“坂の上の雲”

登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が
輝いていてもいなくても、また坂を登っていきます。

ヒグマのお話し㉑

2024-05-12 | ヒグマのお話し

暫くぶりに、ヒグマの話題です

といいますか、

ヒグマの話題も何も、登山とランニング報告以外に四方山話からもしばらく

遠ざかっておりましたが、今回取り上げる話題はヒグマ撃退スプレーについてです

ヒグマのお話し⑳はこちら

話は横道から始めますが、

少し溜まってきた新聞の切り抜きなどをつらつら眺めていると、ある人の名前に目が

留まりました

目に留まった記事は、以前に“四方山話”でとりあげた「笹枯れ現象」の続報

記事の内容は、昨年(2023年)広範囲に起きた北海道内のクマザサが一斉に枯れてしまった

現象の発生分布を調べたもので、これはこれで面白かったのだけれど・・

ちょっと気になって検索してみたのは、この記事の左下に記載されている道新記者さん

のお名前です。

内山岳志さん(YAMAP MAGAZINEより)

なんと、この方は北海道大学を卒業後、北海道新聞社に入社してから行っている

お仕事が、ほとんどToshiが日頃関心をもって眺めまわしている自然に関わること

ばかりです。(自然と人との関わり合いと言うべきか)

特に北海道内の僻地の支局を回っているときに取材したヒグマの取材記録が膨大で

、勤務している報道センターなる部署には全国の記者から関連するそれらのデータ

が集められいるのだろうと推察されます。

野生動物との接し方
人命守る道筋はどこに

「内山岳志」さんで検索すると、興味深い書き込みが沢山出で来るのだけれど、

その中でも「さすがは新聞記者だ!」と、他の雑誌で取り上げる記事とは集めた

情報量が違うなぁと感じます

前置きから話が右往左往してすみません

ここからが本題のヒグマのお話で、取り上げるテーマは『ヒグマ撃退スプレー』について

写真は2023年7月の登山時に話題にした“羆撃退スプレー”使用報告のときのもの

このヒグマ撃退スプレーは、明らかに最近山でよく見かけるようになりました。

あの野村良太さんもTV番組中、北海道の山歩きではスプレーを携帯していました。

最近Motoさんとも「そろそろ羆スプレー持った方が良いですかね?」などと話しています。

そして、昨日も余市岳を下山後に宝来小屋前で話しかけてくださった釣り客さんが腰に付けていました。

そんな折、内山岳志さんのこのヤマップマガジンの記事はとっても参考になります。

ヒグマ撃退スプレーは、

意外にも、実際にこのスプレーでヒグマを撃退した使用報告はまだ少ない

ただ携帯しているだけで瞬時に使えなかったために被害に遭った例がある

そもそもヒグマに遭わない工夫と遭遇したときの備え(心構え)が重要

それ以外の記事も大変参考になるばかりか、“新聞”というぐらいですから、

情報が日々アップデートされていくことを考えると、古くなった言い伝えばかり

を信じて事故に遭わないためにも、

是非ブックマーク登録しておくことをお勧めします

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ヒグマのお話し⑳

2023-11-18 | ヒグマのお話し

2023.10.31

大千軒岳-だいせんげんだけ-(1,072m)ヒグマ襲撃

ヒグマのお話しで取り上げる話題が、事件、事故に関わることが多くなってきた観があります。

ヒグマのお話し⑲はこちら

2023年(令和5年)11月10日(金曜日)北海道新聞 29 第1社会面

登山者が登山道を歩いていてヒグマに襲われ死亡した事故は、1970年の夏に日高山脈で

福岡大学ワンダーフォーゲル部が襲われた事故以来というので、実に53年の間、

登山者はヒグマに襲われて亡くなってはいなかったと聞くと驚く人も多いでしょう

2016.8.21「大千軒岳」出発の時点には無かったヒグマの糞

そう、ヒグマに襲われて人が亡くなるケースの多くは、➊山菜採り➋ハンター、

であり、「三毛別ヒグマ襲撃事件」や「オソ18」のように人里に降りてきて

民家や農作業者、家畜を襲うというケースを含めても、とにかく「登山道で登山者が・・」

という事故は稀なはずだったです。

今回の事故の近くと思われる登山道下の沢沿い

しかし、半世紀の間にわずか2例しかないから、とも言っておれないヒグマの

習性の変化が大千軒岳の事故でみる通り起こっていると言えそうです

キリシタンの慰霊碑の側に、別の慰霊の碑が立つことになろうとは・・

今回、ヒグマと格闘して自力で下山した3人の登山者の前に襲われたとみられる

北大生の死は誠に残念であり、ご冥福をお祈りします。

道南のヒグマは系統的に道央・道北の系統、道東の種とは違って狂暴性が高いと

言われている以外に今年は、

木の実などの餌の減少&量の笹枯れ⇒鹿の越冬困難⇒ヒグマの鹿を食べるケースの増加⇒肉食化で人を襲うリスク増

このような流れで、登山者も今まで以上の警戒が必要となっているように思います。

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ヒグマのお話し⑲

2023-09-08 | ヒグマのお話し

ヒグマを話題に上げるのも29回になりました

ヒグマのお話し⑱は⇒こちら

 

そこを知りたいと思うと、北海道の図書館にはヒグマに関する書籍が

た~くさん所蔵してあるので、主に新聞等で取り上げられた方の著書を

追うように読んでいます。

 

ヒグマそこが知りたい」の表紙は著者との縁で矢口高雄さん(釣りキチ三平)

 

著者である木村盛武さんという人は、Toshiが以前、ヒグマのお話し③

取り上げた史上最悪のヒグマ襲撃事件「三毛別ヒグマ襲撃事件」を克明に

取材し『慟哭の谷』(文春文庫)を書いた人でもあるので、以前から関連の

書籍にどのようなものがあるのか図書館を眺めていました。

 

同氏は、自身が長く林務官として奉職していた40年間の経験、野生動物研究家

としての見識からヒグマのことについて非常に詳しく、そして分かりやすい

生態の解説をされています。

 

さて、その本の中で、特にヒグマの肢跡についての解説が興味深かったの

取り上げたいと思います

 

残雪期によく目にするヒグマの肢跡⇒前肢は親指より小指の方が大きいのだそう

 

 

蹠球(しゅうきゅう)というのは猫や犬の肉球と同じもののことらしい。

 

