“坂の上の雲”

登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が
輝いていてもいなくても、また坂を登っていきます。

深田久弥の日本百名山

2025-03-14 | 四方山話

既にブログで紹介したことのある坂本直行さんと同年代を生きた人で、山岳紀行作家の深田久弥さんをご存知でしょうか

山好きの人の多くが知っている人ですが、そうでない人は聞いたこともないかもしれません

登山愛好家の中には、この深田久弥さんが取り上げた日本百名山の全山登頂を目指す人がけっこう居て、登山ブームの火付け役になった本と言って間違いありません

そうそう、Toshiの登山仲間のTakさんもその百名山完登を目指しているお一人で、北海道にあと数座を残すのみとなっているので、今年2025年はその達成は間近といったところでしょう

さて、その深田久弥さんが選んだ100の名山を紹介した本をMotoさんからお借りしたので、一度取り上げることにしてみました。

「山と渓谷」2003年3月号 

 生誕百年 特集

 深田久弥の世界

『日本百名山』の著者の知られざる素顔

山と渓谷が採用した写真の元は、この北海道山岳30周年誌(右)と同じものですね

まず、よく言われる百名山の選定基準を見てみる前に、深田久弥さんが日本百名山の「斜里岳」について取り上げている文章の中に「函館から釧路まで直行した私たち三人(私と妻と小学六年生の次男)は、-中略- 頂上に立ったが、私たちを迎えたのは濃い霧でしかなかった」とあります。一方、この山と渓谷の特集号には、その時小学校六年生だったという次男の深田沢二(ふかたたくじ)さんが「父母との山行」という投稿で、その二週間にわたる北海道の夏休みの様子を思い出として書いていて、「その山旅は来る日も来る日も雨や霧ばかりの中を歩かされ、山と言えば雨に濡れるという印象だけが強まり、私はほとんど山嫌いになっていた」と書いているところ...ここが面白い

何が面白いか(

それは、よくあるように、この少年は後に父がこの時妻子に心から見せたかったそれらの山(後に百名山として選ぶであろう北海道の東に並ぶ山)の晴れた日の絶景を後に自身の足で歩くことで父の確信を体現することになり、それがきっかけで自分も登山にのめり込んでいったという落ちだからです

しかし、さらに百名山選定の基準について面白いと思ったのは、深田久弥さんがことほど左様に北海道の山ではそのほとんどが悪天だったにも関わらず、それらの山を選定している理由についてです。普通、ガスっていて何も視界の効かなかった山を「良い山です」とは言いませんが、一緒に同行して登った地域地域の楽友、山岳会員の意見や晴れた日の写真を基にしているから選んでいるということなのです。

ま、それなら分かるってなことですね(

ともあれ、基準は誰かが主観的、能動的に関わらなければ作られることはないという意味で、これが正真正銘「愛する教え子を落第させる試験官の辛さ」で選りすぐられた後世に残る百名山なのでしょう

(つまり、岳友との飲んで語り合った侃々諤々が沢山あったということ

日本百名山の原稿⇒「利尻岳」の書き出し

Toshiが一番に挙げる「利尻山」は、まさに北の一番目

利尻岳 1,721m (鴛泊港より)

山の品格

「誰が見ても立派な山だと感歎するものでなければならない。高さでは合格しても、凡常な山は採らない。厳しさか強さや美しさか、何か人を打ってくるもののない山は採らない。人間にも人品の高下があるように、山にもそれがある。人格ならぬ山格のある山でなければならない。」

山の歴史

「昔から人間と深いかかわりを持った山を除外するわけにはいかない。人々が朝夕仰いで敬まい、その頂に祠をまつるような山は、おのずから名山の資格を持っている。山霊がこもっている。ただ近年の異常な観光業の発達は、古い謂われのある名門の山を通俗化して、もはや山霊も住み所がなくなっている。そういう山を選ぶわけにはいかない」

個性のある山

「個性の顕著なものが注目されるのは芸術作品と同様である。その形体であれ、現象であれ、 乃至は伝統であれ、他に無く、 その山だけが見えている独自のもの、それを私は尊重する。どこにでもある平凡な山は採らない。もちろんすべての山は一樣でなく、それぞれの特徴は持っているが、その中で強烈な個性が私を惹くのである。」

