ヒグマのお話し⑮からの続き...
福岡大学ワンダーフォーゲル部遭難報告書 抜粋
1970・7・26
カムイエクウチカウシ山における
ヒグマによる遭難
このたび、わが福岡大ワンダーフォーゲル北海道日高縦走パーティーが、日高山脈カムイエクウチカウシ山十勝側、八の沢カールにおいて遭難し、竹末一敏君、興梠盛男君、河原吉孝君の尊い生命が、失われるという最悪の結果に終わりました。ここに関係者の皆様に、多大な御心労御迷惑をおかけしましたことを深く、お詑び申しあげます。
私達は三君のめい福を祈ると共に、今度の遭難が滑落、雪崩等の山岳遭難とは違い、十勝地方では戦後初めて熊に襲われたものであるという特異性はありましたが、この悲しい事実にたいし、ここに深く反省し、その原因を追求するものです。
私達は、この事故にたいする自覚を新たにし、三君の尊い犠牲を無駄にすることなく、今後このような事故を再度くり返さないためにも、日高遭難の諸要因を深く検討するとともに、今日までのワンゲル活動の歴史を顧みて、反省すべき点などをきびしく真剣な態度で追求し、全ての自然にたいして、今一度深く謙虚に考えることが、必要であると思うものです。
事故経過報告
7月25日
15:20 1900m峰の直下1500mの九の沢カール着、テント設営。
16:30夕食後全員テントの中にいた時、竹末君が熊を発見(テントより6~7mの所)最初は興味本位に観察、この時テントから2~3m付近をうろうろ、だんだん近づいてくる(この時はキスリングはテントの外にあった)30分位してキスリングをあさりだした。食料を食べているのが見える。熊の様子を伺いスキを見てキスリングを全部テントに入れる。その後、火をたき、ラジオの音量を上げ食器を鳴らす、そうしているうちに30分位して熊の姿が消える。
20:00 探したが見当らず。
21:00 熊の鼻息がし、テントに一回だけ触れ、こぶし大の穴があく。この夜は2人ずつ見張りをし、2時間交替で寝る。
7月26日
3:00 起床(快晴)
4:30 パッキングも終わりに近ずいた時、再びテントの上方に熊が現われる。15分位はテントの外に出て熊をみていた。昨夜同様、だんだんと近づいて来た。テントに入って様子を伺っていたが、テントの傍まで接近しテントに手をかけ侵入しようとした。我々はテントが倒されないよう、ポールをしっかり握りテントの幕をつかんでいた。5分位熊と我々はテントの幕を引つ張り合っていた。これ以上はだめだと判った時、竹末君が入り口の反対の方の幕を上げ一斉に1900m峰の次のピークに向かって45-50m程逃げる。ふり返えると熊はテントを倒し、その中にあるキスリングをあさっていた。それからすぐ僕と河原君は、竹末君の命令で「九の沢を下り、札内ヒュッテか営林署に連絡し、詳細を話しハンターの要請を頼む」と言われたので、すぐに僕は河原君を連れて九の沢を下る(5:00)。
7:15 八の沢の出合いで北海道学園大学10人位と会う。彼等の話しによると「我々も熊に襲われたので、直ちに下山する」とのことだったので、僕は彼等に我々の事情を話したら(僕は大学名、パーティーの人名、年齢を紙に書いて渡す)了解してくれハンターの方も引き受けてくれるというので、安心し彼等の情に甘えて食糧二日分、地図、コンロ、ガソリンを借りた。
7:45 八の沢出合いより今度は九の沢を登った(これは時間の短縮と安全性を考えて)。
12:30 カムイエクウチカウシ山近くの稜線に出る。
13:00 稜線に出た竹末君等3人と合流、テント、キスリングは稜線上に上げていたのでパッキング休憩等で1時間費す。僕と河原君が稜線に出て3人と合流する間、稜線上で鳥取大、中央鉄道学園と会う。
15:00 カムイエク1900m峰との中間ピークにてテント設営と決定、夕食作りと並行してテントの修繕をする。
16:30 夕食をすませ、テントを設営し寝る準備をしていたところ、入口と反対の方向に熊現わる(三度目)。一斉にカムイエクの方へ縦走路を50m位下る。そこで1時間半位様子を見る。