 

このヒグマの肢跡がヒグマとの遭遇の危険を知らせてくれる貴重な情報に

なるわけだけれど、覚えておきたいのはヒグマも他の多くの鳥獣にみられるように

「止め肢」という自衛行動があって追跡者の目をくらますのだそう。

 

 

また、冬眠するために穴に入る直前に使う止め肢のことを「寝肢」というらしく、

追跡するハンターがこの罠にはまり命を落とした例があるそうです

 

ヒグマの利発さはこれに止まることなく、最大の猟者泣かせは沢や川に飛び込み

肢跡や体臭を消すんだとか・・

最近はこのような足跡を藻岩の麓や南区の公園で見かけてビビるわけです。

 

食物連鎖の頂点に存在するヒグマであっても、遠い祖先が習得した技を

長い人間との格闘の歴史において、維持していかざるを得なかった必然の本能

なのでしょうかね

動物の世界は本当に繊細であります

 

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ヒグマのお話し⑱

2023-08-06 | ヒグマのお話し

今週末は、結局天候に恵まれず山に繰り出すのは止めて走るだけにしました。

どうやら北海道も本州でいうところの梅雨が常態化してきたようで、

この夏、北海道特有のカラッとした暑さは果たしてどれぐらいあるのでしょうか。

そうこうしているうちに秋になってしまいそうな雲行きです

 

さて、雨降りなので、こりゃあ前回のヒグマのお話し⑰で紹介した『クマ撃ちの女』

を一気読みするチャンスとばかりにネットカフェに行ってきました。

「クマ撃ちの女」/安島藪太著

 

なるほど、こういう切り口でマンガを描くという手もあるか?と感心させられることしきり・・

なにより、日頃、登山道とも言えない藪漕ぎに近い山歩きをするような登山愛好家者にとっては、

ハンターと目線がほとんど一緒なのでとても勉強になります。

 

生死を彷徨う・・や、九死に一生を得るというような場面に遭遇したくはありませんが、

どんなに注意してもヒグマの生息する場所に分け入る以上、実際に遭遇したときのことを

常に考えて準備したり行動したりすることが何よりも大事です。

 

参考になるのは、本文中にいくつか紹介されている“ご教訓”

 

登山が好きと言ってもそのスタイルは様々なように、ハンターにも指向性や

性格の違いからグループで歩く人と単独行があるようです。

分かりやすい登山道ではないところばかりを歩いている人の方が知識が上かと

言うと、昨今必ずしもそうではないかもしれません。そこはハンターも一緒で、

知識が高く技術力、経験があるから単独で山に入るようになっていくのだけれど、

山中でリスク回避のために役に立つツールは日進月歩で、昔では考えられな

った秀逸な装備を初心者から教わることだってあるわけです。

 

 

この漫画、実際にヒグマに襲われるシーンがいくつも出てくるので、怖いです

その度に、ことしの流行語大賞『大丈夫じゃねぇ~よぉ』を思い浮かべるToshiです。

 

山で怪我をした人に「大丈夫ですか?」と質問すると、ほとんどの人が

「大丈夫です」と答えてしまうというのは、医療や救出の現場でも言えることらしく、

医者や看護師さんは「大丈夫ですか?」とは聞かないようにしているらしい

ということが最近わかりました。

実際には、より具体的に「ここ痛いですか?」とかいうように問いかけるらしい・・

 

でも、

最近、ニュースになった滝上町の牧草地でヒグマと格闘して九死に一生を得る事故に

遭遇した山田さん(69歳ハンター)同様、本当に大丈夫ではない事故に遭った人は、

心の底から「大丈夫じゃねぇよ」とつぶやくのでしょう

 

笑う場面ではありませんが、山田さんの記事はやっぱり笑ってしまいます。

 

とにかく、

ヒグマの生息地に分け入っていく我々登山者も自己責任の重さをしっかりと

認識し、リスクに応じてできうる限りの装備と知識を常日頃から取得して

おくべしということですね。

 

このコミック、続き希望でお願いします。

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ヒグマのお話し⑰

2023-07-27 | ヒグマのお話し

しばらく取り上げていなかった「ヒグマのお話し」です。

数日前の北海道新聞朝刊の▶▶聞く語るで、

女性ハンター題材のマンガ「クマ撃ちの女」/作者__安島藪太さん

という記事がありました。

 

ヒグマのお話し⑯はこちら

 

新聞の記事中の紹介文をレンズで拾いました。

 

言葉

クマ撃ちの女

 旭川市を舞台に、ヒグマを狙う31歳の女性ハンター・チアキの成長を描く。チアキは姉と2人で狩猟に出かけた際、山中でヒグマと遭遇。姉はヒグマに襲われて大けがを負う。チアキは事故をきっかけにヒグマを狙うようになる。親子がヒグマに襲われて死傷する事故や、人の生活圏にヒグマの生息地が近づいていることなどを描いたシーンがある。コミックスは11巻まで刊行されている。

 

 

略歴

あじま・やぶた

 愛知県出身、東京都在住。大阪芸大映像学科を卒業後、映像制作会社を経て、24歳で漫画家を志す。単発作品を経て、19年から初の連載作品「クマ撃ちの女」を、新潮社の漫画サイト「くらげバンチ」で連載している。

 

ハンター目線のヒグマを取り上げた漫画は初めてですね

面白そうな作品なので、是非、読んでみたいと思います

 

 

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ヒグマのお話し⑯

2022-10-29 | ヒグマのお話し

ヒグマのお話し⑮からの続き...

