岡本さんは初心者の心得として、「恥ずかしがるな。まずつくれ。日記のように」と説く。その点、恥を知らぬわが輩は合格かな。「季語」は、季節と作者の人間性の象徴という。「(俳句は)四季がなければ生まれてこなかった文芸」ともいう。なるほど。「季語」は一句の柱をなす大事な命のようなもんなんや。だから「季語」を道具のように扱ってはいけないよ、「感動の焦点をしっかり見きわめそれにふさわしい季語」を選びなさい、と。ふむふむ。そして「自分の感動に忠実に句をつくりなさい、と。焦点は一生に一度のスーパームーンや。「願わくば行つてみたいなけさの月」。
「季語」をとってつけたように使う節、無きにしも非ずやなあ。季重なりや季違いもそれと関係あるぞ。「つきすぎ」ということもよく指摘される。「季語はつかず離れず」を心がけよ、と。例えばー「冬となり老人ホーム声もなし」。「冬」と「老人ホーム」がつきすぎ。そこで「昼ひそと老人ホーム石蕗の花」と添削する。これは二句一章仕立てではないか。
写真は千里南公園のトラノオセージとハナトラノオ。初秋にも咲く長命な花。季語は夏。さあどう詠むか。「虎尾草のにょきっと出でて手折らるる」。詩情がないな。「虎尾草の長く猛暑を生きるかな」。ええ線や。もう一息。「虎尾草の埋もる力土の中」。う~んいまいち。というわけできょうの一句はー。
虎尾草の夏バテ知らぬ穂が撓う 昇龍子
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ノーやん
fm
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