惻隠の情
2016-03-22 | 日記
孟子と聞けば「性善説」。
性善説、性悪説、どちらが人間の自然に近いのか?
どちらかわかりませんが、少なくともわたしの判断の基礎には性善説が働いているようです。
幸いにして、こいつは性悪(しょうわる)だ、と心底思わされた人間はいませんでした。
なので、人間不信に陥るような体験もせずに済んできました。
もちろん、みんながみんな善男善女というわけでもありませんでしたが・・・。
さて、孟子いわく、人間の心には四端というものがある。
惻隠・・・他人の不幸をいたましく思う心
羞悪・・・恥を知り、不正や悪を憎む心
辞譲・・・遠慮し、謙譲する心
是非・・・良否の判断をする心
これらは人間が生まれながらにして誰もが持っているものだというのが孟子の四端説。
言われて自分の心の中を推し量ってみれば、なるほど、と思います。
四端の中でも、「惻隠」がもっとも基本的な心の働きだと孟子は云います。
小さな子が井戸に落ちそうになったら誰しも放っておけない・・・。
という話は、子どもの頃に聞かされましたが、これが「惻隠の情」「惻隠の心」。
同情とか憐みとかの感情も含まれますが、それよりももっと広くて大きな心の働きなのでしょう。
「可哀そうとは、惚れたということよ」というのは漱石の言葉。
相手の立場になって考え、理解し、それを一緒になって受け入れる・・・たぶん、愛情の基本形。
惻隠というと何やら難しそうですが、今の言葉でいうと「博愛の精神」がいちばん近いでしょうか。
この頃の社会風潮で欠けていると思うのは、この「惻隠の情」。
弱肉強食は、性善説からはもっとも遠いものです。
惻隠は仁の端でもあります。「巧言令色すくなし仁」の人が増えたということでしょうか。