 

福岡大学ワンダーフォーゲル部遭難報告書 抜粋

1970・7・26 

カムイエクウチカウシ山における

ヒグマによる遭難

 

 このたび、わが福岡大ワンダーフォーゲル北海道日高縦走パーティーが、日高山脈カムイエクウチカウシ山十勝側、八の沢カールにおいて遭難し、竹末一敏君、興梠盛男君、河原吉孝君の尊い生命が、失われるという最悪の結果に終わりました。ここに関係者の皆様に、多大な御心労御迷惑をおかけしましたことを深く、お詑び申しあげます。

 私達は三君のめい福を祈ると共に、今度の遭難が滑落、雪崩等の山岳遭難とは違い、十勝地方では戦後初めて熊に襲われたものであるという特異性はありましたが、この悲しい事実にたいし、ここに深く反省し、その原因を追求するものです。

 私達は、この事故にたいする自覚を新たにし、三君の尊い犠牲を無駄にすることなく、今後このような事故を再度くり返さないためにも、日高遭難の諸要因を深く検討するとともに、今日までのワンゲル活動の歴史を顧みて、反省すべき点などをきびしく真剣な態度で追求し、全ての自然にたいして、今一度深く謙虚に考えることが、必要であると思うものです。

事故経過報告

7月25日

 15:20 1900m峰の直下1500mの九の沢カール着、テント設営。

 16:30夕食後全員テントの中にいた時、竹末君が熊を発見(テントより6~7mの所)最初は興味本位に観察、この時テントから2~3m付近をうろうろ、だんだん近づいてくる(この時はキスリングはテントの外にあった)30分位してキスリングをあさりだした。食料を食べているのが見える。熊の様子を伺いスキを見てキスリングを全部テントに入れる。その後、火をたき、ラジオの音量を上げ食器を鳴らす、そうしているうちに30分位して熊の姿が消える。

 20:00 探したが見当らず。

 21:00 熊の鼻息がし、テントに一回だけ触れ、こぶし大の穴があく。この夜は2人ずつ見張りをし、2時間交替で寝る。

 7月26日

 3:00 起床(快晴)

 4:30 パッキングも終わりに近ずいた時、再びテントの上方に熊が現われる。15分位はテントの外に出て熊をみていた。昨夜同様、だんだんと近づいて来た。テントに入って様子を伺っていたが、テントの傍まで接近しテントに手をかけ侵入しようとした。我々はテントが倒されないよう、ポールをしっかり握りテントの幕をつかんでいた。5分位熊と我々はテントの幕を引つ張り合っていた。これ以上はだめだと判った時、竹末君が入り口の反対の方の幕を上げ一斉に1900m峰の次のピークに向かって45-50m程逃げる。ふり返えると熊はテントを倒し、その中にあるキスリングをあさっていた。それからすぐ僕と河原君は、竹末君の命令で「九の沢を下り、札内ヒュッテか営林署に連絡し、詳細を話しハンターの要請を頼む」と言われたので、すぐに僕は河原君を連れて九の沢を下る(5:00)。

 7:15 八の沢の出合いで北海道学園大学10人位と会う。彼等の話しによると「我々も熊に襲われたので、直ちに下山する」とのことだったので、僕は彼等に我々の事情を話したら(僕は大学名、パーティーの人名、年齢を紙に書いて渡す)了解してくれハンターの方も引き受けてくれるというので、安心し彼等の情に甘えて食糧二日分、地図、コンロ、ガソリンを借りた。

 7:45 八の沢出合いより今度は九の沢を登った(これは時間の短縮と安全性を考えて)。

  12:30 カムイエクウチカウシ山近くの稜線に出る。

  13:00 稜線に出た竹末君等3人と合流、テント、キスリングは稜線上に上げていたのでパッキング休憩等で1時間費す。僕と河原君が稜線に出て3人と合流する間、稜線上で鳥取大、中央鉄道学園と会う。

  15:00 カムイエク1900m峰との中間ピークにてテント設営と決定、夕食作りと並行してテントの修繕をする。

  16:30 夕食をすませ、テントを設営し寝る準備をしていたところ、入口と反対の方向に熊現わる(三度目)。一斉にカムイエクの方へ縦走路を50m位下る。そこで1時間半位様子を見る。

二回竹末君がテントのすぐ傍まで行き熊の様子を伺う。二回目様子を見に行く前、興梠君と河原君に八の沢カールにテントを張っている鳥取大のところに行き、今晩の宿泊をお願いするよう相談しに行くように命じた。竹末君が二回目熊の様子を見に行って帰った時、「まだ居るので、もう鳥取大のテントへ行こう」と言い、残る3人で鳥取大のテントへ向う。途中、帰ってくる興梠君と河原君に会い鳥取大のテントは確認したとのことで、5人合流して鳥取大のテントに向う。カールに下るにはカムイエクの頂上を登って行かなければならないけれども時間がないし、全員疲れているので竹末君は頂上手前の稜線からカールに下ると決定、僕も了解した。そこはハイマツも少なく、草が生えており、危険なところではなかった。

  18:30 稜線から60~70m下ったところで西井君が後を振り向き熊を発見、僕の後10m前後にあった(下る時は最初に竹末君最後に僕が歩いていた)。熊を発見して全員一斉に下る。僕は少し下ってすぐ横にそれ、ハイマツの中に身を隠した。熊は僕のすぐ横を通り下へ向った。そして25m位下のハイマツの中で「ギヤー」という声がし、格闘している様子であった。とたんに河原君がハイマツの中から出て「チクショウ」と叫び熊から追われるようにカールの方へ下って行った。それからすぐ、竹末君が僕のところへ来ると同時に全員集合の声をかけた。すると西井君が僕等のところへかけつけ興梠君にコールすると約30m下と思われる地点から応答があったが、とうとう来なかった。そして3人で鳥取大のテントへ向って助けを求めた。すると鳥取大は20分位して、二カ所に火を焚き、ホイッスルを吹いてくれた。その後、鳥取大は沢を下った。3人集まっていた時、竹末君は、「河原君は足をひきずりながら鳥取大のテントへ向ったのを見た」と言った。それから我々3人(滝、竹末、西井)は一応安全な場所と思われる岩場へ登り、身を隠した。26日の夜は、この岩場で過ごす。(20:00)

7月27日

 7:30 ガス濃浸し。視界5m。一応8時より行動開始と決定、まず河原君の所在を確認することに決定。

 8:00 岩場より竹末、滝、西井三君の順で下る。ガス濃くなり視界がきかないため、ゆっくり注意して下る。15分程下った時、下方2~3mの所に熊現われる。一瞬身を伏せ、様子を見るが、突然熊が「ガウア」と叫ぶ声とともに竹末君が立上がり、熊を押しのけカールの方へ熊に追われながら竹末君が逃げて行くのを確認。すぐ西井君と二人で山の斜面をトラバースし、カールを右手に見ながら八の沢に出て沢を下る。

 13:00 五の沢、砂防ダム工事現場へ到着。一応、事情を説明し車を待つ。

 18:00 中札内駐在所へ到着。

興梠メモ

    遺体付近から興梠盛男君の手帳が発見されました。

 