その他

「(略)大よそ千五百米以上という線を引いた。山高きをもって尊しとせずだが、ある程度の高さがなくては、私の指す山のカテゴリーには入らない。」

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金井五郎さんと云う人

2025-03-06 | 四方山話

久し振りの四方山話です。

Toshiのブログのブックマークにも入れている「秀岳荘」は、北海道の登山好きはもとより、キャンプやカヌー、マウンテンバイクといったアウトドア志向者なら誰でも知っている北海道の山のお店ですね

さて、その秀岳荘のことは一度お話ししたいと思いながら、今まで一度も取り上げたことはありませんでした。

話したかったこと、それはToshiは「秀岳荘ファン」ということです。

何故好きなのか?

それは店員さんがそろいも揃って皆僕の肌に合うからです。

つまり、接客対応が気に入っているということです

どのような対応か?

幾つかあるのだけれど..

売らんがための勧め方をしない

店員自らがアウトドア好きである

知ったかぶりをしない(知らないことは、知っている店員に繋いでくれる)

何だか分からないけど、マニュアル店員じゃない

良い意味で「上司の顔が見えない」(これをしたら上司に叱られるなんて考えて仕事をしていない)

バカ丁寧でない

と、こんなところでしょうか。

中にはこのようなことが肌に合わないお客さんも居るのかもしれませんが、そんなことはToshi個人としては小島よしおです

で、どうして秀岳荘に勤める店員さんがそろいも揃ってそのように「いい空気感を持っているのか」を自分の想像の引き出しから抜き取ってみると、それは創業者である金井五郎という人の「山を思う心」が今に受け継がれているからでは?というのが僕の答えです

はい、ということで、その秀岳荘の創業者で、あの坂本直行さんとも同じ時代を生きた金井五郎さんについて書かれている本をMotoさんからお借りしたので皆さんにもご紹介します

1999年7月に発行された貴重な『北海道山岳』からGoogleレンズで抜き取らせてもらいました。

(文章が長いので秀岳荘に興味のない方は離脱して下さい)

北海道の山好きはやっぱり秀岳荘

 

金井五郎さんと云う人 [滝本幸生]

札幌に秀岳荘という山専門の用具店があることを知ったのは、僕が先輩のSさんに連れられて、ウペペサンケ山の雪中露営に出掛けることになったあたりのことであろう。

冬山へ行くための用具や衣類など一つも無かった僕は、 帯広の山好きな人に教えられて、初めて札幌に秀岳荘といういい店があることを知った。

当時帯広に住んでいた僕は、早速札幌への出張の機会を見つけて、初めて秀岳荘の、あの懐かしいチロル風の呼鈴のあるドアを開けたのだった。昭和三十四年、僕はまだ二十代前半のことである。

何ともいえない「いい雰囲気」が充満している店内をキョロキョロしている時、金井さんがひょっこり用具棚の間から顔を出して「それサブザックです」と僕に声をかけてくれたのが最初の出合いであった。

何やら買込んで、清算をすると金井さんはソロバンを持って「これだけおまけしておきます」といって、一割だか端数だかを引いてくれた。それ以来、金井さんは何時もそうだった。「おまけしておきます」と必ず云った。そして秀岳荘とネームの入った小物入れを、これも必ず付けてくれた。

金井さんとは、そうして知り合いになったのだが、その後、仲間たちと帯広エーデルワイス山岳会をつくった折の発会式には、山のように、例の小物入れを送っていただいたりして、僕の鼻が少し高かったりした。

金井さんは日本山岳会とどの様な(どの程度の)係わりを持っていたのか、僕は知らない。

僕は昭和四十年に、深田久弥さんの紹介で山岳会へ入会させていただいたのだが、会のことは何もやっていないので、金井さんが会で、どんな活躍をされていたのかは知らないが、しかし、秀岳荘=金井五郎=山好きとなれば、やはり周囲が放ってはおかないであろう。山岳会の連絡事務所が、ずっと秀岳荘内に置かれていたというから、目一杯金井さんに迷惑を掛けていたに違いない。雑誌や会報の広告、イベントの協力と、みんな金井さんに甘えた。

何時も僕の頭の中には秀岳荘のことがあった。何かあれば秀岳荘なのである。金井五郎さんなのである。山党の心の中は金井五郎で一杯であった。何であろうか。不思議なことである。