二回竹末君がテントのすぐ傍まで行き熊の様子を伺う。二回目様子を見に行く前、興梠君と河原君に八の沢カールにテントを張っている鳥取大のところに行き、今晩の宿泊をお願いするよう相談しに行くように命じた。竹末君が二回目熊の様子を見に行って帰った時、「まだ居るので、もう鳥取大のテントへ行こう」と言い、残る3人で鳥取大のテントへ向う。途中、帰ってくる興梠君と河原君に会い鳥取大のテントは確認したとのことで、5人合流して鳥取大のテントに向う。カールに下るにはカムイエクの頂上を登って行かなければならないけれども時間がないし、全員疲れているので竹末君は頂上手前の稜線からカールに下ると決定、僕も了解した。そこはハイマツも少なく、草が生えており、危険なところではなかった。
18:30 稜線から60~70m下ったところで西井君が後を振り向き熊を発見、僕の後10m前後にあった(下る時は最初に竹末君最後に僕が歩いていた)。熊を発見して全員一斉に下る。僕は少し下ってすぐ横にそれ、ハイマツの中に身を隠した。熊は僕のすぐ横を通り下へ向った。そして25m位下のハイマツの中で「ギヤー」という声がし、格闘している様子であった。とたんに河原君がハイマツの中から出て「チクショウ」と叫び熊から追われるようにカールの方へ下って行った。それからすぐ、竹末君が僕のところへ来ると同時に全員集合の声をかけた。すると西井君が僕等のところへかけつけ興梠君にコールすると約30m下と思われる地点から応答があったが、とうとう来なかった。そして3人で鳥取大のテントへ向って助けを求めた。すると鳥取大は20分位して、二カ所に火を焚き、ホイッスルを吹いてくれた。その後、鳥取大は沢を下った。3人集まっていた時、竹末君は、「河原君は足をひきずりながら鳥取大のテントへ向ったのを見た」と言った。それから我々3人(滝、竹末、西井)は一応安全な場所と思われる岩場へ登り、身を隠した。26日の夜は、この岩場で過ごす。(20:00)
7月27日
7:30 ガス濃浸し。視界5m。一応8時より行動開始と決定、まず河原君の所在を確認することに決定。
8:00 岩場より竹末、滝、西井三君の順で下る。ガス濃くなり視界がきかないため、ゆっくり注意して下る。15分程下った時、下方2~3mの所に熊現われる。一瞬身を伏せ、様子を見るが、突然熊が「ガウア」と叫ぶ声とともに竹末君が立上がり、熊を押しのけカールの方へ熊に追われながら竹末君が逃げて行くのを確認。すぐ西井君と二人で山の斜面をトラバースし、カールを右手に見ながら八の沢に出て沢を下る。
13:00 五の沢、砂防ダム工事現場へ到着。一応、事情を説明し車を待つ。
18:00 中札内駐在所へ到着。
興梠メモ
遺体付近から興梠盛男君の手帳が発見されました。
クマはまず一つのキスをはこび出し、テントから10m下のしげみの横でむさぼりだす。昨夜は交代で徹夜したので、一人は上の尾根の縦走路で睡眠をとり、二人で見張る。
5:24 クマが右下5mぐらい、キスをくわえて移動する。
5:30 テントに近づき、たおれたテントをひきかきまわす。キャンパンのついたキスを持って左下の日影のところに持っていくが、なにもせず、またテントに近づく。グランドシートの上においていたセイテツパンを食べているようである。
5:40 おそらく竹末さんのキスをもって下方にもっていくが、またそこにおいてテントのところにくる。興梠のキスをくわえて10mぐらい下るが、キスを置いて左へまきながら姿を消すが、また興梠のキスをくわえて下りだす。30m下の低木地帯の中へ入る。
5:48 再びテントに近づく。興梠のキスほ下に置いたまま。
5:50 左の方へ移動する。左の雪けいの横の岩場に現われる。またかくれる。上に登ってくるようである。テントから左上方200mのところにくる。3人も上方へ上る。
6:00 小さな雪けいの近くにくる。しばらくして下りはじめる。
6:07 テシトの横にくる。突然ラジオが鳴りだし、クマがあわてて右方向へ走って遠ざかり、カールの尾根で横たわる。
6:13 林の中へ姿を消す。行方がわからない。
6:35 尾根に3人とも上る。いまのうちにできるだけキスを上げることにする。
7:15 縦走路の分岐までキスを3個上げ終わる。
7:30 腰を下ろし3人集まって気分をほぐす。
8:30 いままで快晴であったが少し雲の割合が多くなり、心配であるが、3人とも歌など歌って気晴らしするが、しばらくすると歌もつきて眠る。
9:25 目をさます。
9:30 腹がへったので、カンパンを食べる。