 クマはまず一つのキスをはこび出し、テントから10m下のしげみの横でむさぼりだす。昨夜は交代で徹夜したので、一人は上の尾根の縦走路で睡眠をとり、二人で見張る。

 5:24 クマが右下5mぐらい、キスをくわえて移動する。

 5:30 テントに近づき、たおれたテントをひきかきまわす。キャンパンのついたキスを持って左下の日影のところに持っていくが、なにもせず、またテントに近づく。グランドシートの上においていたセイテツパンを食べているようである。

 5:40 おそらく竹末さんのキスをもって下方にもっていくが、またそこにおいてテントのところにくる。興梠のキスをくわえて10mぐらい下るが、キスを置いて左へまきながら姿を消すが、また興梠のキスをくわえて下りだす。30m下の低木地帯の中へ入る。

 5:48 再びテントに近づく。興梠のキスほ下に置いたまま。

 5:50 左の方へ移動する。左の雪けいの横の岩場に現われる。またかくれる。上に登ってくるようである。テントから左上方200mのところにくる。3人も上方へ上る。

 6:00 小さな雪けいの近くにくる。しばらくして下りはじめる。

 6:07 テシトの横にくる。突然ラジオが鳴りだし、クマがあわてて右方向へ走って遠ざかり、カールの尾根で横たわる。

 6:13 林の中へ姿を消す。行方がわからない。

 6:35 尾根に3人とも上る。いまのうちにできるだけキスを上げることにする。

 7:15 縦走路の分岐までキスを3個上げ終わる。

 7:30 腰を下ろし3人集まって気分をほぐす。

 8:30 いままで快晴であったが少し雲の割合が多くなり、心配であるが、3人とも歌など歌って気晴らしするが、しばらくすると歌もつきて眠る。

 9:25 目をさます。

 9:30 腹がへったので、カンパンを食べる。

 9:55 水くみ(20L)と残りのキスとテントを取りに行く。

  10:35 尾根に着く。西井のキスがイカレる。

  11:30 昼食。

  11:45 鳥取大現在地を通過。

  12:05 竹末さん、滝さんを迎へに沢を下る。

  13:30 現地点で会合。

  13:45 滝さん帰ってくる。全員無事

7月26日

  17:00 夕食後クマ現われる。テントを脱出鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。

  17:30 我々にクマが追いつく。河原がやられたようである。オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。

 オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。仕方がないから、今夜はここでしんぼうしようと10~15分ぐらいじっとしていた。竹末さんがなにか大声で言っていたが、全然聞きとれず、クマの位置わからず。

 それから、オレは、テントをのぞいてみると、ガケの方へ2~3カ所たき火をしていたので、下のテントにかくまってもらおうとガケを下る。5分ぐらい下って、下を見ると20mさきにクマがいた。オレを見つけると、かけ上ってきたので、一目散に逃げ、少しガケの上に登る。まだ追っかけてくるので、30センチぐらいの石を投げる。失敗である。ますますはい上がってくるので、15センチぐらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。それからクマは10m上方へ後さがりする。腰をおろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って、右手の草地の尾根をつたって下まで一目散に、逃げることを決め逃げる。前、後、横へところび、それでもふりかえらず、前のテントめがけて、やっとのことでテント(たぶん六テン)の中にかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手指れである。中にシュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入りこみ、大きな息を調整する。

 もうこのころは、あたりは暗くなっていた。しばらくすると、なぜかシュラフに入っていると、安心感がでてきて落ちついた。

 それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。昨夜も寝ていなかったから、このまま寝ることにするが、風の音や草が、いやに気になって眠れない。明日ここを出て沢を下るか、このまま救助隊を待つか、考える。しかし、どちらをとっていいかわからないので、鳥取大WVが無事報告して、救助隊がくることを、祈って寝る。

 7月27日

 4:00頃、目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。もう5:20である。また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。

ああ、早く博多に帰りたい。

 7:00 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。

 3:00頃まで(途中判読できず)他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。

 またガスが濃くなって………。

現地での判漸と行動

 S・L滝による現地での判断によると、25日夕方初めて熊が現われ、食料を少し食べられた時に、なぜ、すぐに下山しなかったか、次の3点があげられる。

 ①時間的に下山するには、余りにも遅く、暗いので危険だった。

 ②熊の行動が暗くてつかみにくかった。

 ③過去日高において人に危害を加えた記録がなく、ラジオ、食器を鳴らし、火を焚いたら姿を消したし、また明日、カムイエクウチカウシをピストンして下山する予定だった。

 翌26日朝、熊に襲われた時、全員で何故下山せず、2人でハンターの要請に行ったか、という点についてほ、熊が一日中テントに居すわるか、また、テントの回りをうろつくと思った。それに下山するならば、全員、金銭、貴重品はキスリングの中にあったし、キスリング・テントを持ちかえろうとしたからであった。

 その後、26日14:00ごろから1時間位歩いて稜線上にテントを張ったのは、翌日カムイエクウチカウシ山をピストンし、八ノ沢へ下るルートがサイト地のすぐ近くにあったからであり、266日カムイエクウチカウシ山を越えて八ノ沢カールに行くには、全員の休力的、精神的に無理であった。また日高へ行く前に得た熊の習性からして、カールボーデンや沢の近くより、稜線上の方が安全度が高いと思ったからであり、熊の行動が低いところより高いところの方がとらえやすかったからであった。

探究

 今回の遭難は、誠に不幸な出来事であった。当時、日高山系に入山していた約30パーティの中で、今回のような悲劇にみまわれたのが、たまたま我クラブのパーティーであったということは、不運という外はない。途中熊に出会いさえしなければ、そしてその熊がいままでの常識では考えられない執拗に人を追い人を襲うといった熊でなかったら、全員無事に予定コースを終えて下山していたであろうことは間違いない。

 すなわち、熊の件を除けば、今回の日高縦走の計画や装備・食料・治療・気象、その他の準備については、専門家の判断でも特に問題はなかった。ただ、日程の点で若干無理があったとの指摘をうけたが、この点も、カムイエクに来るまでに予備日4日を使い、最初の予定であったペテガリまでの縦走を断念して、カムイエクで打ち切って下山することにしていたので適切であったといえる。したがって、問題を熊の件にしぼって検討して差支えないであろう。