しかしそれは簡単なことだ。金井さんが山そのものであったからだ。何時でも僕等を温かく受け入れてくれた。曲がったことは絶対受け入れないが、そうでなければ、少しのことには目をつぶって受け止めてくれた。温かくて安心していれた人なのだ。

こんなことがあった。

昭和四十二年に僕は中華民国の玉山へ行った。その折に持っていった秀岳荘のペナントを頂上で棚引かせ、背景に秀峰東山を入れた写真を撮った。それをパネルにしてお土直に持参した。金井さんはその時、そのパネルにちらっと目をやって「ホツ」と云って、後は何も言わずに数枚の紙幣を僕の手に握らせたのだった。

その後、何度秀岳荘を訪れたか知らないが、ついぞ一度もそのパネルを見ることはできなかった。何処か奥の事務のとるところへでも飾ってあるのかと思って見まわしても無い。金井さんはそういうことが嫌いなのである。僕は何とつまらぬことをしたものと、ずっと心の隅に引っ掛かていた。「つまらぬことをいたしました」と謝ることもなく、そのパネルのことはそのままになってしまった。 清廉の人-なのである。

その後、金井さんとは年賀状のやりとりくらいで、特に親しくお付き合いをしていたわけではなかった。

ある年から僕は、山と渓谷に「北の山」と題して、北の山のできるだけ一山一山の歴史や記録を短くまとめたものを連載していた。三年近くの連載になったが、その間、とても好評ですよと励ましてくれたのは山溪編集長の為国さん。そして一通の書状をくれたのは金井五郎さんであった。 例の太い大きい字体の達筆で「北の山は名文ですね。毎号楽しみにしています。頑張ってお続けください」と。

金井さんはひょこっとそんな事をする人なのである。かつて集金旅行の途中に、帯広に立ち寄ってくれた金井さんは、僕がエーデルワイス山岳会の会報か、あるいは地元紙かに寄せた拙文に目を留めてくれて「この通りですね。いい文章ですね」と云ってくれたことを、なぜか何時も心の片隅にあって、忘れられない出来事としていたのであるが、 前述のハガキを貰ったときも、やはり金井さんだと、いたく心に染みた。何時も何処かで心に掛けていただいているといった感じなのである

平成二年、僕は室蘭勤務となり、海岸町の官庁の集まっているオフィスにいた。

ある日突然金井さんの訪問を受けてびっくりした。お逢いできた嬉しさに、僕はそのくだりを地元紙のコラムに書いた。

「札幌秀岳荘」の主人

金井さんのお名前をご存知の方は少ないと思う。札幌秀岳荘といえば、山好きの人なら知っているかも知れない。金井さんはその秀岳荘のご主人である。もっとも今は悠悠自適で、経営の方は息子さんの代であるが。

その金井さんがひょっこり勤務先へ見えられた。僕はあいにく不在であったが、机の上にポッンと置いてあった名刺を見て、懐かしさで胸が一杯になった。久し振りの邂逅になるし、何より清廉な人柄が岳人の憧れになっていた人だから。

金井さんは北大の電停前に金井テントとして身を起こし、北大山岳部と共に成長して本格的な山道具の専門店へと変貌を遂げた。あまり山の道具の揃っていない時代を地方で過ごしていた僕等は、札幌へ出ると秀岳荘へ寄って目新しい用具を手に入れた。オーバーシューズや手袋、それにサブザックにヤッケ。僕等の身の廻りはすべて秀岳荘のもので固められていた。何の変哲もない小物入れなどは秀岳荘のマークが入っているだけで嬉しく、 ザックやヤッケと共にいまだに愛用品になっている。

金井さんは金の無い山男たちに、どんどん掛け売りをした。出世払いという人もいたかもしれない。そして一年に一度集金旅行に出掛けるのである。回収不能がよくあるようだったが、それでも金井さんは掛け売りをやめなかった。

自宅へ電話を入れると、洞爺へ保養に行っているという。勤務先を訪ねてくれたのも、その地からドライブがてらに室蘭まで足を延ばしてくれたものであった。すぐに飛んで行ったことは云うまでもない。頭はすっかり白髪になっていたが、小柄だが確りした体軀と身のこなしは、八十歳を越した今でも少しも変わってはいない。金井さんはヒョンヒョンと身軽に奥さんを車椅子に乗せて現れたのである。