9:55 水くみ(20L)と残りのキスとテントを取りに行く。
10:35 尾根に着く。西井のキスがイカレる。
11:30 昼食。
11:45 鳥取大現在地を通過。
12:05 竹末さん、滝さんを迎へに沢を下る。
13:30 現地点で会合。
13:45 滝さん帰ってくる。全員無事
7月26日
17:00 夕食後クマ現われる。テントを脱出鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。
17:30 我々にクマが追いつく。河原がやられたようである。オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。
オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。仕方がないから、今夜はここでしんぼうしようと10~15分ぐらいじっとしていた。竹末さんがなにか大声で言っていたが、全然聞きとれず、クマの位置わからず。
それから、オレは、テントをのぞいてみると、ガケの方へ2~3カ所たき火をしていたので、下のテントにかくまってもらおうとガケを下る。5分ぐらい下って、下を見ると20mさきにクマがいた。オレを見つけると、かけ上ってきたので、一目散に逃げ、少しガケの上に登る。まだ追っかけてくるので、30センチぐらいの石を投げる。失敗である。ますますはい上がってくるので、15センチぐらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。それからクマは10m上方へ後さがりする。腰をおろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って、右手の草地の尾根をつたって下まで一目散に、逃げることを決め逃げる。前、後、横へところび、それでもふりかえらず、前のテントめがけて、やっとのことでテント(たぶん六テン)の中にかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手指れである。中にシュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入りこみ、大きな息を調整する。
もうこのころは、あたりは暗くなっていた。しばらくすると、なぜかシュラフに入っていると、安心感がでてきて落ちついた。
それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。昨夜も寝ていなかったから、このまま寝ることにするが、風の音や草が、いやに気になって眠れない。明日ここを出て沢を下るか、このまま救助隊を待つか、考える。しかし、どちらをとっていいかわからないので、鳥取大WVが無事報告して、救助隊がくることを、祈って寝る。
7月27日
4:00頃、目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。もう5:20である。また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。
ああ、早く博多に帰りたい。
7:00 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。
3:00頃まで(途中判読できず)他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。
またガスが濃くなって………。
現地での判漸と行動
S・L滝による現地での判断によると、25日夕方初めて熊が現われ、食料を少し食べられた時に、なぜ、すぐに下山しなかったか、次の3点があげられる。
①時間的に下山するには、余りにも遅く、暗いので危険だった。
②熊の行動が暗くてつかみにくかった。
③過去日高において人に危害を加えた記録がなく、ラジオ、食器を鳴らし、火を焚いたら姿を消したし、また明日、カムイエクウチカウシをピストンして下山する予定だった。
翌26日朝、熊に襲われた時、全員で何故下山せず、2人でハンターの要請に行ったか、という点についてほ、熊が一日中テントに居すわるか、また、テントの回りをうろつくと思った。それに下山するならば、全員、金銭、貴重品はキスリングの中にあったし、キスリング・テントを持ちかえろうとしたからであった。