 今回のように人を襲って殺すような熊が日高山系に出没するということについて事前にはっきり分っていたならば、今回の悲劇はおそらく避ることができたであろう。その点で事前調査が甘い、北海道の山を知らない、という非難を一部の新聞からうけた。また、最初に熊に襲われていた時に下山しておれば………と言うこともよく聞く。結果的にいえば確かにその通りである。したがって、問題を事前調査の適否と、最初に熊に襲われた段階でのパーティーの判断の2点について、みてみたい。

1事前調査について

 なすべき調査は一通り行っていたと言えるであろう。もちろん100%完全といえないとしても、少なくとも手落ちがあったとはいい難い。問題は、これらの資料からは、普通の熊についての習性や対処の仕方については知ることができても、今回の熊のように、いままでの常識でほ考えられない、凶暴な熊についてほ知ることができなかったという点である。

 すなわち、我々は今回のような悲劇が起きることを事前に予測しうる状態にはなかったといえるのである。もし我々の事前調査が甘かったとするならば、当然、現地の状況をよく把握して書かれたはずの「ガイドブック」にその点の明確な指摘がなかったことこそ、問題にされなければならないだろう。もう一つ重要な点は、我々がその点を知らなかったのほ、九州に居るからであり、現地ではそのことが分っていたのかということである。この点もそうとは言い難い。今回の遭難は、地元にとってもはじめての事件であり、先例はなかった(しいていえば52年前の大正7年大雪山系で熊に襲われて死亡した事件がある)。我北海道日高パーティーが営林署に入山届を出した時の問合わせに対しても、熊についての警告は与えられていない。また7月に入ってから日高山系に入山した51パーティー、276人の中には、本州からのパーティーだけではなく、北大、室蘭工大、小樽商大などの北海道のパーティーや、現地の帯広畜大のワンゲルのパーティーも含まれている。とくに帯広畜大のパーティーとは本学パーティーは、現地附近で顔を合わせ、テントサイトの指示を受けている(そこに熊が現われた)。また、1カ月前、日鉱室蘭の社員が単独登山して行方不明になった時の日高山系の山狩りにほ、とくにハンターを動員していなかった。これらのことは、いずれも地元においても、今回のような悲劇が起きることが明確に予測されていなかったことを示している。あるいは極く一部の人々には、このことは予測されていたかも知れないが、われわれだけでなく、地元の人を含めて一般に、今回の悲劇は予測されていなかったと言って良いであろう。

 それであればこそ、今回の遭難を新聞も連日のように大きく取扱ったであろう。したがって今回の事件は、地元を含めて日本人全部に大きな衝撃と教訓を与えた最初のケースというべきであろう。その意味で、三君の尊い犠牲を無駄にしないように、今回の事件の教訓を最大限に生かさなければならない。また、今回の熊が、従来の熊についての常識から離れた特別の熊であったという点も重要であろう。普通、熊は特別のことがない限り熊の方から人を襲うことはなく、大きな音をたて、火を焚けば逃げるとされている。しかし今回の熊は、火を見ても、音を聞いても恐れず、積極的に人間に近づき、執拗に人間を追って、ついにこれを襲って殺した。しかも、夏熊はやせているという常識に反して、冬熊のように肥えていたという。恐らく近年、登山者の増大に伴う人間との接触によって熊の習性が変わって、このような熊が出て来たのであろう。そして、そのような熊がいるということが、今回の遭難を通じて初めてはっきりと知らされたと言っていいであろう。

2パーティーの判断について

 結果的にいえば確かに最初の襲撃(1回目および2回目)を受けた時点で下山しておれば、今回の悲劇は防げたであろう。その時、なぜ下山しなかったのか、この時のパーティーの判断については別項で述べられたとおりである。これを見ると、この段階でも今回の悲劇が起ころうとは予測してなかったことが分かる。生存者の証言によっても、誰も下山しようとは考えなかったという。結果的に確かに熊に対する判断が甘かったといえるし、また万全を期するという立場からすれば、この時点で下山することは可能であったし、結果的にはその方が良かった。

 しかし1回および2回の襲撃では、人を襲うことはなく熊の行動が、いわば従来の常識の枠内であった(1回目には音を立て、火を焚いて、間もなく姿を消した)という点、および事前調査によって得られた知識からは、熊が人を襲って殺すというようなことが起きる可能性については、何等知らされていなかったという点からすれば、そのようなことが起きると予測しなかったとしてもそこに無理があったとは、あながちいい灘い。

 今回の事件はそのような意味でも、こういう悲劇が起きることが事前に知らされ、予測されておりさえすれば、防げたであろうが、それを知らされていなかったし、予測されていなかった。そして事前にそれを知り、予測することができなかったが故に発生した遭難であって、そのような意味で不可抗力的であったといわざるを得ないのである。そして、今回の三君の尊い犠牲を通じて得られた一つの教訓は、常に不測の事態に備えて万全の対策をとるということであろう。

-以上・抄録・原文どおりー

 


いかがでしたか?

事件から52年が経過した現在、ヒグマに関する情報は毎年のように更新され、

今では“人を襲うヒグマ”は珍しくもなくなっていますが、そのようなヒグマは半世紀前から存在していたことがわかります。ヒグマは人間の食べている米の飯や、人が育てているトウモロコシのような食料を口にするともう居ても立ってもおられないぐらい美味しいと感じるようです。

 そしてその味を一度覚えると執着しないではおれない。火を焚いても音を鳴らしてもダメだということがよく分かります。我々は、ヒグマをそのようなヒグマにしてしまう原因は人間にあるのだという認識をして、それらのことを山でも里でも防いでいくことがヒグマとの共存の第一であろうと考えます。

 今日、日高山脈でヒグマに遭遇し中に食料が入っているザックをそのヒグマに取られるようなことがあったら、その時はもう、あらゆる手段を講じてそのことを近くに入山している登山者に告げ、下山を促し、仮に伝えられない場合であっても、電波の繋がる場所まで行きついたところで必ず警察にその一報を入れるということをする義務があることを認識するべきでしょう。

長い文章にお付き合いいただき誠にありがとうございました。

これからも北海道に住むヒグマについての話題を続けていきます。

 


