Cogito, ergo sumという言葉は、今やだれでも知っているデカルトの方法序説に出てくる言葉だ。
この言葉は、この世が幻想であり、夢であり、実在してなかったとしても、その夢を見ている私は存在しているということを言っている。
「何も真ではない」と思っている私が存在しなければ、「何も真ではない」という事態は成立しないのである。 誰か知らぬが、極めて有能で極めて狡猾な欺き手がいて、いつも私を欺いているとすれば、疑いもなく私は存在する。 欺かれるためには、誤りうるためにはわたしは無であることはできないのである。それ故、「私は在る。私は存在する」という命題は私がこれを精神によってとらえるたびごとに必然的に真である。」…第二省察
どういうことかというと、仮にこう考えてみる。
とにかく、本当はどうなのかは抜きにして、我々が見るもの、考えるものはすべて偽である、実在していない、物体、形状、運動、場所はすべて幻想であると仮定してみる。 1+1=2というような数式だって、悪意ある霊がそうたぶらかしているかもしれない。 そうやってデカルトは真であるもののみを明確に捉えるために、すべてを疑おうとした。
そうすると、この時点で真だと言えるものはただ一つ、「何も真ではない」ということだけになる。 それではこの「何も真ではない」を成立させているのは何かと言うと、「何も真ではない」と思っている私の存在となる。 つまりそう思っている私の存在が真でなければ、「何も真ではない」が成立しなくなる。
これが「われ思う。 ゆえに、われ在り」の中身だ。
この世の中にあるものは、また我々の考えること、感覚することはすべて「真か偽」のどちらかであるとしたら、「偽」と言ったものが「われ在り」を証明するのなら、当然「真」と言ったものも「われ在り」を証明する。
ここでは私と言う存在があっても、思わなければこの関係が成立しないため、存在の証明とはならない。 デカルトはそれを精神による「考えること」と捉えた。 これに対して、身体はいくらでも疑える。 そこで「私は精神である」に帰結した。
科学は特に医学において身体を精神とは別のメカニズム(二元論)と捉えることによって飛躍的に発達した。 その意義は大きいのだが、現代では脳神経科学が発達し、もはや精神と言うのも、脳のメカニズムが作り出した現象だと捉えるのが一般的になってきた。
一方、ギリシャの古代哲学者パルメニデスは、感覚は私たちの周囲の世界が絶えず流動変化する多彩な世界であることをしめしているが、この姿は虚妄であり、真の存在は長時間的な、普遍不動の単一なもの(ワンネス)でなければならないと言った。
この考えが、その後の西洋哲学のベースとなった。 そして感覚に代わるものとして理性がクローズアップされ、それ以降は哲学を哲学たらしめる必要条件となった。 理性による明晰判明な認識が必須となったのだ。
しかし前に見た通り、デカルトの「われ在り」は、提示された命題が騙されたもの、「偽」であったとしても、「われ在り」は成立すると言っている。
この方法的懐疑をシャンカラから、ニサルガダッタ・マハラジ、仏教にまで影響している「現象世界は幻想、夢である。」に適用するとどうなるだろうか。
デカルトの方法的懐疑が正しいとすれば、現象世界は偽であると懐疑することによって、認識する主体の存在が真であることが確定されるということになる。
ここで言う認識する主体とはシャンカラの非二元論と仏教では異なってくるが、少なくともデカルトが考えた理性や精神ではない。 ニサルガダッタ・マハラジはそれを意識と呼ぶ。 しかし意識とは言っても、厳密に言えば、認識ではない。認識は概念化することであり、その時点で疑わしいものとなるからだ。 概念化する前の「気づき」もしくは「観照」のことだ。
ここで一つの図式ができる。 感覚 → 理性 → 意識
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