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塞翁が馬の意味

2024-10-21 11:27:11 | ノート

塞翁が馬の意味   (息子への手紙)


塞翁が馬という中国の話がある。

この故事成語は、中国の古典『淮南子』に由来する。

あらすじは:
中国北辺の砦に住む老人(塞翁)の馬が逃げ出す
数か月後、その馬が良馬を連れて戻ってくる
老人の息子がその馬から落ちて足を折る
戦争が起き、息子は怪我のため徴兵を免れる

あなたと、あなたの就職について話していた時にこの話を思い出していた。 それから「運命」についても話したっけ。

普通、この話は不運に見えたことが幸運につながり、幸運に見えたことが不運を招くという教訓とされている。   つまり我々におこることは、その場で評価することはできないということだ。

それをもう少し深堀するとどうなるか。

ちょうど、あなたが札幌に到着した日、私は病院に行く途中の車から遠く向こうの空に巨大な雲の塊が帯のようになって横たわっているのが見えた。 それを観ていたら、それが少しずつ動いているのに気が付いた。 その時に車内でかかっていたのが、あのゆったりとしたテンポのマーラーの五番アダージェットだった。

この巨大な雲の塊は今、かかっている曲のテンポにシンクロしているようだった。 そう。 まるでその塊は、この音楽に呼応しているようだった。

この時、言葉にならないもの、私の心もいっしょに動いているのがわかる、なんとも不思議な、心地よい、神秘に触れたような気がした。

この頃、坐禅を積み重ねていく中で、この諸行無常ということ。 あらゆるものが動いており、一時も止まらないこと。原子も、分子も、山も、海も、地球も、宇宙も。 今、この瞬間もすべてが動いている。 一瞬一瞬が過ぎ去っていくという強烈な実感がある。 時間がそこで生まれる。

明日のために今があるのではない。 過去に引きずられて今があるのでもない。 「Power of Now」という言葉をこれほど身近に感じたことはない。 その瞬間は逆に「運命」という言葉が希薄になる。 過去も未来も今の瞬間、更新されていく。

あらゆるものが変化していく。 「塞翁が馬」の本当の意味はここにある。 私の個別のエゴは、その時その時、「ヤッター!」とか、「サイアク!」とか勝手に反応しているが、この諸行無常の本質を知ると、それはあんまり意味のないことが分かってくる。

ワンネス、一なるものは変化しないが、それに対して私たちがいると思っているこの現象世界は絶えず変化している。  

ギリシャの古代哲学者パルメニデスは、感覚は私たちの周囲の世界が絶えず流動変化する多彩な世界であることをしめしているが、この姿は虚妄であり、真の存在は長時間的な、普遍不動の単一なもの(ワンネス)でなければならないと言った。

この考えが、その後の西洋哲学のベースとなった。 それは確かに理性をツールにしない点で異なっていたのだが、東洋哲学にも共通している。 ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジのようなインドのグルや仏教にも通じている。 いずれにせよ、感覚でとらえられるこの世の現象は虚妄であることに異議を唱える者は多くはない。

ところが、目の前に繰り広げられている現象が虚妄、夢のようなものだとは認めても、これに替る「永遠不滅、普遍不動の単一のもの」なんていうものはどこを探しても見つからない。 それが現状ではないだろうか。 

そこで、私たちはこのワンネスのイメージを勝手に作り上げてこの「ワンネス」すら、夢想している。右脳が優先すれば、脳科学的にそれが得られるなんて聞くとすぐに飛びついてしまう。 我々はこのような「科学」という言葉と還元主義的な発想を容易く受け入れる。

私たちは煩悩と苦しみに満ち、一時も安らぎを得ることができない現世の中で、様々なおもちゃを見つけて、様々なインセンティブを与えられ、売りつけられて、最期に病院で死んでいくまで、その現状を感覚を愉しませるおもちゃで紛らわせて生きている。

それらは、すべて一時も留まらない、諸行無常の、絶えず生成消滅していく夢のようなものだ。 夢であることに関してそれは快も不快も喜びも悲しみも変わらない。 かと言って、これに替るものは何も見つからない。 もちろん、脳出血で脳の一部が損壊されたり、幻覚剤や麻薬を打ったり、オーム真理教のように真っ暗な部屋の中に空腹の状態で長時間閉じ込められたり、ヒマラヤのヨーギのように極限状態にまで追いつめていったりすれば、何か超自然的なものが経験できるかもしれないけれど、それらはすでに2000年以上前にブッダが絶対に遠ざけたことだった。

それではどうすればよいのだろうか。

目の前にあるリンゴは梨に変わることも、消えてしまうこともない。 リンゴはリンゴのまま。すべては通常と変わらない。しかしそれは我々の日常的な世界観や先入観に当てはめてしまっているからであって、実は変わらないと思っているのは我々の脳がそれを概念化してしまったからだ。 

これをフッサールは超越論的還元によって、ひっくり返した。 それはセザンヌが目の前にあるリンゴひとつでパリを驚かせたいと言ったように、リンゴが彼の中で日常的な世界観の中のリンゴから全く別の物として現象された瞬間だ。

しかし、何も我々はセザンヌのように物を見る必要はない。 必要なのはだだ「よく見る」ということだけだ。 あらゆる日常的な世界観や先入観、分析、言語、概念化、信念を外せば、そこに一時も止まらない、変化し続ける「もの自体」があるだけだ。 サルトルにはそれが「嘔吐」を催すものに映ったのかもしれない。 

しかし、この「すべてが刻々と変化していく」ということを見極めていくことによって、逆説的だが、「永遠不滅、普遍不動の単一のもの」が見えてくる。 なぜなら、「すべてが刻々と変化していくもの」を見ているのは「永遠不滅、普遍不動の単一のもの」であるからだ。 もし見ている側も動いているのなら、それは見られる側にまわってしまう。

これがいわゆる「意識(気づき)」なのだ。 この意識は何かハイヤーセルフのようなものをイメージしてはいけない。 この意識はけっして「私」ではない。 生まれて刻々と変化して、最後には死滅するこの「私」が永遠不滅、普遍不動の単一のものであるはずがない。
「私」というのは、あなたが言及したヒュームの言ったこと、「人間は知覚の束である」と大差がないのかもしれない。 

そしてこれとは全く別の「意識」が私を含むすべての生物の単一の気づきとして在る。



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