【参考】

1970.7.26 福岡大ワンゲル部・羆襲撃事件 1 of 5

https://youtu.be/ZG7hD4X8pK4

1970.7.26 福岡大ワンゲル部・羆襲撃事件 2 of 5

https://youtu.be/GlypGYv_16k

1970.7.26 福岡大ワンゲル部・羆襲撃事件 3 of 5

https://youtu.be/LnaHxkEUaws

1970.7.26 福岡大ワンゲル部・羆襲撃事件 4 of 5

https://youtu.be/sZR5_A_7joY

1970.7.26 福岡大ワンゲル部・羆襲撃事件 5 of 5

https://youtu.be/uHb9tuf_5Sw

 

 

 

 

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ヒグマのお話し⑮

2022-10-29 | ヒグマのお話し

ヒグマのお話しも、考察から数えて20数話にも及んできました。

(ヒグマのお話し⑭はこちら)

ここにきていよいよこの話題を取り上げることになります。

北海道における登山とヒグマの関係について語る上で、知識としても是非インプットしておきたいヒグマ遭難事故の事例です。

福岡大学ワンダーフォーゲル部遭難報 1970・7・26 

カムイエクウチカウシ山におけるヒグマによる遭難

 

ヒグマに興味のない人にはまったくつまらないものなので「ヒグマのお話し⑮&⑯」はスルーしてください。

今回はすべて書き写しです。ただし、文章として記述されたものは非常に希少なので転写させていただきました。

興味がある人であっても文章は非常に長いので、時間があるときにご一読ください。

字数が多いのでブログの文字制限の関係上、2話(ヒグマのお話し⑯)に渡って書き写しております。

転写にはGoogleレンズを利用しました。

 

それでは、再び紹介させていただく古い古い

昭和46年3月1日発行の季刊『北の山脈』日高特集<特集号>から・・・

 

まずは、当時遭難した福岡大学ワンダーフォーゲル部と時を同じくして入山していた北海学園大学のパーティーの貴重な投稿「ヒグマとの対決」からです。

2話目(ヒグマのお話し⑯)とセットで読むことで、当時カムイエクウチカウシ山で起こったことがよりリアルに掴むことができます。

(誰が悪いわけでもないですが、結果的に彼らがここで記述している“キスリングをヒグマに与えてしまった(取られた)ことが、“その後のヒグマの行動”に大きな影響を及ぼしたことは明らかです)


ヒグマとの対決-----------------------------------------武山正一

 

しゃばの人間は、「よく帰ってきたなあ」「おまえは悪運が強いんだなあ」「貴重な休験をしたなあ」という。しかし、われわれ5人にしてみれば、そう簡単にすまされるものではなかった。とくに今回、岳友である福岡大学ワンダーフォーゲル部員のうち、無惨にも3人もの若い命を奪われてしまったからである。われわれの昨年の夏山合宿は、日高山系「カムイエクウチカウシ山」(1979m)であった。

7月22日 われわれエサオマントッ夕べツ岳班人(渡辺信英、秋田正典、権瓶恵、光武義博、武山)は、ゆうやみせまる札幌をあとにして、一路帯広へと向かった。

7月23日 午前6時起床。すばらしい天気である。山脈がとてもきれいだ。屋根つきの大正駅で一泊したせいか、疲れがいっぺんにふきとんでしまった。タクシーをチャーターし、戸蔦別川に沿ってのぼった。オピリネップ沢、ピリカペタヌ沢、トッタベツ橋を通過した。

 8時50分、徒渉、ひじょうに流れが速いが全員無事にわたり、朝食をとる。いよいよ第一歩を踏みしめた。戸蔦別川は、ひじょうにきれいな水だが、流れがとても速い。10時40分、戸蔦別川上流エサオマントッタベツ沢出合いに到着した。左右の小さな滝から水がいきおいよく流れている。イワナがみえる。300メートルほどの滝をのぼり、5時30分、エサオマン北東カールに到着。カールにて晩めしをつくりながら夜空の星をみるのもまた粋なものであった。思えば、あの真新しいテント、われわれの疲れをいっぺんにおしだしてくれたカレーライス。すべてが、われわれ5人を満足させてくれた夜であった。明日のコースを確認しながら深いねむりにおちいった。(明日は……)

7月24日 6時起床、快晴である。7時35分、北東カールをあとにして、雪渓をのぼり、札内岳分岐点へと急いだ。コールが聞こえた。玉川パーティー(新冠班)である。われわれは、分岐点で彼らと別れ、エサオマントッタベツ岳(1901メートル)へと向かった。彼らはシュンベツ岳(1852m)そして1880へと向かっていった。10時、エサオマントッ夕べツ岳頂上に到着。札内岳(1895メートル)十勝幌尻岳(1846メートル)がみえる。遠くの幌尻岳七ツ沼カールがとてもきれいであった。たんのうするのもつかの間、われわれは今夜のキャンプ地・十の沢カールへと足をむけた。午後1時10分、ナメワッカ分岐点通過。暑さが最高点(30度前後)に達し、われわれも疲労を感じだした。2時20分、シュンベツ岳に到着。「疲れた」ポリタンの水を一気にゴクリと飲んだ。「うまい」「ジュースでもつくろうか」そのときである。

 2時35分。光武「熊のうめき声がきこえる」と、やぶの中から小走りに出てきた。われわれは「どらどら」と、ものほしげに見にいった。

本当である。十勝側のやぶの中から大きな顔をヒョッコリとだして、こちらをみつめている。わずか10m手前。一見たぬきのような顔つきである。すぐ、ザックを背負い、1880へと急いだ。クマはわれわれを追ってくる様子はなかった。うしろをふりむくと、頂上で山犬が、ちょうど遠ぼえでもしているような格好をしていた。「写真をとれ」「だめだ、すぐ行け」登りになると、いままで保ってきた呼吸が、いっぺんに乱れはじめたためか、心臓がバクバクしてきた。うしろをふりむく。クマはいない。「よかった」と思ったとたん、その喜びは一瞬のうちにふきとんだ。いままで頂上にいたクマが、われわれが通ってきた尾根道を、臭いでもかぐようについてきているではないか。ノッシノッシ、まるで足音がきこえるようだ。急ぐ、一団となって、なお急ぐ。呼吸が、いっそう乱れる。うしろをふりむく。クマがみえない。やぶのかげでみえないのだ。

