嫌でしたから・・・
間違った走りをしてましたね。
このような、間違った指導法にも負けずに、練習に励みます。
あ、師匠は当時としては珍しく理論的でした。
二次試験前には師匠遠征の為、休養日になる、と指折り数えて楽しみにしていたところ、
同僚の選手に練習を託されました、全く余計なことをしてくれます、気遣いに感謝して(笑)「合宿」に参加。
二次試験、集合日の朝まで練習して(朝から独走を走って)、そのまま家に寄ってレーサーを輪行バッグに詰めて、そのまま電車で競輪学校に出発しました。
やれやれ、これでノンビリ出来ます。
続く