その後、26日14:00ごろから1時間位歩いて稜線上にテントを張ったのは、翌日カムイエクウチカウシ山をピストンし、八ノ沢へ下るルートがサイト地のすぐ近くにあったからであり、266日カムイエクウチカウシ山を越えて八ノ沢カールに行くには、全員の休力的、精神的に無理であった。また日高へ行く前に得た熊の習性からして、カールボーデンや沢の近くより、稜線上の方が安全度が高いと思ったからであり、熊の行動が低いところより高いところの方がとらえやすかったからであった。
探究
今回の遭難は、誠に不幸な出来事であった。当時、日高山系に入山していた約30パーティの中で、今回のような悲劇にみまわれたのが、たまたま我クラブのパーティーであったということは、不運という外はない。途中熊に出会いさえしなければ、そしてその熊がいままでの常識では考えられない執拗に人を追い人を襲うといった熊でなかったら、全員無事に予定コースを終えて下山していたであろうことは間違いない。
すなわち、熊の件を除けば、今回の日高縦走の計画や装備・食料・治療・気象、その他の準備については、専門家の判断でも特に問題はなかった。ただ、日程の点で若干無理があったとの指摘をうけたが、この点も、カムイエクに来るまでに予備日4日を使い、最初の予定であったペテガリまでの縦走を断念して、カムイエクで打ち切って下山することにしていたので適切であったといえる。したがって、問題を熊の件にしぼって検討して差支えないであろう。
今回のように人を襲って殺すような熊が日高山系に出没するということについて事前にはっきり分っていたならば、今回の悲劇はおそらく避ることができたであろう。その点で事前調査が甘い、北海道の山を知らない、という非難を一部の新聞からうけた。また、最初に熊に襲われていた時に下山しておれば………と言うこともよく聞く。結果的にいえば確かにその通りである。したがって、問題を事前調査の適否と、最初に熊に襲われた段階でのパーティーの判断の2点について、みてみたい。
1事前調査について
なすべき調査は一通り行っていたと言えるであろう。もちろん100%完全といえないとしても、少なくとも手落ちがあったとはいい難い。問題は、これらの資料からは、普通の熊についての習性や対処の仕方については知ることができても、今回の熊のように、いままでの常識でほ考えられない、凶暴な熊についてほ知ることができなかったという点である。
すなわち、我々は今回のような悲劇が起きることを事前に予測しうる状態にはなかったといえるのである。もし我々の事前調査が甘かったとするならば、当然、現地の状況をよく把握して書かれたはずの「ガイドブック」にその点の明確な指摘がなかったことこそ、問題にされなければならないだろう。もう一つ重要な点は、我々がその点を知らなかったのほ、九州に居るからであり、現地ではそのことが分っていたのかということである。この点もそうとは言い難い。今回の遭難は、地元にとってもはじめての事件であり、先例はなかった(しいていえば52年前の大正7年大雪山系で熊に襲われて死亡した事件がある)。我北海道日高パーティーが営林署に入山届を出した時の問合わせに対しても、熊についての警告は与えられていない。また7月に入ってから日高山系に入山した51パーティー、276人の中には、本州からのパーティーだけではなく、北大、室蘭工大、小樽商大などの北海道のパーティーや、現地の帯広畜大のワンゲルのパーティーも含まれている。とくに帯広畜大のパーティーとは本学パーティーは、現地附近で顔を合わせ、テントサイトの指示を受けている(そこに熊が現われた)。また、1カ月前、日鉱室蘭の社員が単独登山して行方不明になった時の日高山系の山狩りにほ、とくにハンターを動員していなかった。これらのことは、いずれも地元においても、今回のような悲劇が起きることが明確に予測されていなかったことを示している。あるいは極く一部の人々には、このことは予測されていたかも知れないが、われわれだけでなく、地元の人を含めて一般に、今回の悲劇は予測されていなかったと言って良いであろう。