「おい、前の方、少し急げ」と後尾にいた光武の声が聞こえる。急に「止まれ!」ふりむくと10mうしろにクマがみえた。どうやら途中走って追いかけてきたものとみえる。「そこの岩にあがれ」われわれ5人は4mほどの岩にのぼった。クマとのにらみあいがはじまった。10秒…20秒…30秒…1分…3分…「目を離すな」ヒグマである。うすい褐色がかかった体毛をもつクマで鼻、足が真黒だ。体長はだいたい2mはあろう、巨大なクマである。クマは、どちらかの沢へおりようかと、うろうろしている様子であった。われわれは「いまおりる」「気の弱そうなクマだ」と、クマの目をみつめながら、励ましあった-。

 突然、クマの足が動きだした。一瞬、ドキッとした。われわれの眼の下を、ノッシノッシと、通り過ぎていった。時計をみると、ちょうど3時であった。だがその時である。クマは向きをかえ、よだれをたらし、毛を逆立てながら、われわれに襲いかかってきた。われわれは岩をとりまくようにして逃げた。しかし、クマはしつこい。なおもわれわれをおってくる。……突然、前にいた渡辺の足が、ハイマツに足をとられ、くるぶしまで埋まり抜けない。うしろからクマがくる。しまった!と思ったとたん、かれの足がスルリと抜けた。まさに奇跡であった。渡辺「ザックを捨てろ」逃げ回りながらザックをおろし、岩の間におしこんだ。光武、渡辺、武山の三つのザックを放棄し(権瓶、秋田はザックをおろすひまがなかったのである)岩の上にのぼった。だが、うしろからクマが登ってくるではないか。クマとの距離1m50cm弱。私は夢中で岩からとびおりた。この4mの空間が、ひじょうに長く感じられた。かぶっていた白い帽子が、下からの風にあおられてとんでいった。飛び降りた岩の上にピタリととまった。足が岩にすいつけられるようにして、とまったのである。よく4m岩からとびおりて立ったものだと、われながら感心する。われわれは一団となって、1880へとよじのぼっていった。ただ、逃げるのみである。生も死も、考えてはいられなかった。30mほど走って、うしろをふりむいた。クマは追ってきてはいなかった。おそらく、ザックにかぶりついているのであろう。われわれは、ほんの少しでも、クマから遠ざかるために登りに登った。

30分ほどいくと、さっきの玉川パーティーが、のんきに何か食べている「助かった」はじめて助かったと思った。不思議なものでたとえ3人でも安心感がわいてくるものだ。「クマだ」「クマにやられた」しかし、彼らは横目もくれずに、ただ、もくもくと食べていた。だが、われわれ三人が、ザックを背負っていないのだ。彼らもようやく本気にしたのだった。

1880を通り、4時50分九の沢カ-ルにキャンプを張った。藤井パーティー(コイボクシュシビチャリ川班)とも合流し、総勢11名、身を固めるようにして眠りに入ったのである。

テントをやられたため、三人がビバークした。小枝を拾ってきて火をたき、カールの水がチョロチョロ流れるのをききながら…。頭の方でガサガサークマか。しかし、風である。これが何度もくりかえされたのである。本当に、神経が細くなるおもいであった。もしあそこで5人のメンバーのうち、一人でもやられていたら…もし、一人がころんでいたら…もし、とびおりたのが岩でなくて、反対側のハイマツだったら…。つぎつぎと冷えびえと脳裏に浮かんでくるのであった。今日までに一番長い日であり、また、一番長かった35分間であった。

7月25日 3時、目がさめる。まっかな朝やけがとてもきれいだ。まるで、何事もなかったかのように。4時、全員起床。2人のテントキーパーを残し、きのうの現場へ行った。この登りをどうやって逃げてきたかは、いまは記憶すらなかった。5時10分、現場に到着。一瞬、びっくりした。あとかたもない。あの大きなキスリング二つを、どうやって運んだのだろう。ロにくわえてか、それとも首にかけてか。まるで、人間(?)が運んだかのようだ。ただ、渡辺のアタックザックのみが残っていた。ツメでひとかきされ、中のものが全部とりだされて、もう使いものにはならない状態であった。アタックザックからとりだされたものは、岩の上にきれいに並べてあった。まるで人間が並べたかのように。付近をさがしていると、あの白い帽子、ナイフ、地図がみつかった。どうやら、九の沢カールへおりたらしい。「早くいくべ、クマがまだいるかもしれないぞ」すべてのものがよだれでぬれていた。われわれは、即座にここをあとにした。

われわれは、今回の目的地であるカムイエクウチカウシ山を10時45分アタックし、八の沢の水にひたりながら、八の沢出合いまで降りてきた。他の2パーティーとも合流し全メンバー18名で、日高最後の夜を過ごした。ファイヤーがとてもきれいで、煙がどこまでもすきとおって、高い夜空へ立ちのぼっていった。

7月26日 6時起床。テントの中がものすごく暑い。外へとびでる。朝食を済まし下山の準備をした。午前7時「オーイ、オーイ」われわれは全員、荷物をほうり投げ、声の方へ走った。沢の中から二人、登山靴をびしゃびしゃにしながら、助けを求めにきたのであった。

私は、クマにやられたなと思った。案の定そうであった。彼らは、福岡大学ワンダーフォーゲル部員であった。まだ上に3人がいるとのことである。危ない、三人が危ない!どうやらわれわれを襲ったクマと同じクマのようだ。現場、時間などから判断して……。

×××

 あの時の河原君(クマに殺された)の驚ききった真蒼な顔が、いまでもありありと写るのである。もし、あそこで彼が、上にいる3人を助けにいかなかったら……。しかし、彼は岳人である立派な岳人であった。

×××

 われわれは、食糧、ホエーブスなどを、彼らにわたし、7時30分警察署に届けるため、急いであの広い札内川を下ってきたのであった。

 いまは、ただ、よく助かってもどってきたと思う。新聞・テレビなどで、クマが射殺されたことを知った。われわれを襲ったクマに間違いなしと確信している。

 本当によかった。

 私は、今回の夏山合宿において、多くのことを知らされた。

 まず第一に、3人もの若い命を奪ってしまった、北海道のヒグマについて重要視しなかったことで、おおいに反省させられる。

 第二に、冷静な判断である。とくにOBの人達は、経験の深い人である。もし、あそこに彼らが存在しなかったらいまごろは……。

 第三に、岳友のあたたかい心である。本当に涙がでるほどうれしかった。

 今回の夏山合宿は、生涯忘れえぬものになるであろう。しかし悪夢に終わってほしい。

 さあ、今度ほ冬山だ。今回の夏山合宿は、いっさいはきすてて、あたたかい岳友とともに、冬山にいこうではないか。

-昭和45・11・24・記-(北海岳友会)


