宝暦13年(1763)5月5日、信濃国水内郡柏原で農民小林弥五兵衛の長男として生を得た。名は弥太郎。3歳にして母を亡くし継母のもと養育された。が、折り合い悪く15歳で江戸へ発つ。いつの日か俳諧の囀りを覚え葛飾派の人づてに諸方行脚するうち出板もする俳人の道に進む。27歳で俳号菊明を一茶に改号す。異母弟と遺産争いをおこす。落着して郷里で一家を構えたのは齢すでに52歳。子どもと人生を楽しんだのもつかの間に。次々と愛児と妻を失った。再婚するも妻に逃げられ、再三婚も子を見ぬまま火事で家を失い、土蔵で淋しく生涯を閉じた。文政10年(1827)11月19日。65歳だった。法名「釈一茶不退位」。いまも、柏原小丸山の先祖墓に眠る。墓参叶わぬ愚老は、千里南公園の北端にある一茶の句碑「痩せかえるまけるな一茶是に有」を訪れ合掌した(写真上中)。この句碑は、善光寺にある一茶真筆の短冊から千里の拓本家が採取したものや。
一茶の生涯を振り返るとなぜか愚老は慟哭収まらぬ。「六十年踊る夜もなく過ごしけり」。もう泣けて泣けて。けどな、一茶はん。後世、みんなさんが慕うてござるよ。「貧すれば鈍の一茶の忌なりけり 万太郎」「旅半ば地酒あたゝめ一茶の忌 一灯」とか。愚老もじつは南千里の酒屋できょう奥信濃の地酒を見つけ、飲みながらこのノーやん日記を書いてるんや。そのうち、あいにいくからね。一茶はん。??超有名人には簡単に会えんかな。
句ほどきを聞きそびれたり一茶の忌 昇龍子
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