それであればこそ、今回の遭難を新聞も連日のように大きく取扱ったであろう。したがって今回の事件は、地元を含めて日本人全部に大きな衝撃と教訓を与えた最初のケースというべきであろう。その意味で、三君の尊い犠牲を無駄にしないように、今回の事件の教訓を最大限に生かさなければならない。また、今回の熊が、従来の熊についての常識から離れた特別の熊であったという点も重要であろう。普通、熊は特別のことがない限り熊の方から人を襲うことはなく、大きな音をたて、火を焚けば逃げるとされている。しかし今回の熊は、火を見ても、音を聞いても恐れず、積極的に人間に近づき、執拗に人間を追って、ついにこれを襲って殺した。しかも、夏熊はやせているという常識に反して、冬熊のように肥えていたという。恐らく近年、登山者の増大に伴う人間との接触によって熊の習性が変わって、このような熊が出て来たのであろう。そして、そのような熊がいるということが、今回の遭難を通じて初めてはっきりと知らされたと言っていいであろう。
2パーティーの判断について
結果的にいえば確かに最初の襲撃(1回目および2回目)を受けた時点で下山しておれば、今回の悲劇は防げたであろう。その時、なぜ下山しなかったのか、この時のパーティーの判断については別項で述べられたとおりである。これを見ると、この段階でも今回の悲劇が起ころうとは予測してなかったことが分かる。生存者の証言によっても、誰も下山しようとは考えなかったという。結果的に確かに熊に対する判断が甘かったといえるし、また万全を期するという立場からすれば、この時点で下山することは可能であったし、結果的にはその方が良かった。
しかし1回および2回の襲撃では、人を襲うことはなく熊の行動が、いわば従来の常識の枠内であった(1回目には音を立て、火を焚いて、間もなく姿を消した)という点、および事前調査によって得られた知識からは、熊が人を襲って殺すというようなことが起きる可能性については、何等知らされていなかったという点からすれば、そのようなことが起きると予測しなかったとしてもそこに無理があったとは、あながちいい灘い。
今回の事件はそのような意味でも、こういう悲劇が起きることが事前に知らされ、予測されておりさえすれば、防げたであろうが、それを知らされていなかったし、予測されていなかった。そして事前にそれを知り、予測することができなかったが故に発生した遭難であって、そのような意味で不可抗力的であったといわざるを得ないのである。そして、今回の三君の尊い犠牲を通じて得られた一つの教訓は、常に不測の事態に備えて万全の対策をとるということであろう。
-以上・抄録・原文どおりー
いかがでしたか?
事件から52年が経過した現在、ヒグマに関する情報は毎年のように更新され、
今では“人を襲うヒグマ”は珍しくもなくなっていますが、そのようなヒグマは半世紀前から存在していたことがわかります。ヒグマは人間の食べている米の飯や、人が育てているトウモロコシのような食料を口にするともう居ても立ってもおられないぐらい美味しいと感じるようです。
そしてその味を一度覚えると執着しないではおれない。火を焚いても音を鳴らしてもダメだということがよく分かります。我々は、ヒグマをそのようなヒグマにしてしまう原因は人間にあるのだという認識をして、それらのことを山でも里でも防いでいくことがヒグマとの共存の第一であろうと考えます。
今日、日高山脈でヒグマに遭遇し中に食料が入っているザックをそのヒグマに取られるようなことがあったら、その時はもう、あらゆる手段を講じてそのことを近くに入山している登山者に告げ、下山を促し、仮に伝えられない場合であっても、電波の繋がる場所まで行きついたところで必ず警察にその一報を入れるということをする義務があることを認識するべきでしょう。
長い文章にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
これからも北海道に住むヒグマについての話題を続けていきます。
【参考】
https://youtu.be/GlypGYv_16k
https://youtu.be/LnaHxkEUaws
https://youtu.be/sZR5_A_7joY
https://youtu.be/uHb9tuf_5Sw
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