(ヒグマのお話し⑯はこちら)につづく

 

 

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ヒグマのお話し⑭

2022-05-29 | ヒグマのお話し

ヒグマの話題も回を重ねること25話にもなりました。

ヒグマ以外の動物の話題がこんなに長く続くとは思えません。

登山のブログと言いながら、実はヒグマのブログと言ってもよいほど

ネタの尽きないヒグマは、本当に愛らしい動物です。

(ヒグマのお話し⑬はこちら)

 

はい、ということで今回の話題は、前回の記事にも少し書き込んだ

ヒグマを知ろうヒグマ・ノート』についてです。

 

北海道人のアイデンティティに“ヒグマ愛”を育みたい。

 

このノートはMotoさんに頂きました。

Motoさんには、北海道新聞社発行の「北海道夏山ガイド」を

執筆しているSyun.Umezawaさんがご親戚ということで、

いつも、なかなか手に入らない本やグッズを頂戴しています。

 

このノートもその1つ...

過去、Toshiの拙ブログで話題にしてきたヒグマの生態の「?」の

ほとんどが取り上げていると言ってもよい(大学)ノートで、

 

ヒグマとの共存を目指して書き上げられていることがよ~くわかるノートです。

 

ヒグマのうんこの色や形で、そこに脱糞していったヒグマが食べたものがわかるんです。

 

うんうん、フキを食べたヒグマの糞はよくみますね (黒くなるのは色素のせい?)

ヤマグワ(僕らはコクワと言っていた)を食べた個体の糞はまるでズンダ餅みたいだし

鮭を食べたヒグマのうんちはおそらく知床に行かないと見られないよね。

 

ヒグマによる事故は、年平均1~2件らしいけど、その半分近くがバッタリだって。

 

ここには、その事故が何を目的に入山した人のものなのか書いては

いないけど、まぁそのほとんどが登山者ではなく山菜採が目的の

入山者であることは道新の報道等で何度も取り上げているところです。

 

ヒグマの会への入会を考えます [■年会費:一般3,000円]

 

ヒグマを北海道のシンボル動物に

引間二郎氏の木彫り

同感です

 

 

 

 

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ヒグマのお話し⑬

2022-04-26 | ヒグマのお話し

札幌市の情報アプリには、TVやラジオで報道されている「ヒグマ目撃情報」が

ここ数日、毎日配信されてきます。

 

ヒグマのお話し⑫はこちら

 

【ヒグマ目撃情報】

■4月19日(火)午後10時00分頃 ⇒ 北区あいの里4条2丁目付近

 ヒグマらしき動物の目撃情報がありました。20日朝の調査ではヒグマの痕跡は確認されませんでしたが周辺の住民の方はお気を付けください。ヒグマを発見したら、大変危険ですので決して近づかず、直ちに避難し110番通報を行うなど十分注意してください。

■4月20日(水) 時間情報なし ⇒ 北区あいの里2条6丁目

 ヒグマらしき動物の目撃情報がありました。同日の調査でヒグマの痕跡は確認されませんでしたが、、(後は同じ発信)

■4月21日(木)午前4時20分頃 ⇒ 東区北13条東12丁目付近で(後は同じ発信)

■4月21日(木)午後4時30分頃 ⇒ 東区北31条東14丁目付近で(後は同じ発信)

■4月22日(金)午後5時15分頃 ⇒ 白石区菊水元町7条1丁目付近で(後は同じ発信)

■4月23日(土)午前8時00分頃 ⇒ 白石区菊水元町7条1丁目付近で(後は同じ発信)

■4月24日(日)午前7時15分頃 ⇒ 東区東苗穂4条1丁目付近で(後は同じ発信)

■4月26日(火)午前0時頃   ⇒ 北区あいの里4条9丁目付近で(後は同じ発信)

■4月26日(火)午後4時?頃  ⇒ 北区あいの里4条9丁目付近で(後は同じ発信)

 

 

もう、一週間以上も都会を徘徊する「ヒグマらしき動物」とはいったい

なんなのか?

うちの女房では?」と言う人が居たら、事前に申し出てください。

お宅はあいの里で、車を降りてからいったん札幌駅に向かったけれども、

そこから夕飯の鮭を買うのを忘れたのか東の豊平川を渡って白石区にまで

行って、また戻ってイオンの東苗穂あたりでうろついてから、勤医協の

病院あたりで迷子になったけれども、自力でまたあいの里まで戻ったようで

すよ。

管理は旦那さんの役目です

 

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ヒグマのお話し⑫

2022-04-10 | ヒグマのお話し

雪融けが進み、冬眠から目覚めたヒグマが山で動き出す季節を

迎えましたが、今回の話題も北海道新聞から・・

 

ヒグマのお話し⑪はこちら

 

3月末(2022/03/30)の道新朝刊に、

日本熊森教会という自然保護団体の北海道支部が、今年の1月に発足したことが記事になっていました

 

日本熊森教会(くまもりきょうかい)なんていう団体があること自体知ら

なかったけれども、その協会の本部がToshiが住んだことのある兵庫県

西宮市にあるというから驚きです。

西宮にはイノシシは出てもツキノワグマが出没するところは六甲山の

麓であってもはたしてあったかなぁ~という感じの住宅都市です。

 

活動の目的はヒグマとの共存で、人里に出てきてしまうヒグマに責任は

ないので、人間都合で駆除されるヒグマを1頭でも少なくしよう、という

試みのようです。

 

折しも報道された札幌市中央区の三角山で起きたヒグマ巣穴調査中の遭難事故

 

ヒグマが好き好んで人里に巣を作るとも思えないので、その理由はヒグマの

生活環境が山の奥となる場所により住み辛くなっている状況があるから

でしょう。

 

その熊森協北海道支部の結成祝賀会が最近札幌であったようです。

 

おっしゃる通り、

ヒグマと共存できる北海道であってこそ、その自然の豊かさが

証明されることになるように思います。

この活動を応援していきたいものですね。

 

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