今は何処へ行くにも家内と一緒だから大変です。一分たりと目を離すことができませんから、と云われる。奥さんはお口が不自由のようであったがニコニコといい笑顔ですっかり金井さんに頼りきっている。これのへそくりが突然出てきてびっくりしましたと金井さん。何か記念になるものをと考え、皆が寄れるヒュッテを向洞爺に建てましたとおっしゃった。そのヒュッテには一文字奥さんの名前が入っている。まったく昔と何もかも少しも変わっていないなあと僕は別れ際に金井さんの手を強く握った。

この文章はすぐに金井さんの手元に入った。記事を読んだ方が金井さんに知らせたものだった。その時金井さんは、その方に「滝本さんは古い友人です」と云ったというのである。決してそんなことではないのに、金井さんは何時もその様に人の心を傷付けないのだ。

それから金井さんは頻繁に事務所へ寄ってくれた。手紙もくれた。僕も手紙を待ち書いた。お逢いできる楽しみといったらなかった。

これからのことは、金井さんの最晩年のことを書くことになるが、天国の金井さんにお赦しをいただこう。お手紙の一部を掲載させていただくのもお赦しをいただこう。それは一番金井さんを良く知った数年間だったから。

平成三年二月

前略- それはそれとして、一度にどっさり読物を頂いて参っています。今まではどうせ先が短いのだからと、 昼食のときにも一杯やって、午后は一・二時間昼寝をしていましたが、今度はそんなことをしてはいられなくなり、あれを読みこれを読み、先日本屋から買ってきた『本多勝一の研究』も、まだ半分と読んでいないのです。更に「坂本直行伝」まで頂き、いやはやてんやわんやです。どれも早く目を通したく、夜中にも思いつくと起きて静かなスタンドの灯りで読んだりしています。

-中略- 私はこの頃年のせいか、若いやる気のある人を見ると「あなたは出来る。やれば出来る、やりなさい、やりなさい」とけしかけることがよくあります。光湖莊で新年会をやった時も、飲んでは何度もすぐ隣の大西牧場の大西さんにそう云いました。直行さんと私は三つ違いです。私はもう直行さんより二・三年長生きしました。

そろそろです。-後略-

これは洞爺へお伺いしたときのお礼のお手紙だと思う。 僕はなぜか金井さんに沢山の本を読んでいただきたいと思って、拙著なども含めてどっさり届けた。金井さんはそれがとても嬉しかったと見えて、その後のお手紙の中には、 何時もそのことが書いてあった。光湖荘とあるのは、前述のへそくりで建てたというヒュッテの名称である。奥様のお名前はみつ(光)子。

平成三年夏

前略- 先日は頂いた写真だけでも充分ご好意を感じておりますのに、更に引き伸ばしのアルバムまで頂いてお礼の申し上げようもありません。

「直行小伝」は一気に読ませていただきました。私の知らない直行さんの部分がはっきりとして、私の抱いていた直行像が更に鮮明になりました。もし滝本さんが、全体像を書かれる機会があるのでしたら、いくらか参考になるお話も出来るかも知れません。そんな機会がありましたら、私にとっても楽しい時間だと期待しております。

-中略-「北の山の栄光と悲劇」は心を躍らせて読んでおります。滝本さんの北の山の紹介は、単なるガイドブックではなく、全編これ詩ですね。他のガイドブックと全く異質のものです。-中略- 間もなく消えてなくなる私に、大きな感激を与えて下さったことに心からお礼申し上げます。またお逢いする日を楽しみにしております。

-後略-

「直行小伝」は、昭和六十一年に「日高の風」と題して山と渓谷に四回に亘って連載したものである。 金井さんは、坂本直行さんとは長い長いお付き合いで、刎頸の友であったと思う。僕が『北の山の栄光と悲劇』の中に直行さんのことを書いたくだりがあり、それを基にして「日高の風」を書いた。そのコピーを読んでいただいたものだが、金井さんに取材をしなかったことは、大いなる手落ちであった。結局、お話をきく機会を永遠に失してしまった。

この年には、日記調のものをいただいた。こんな日記を書いてみたので読んでください、と云ったものだが、これは日記というより、僕に対する手紙になっている。奥様のご病気のこともあり、心が千千(ちぢ)に乱れている。金井さんの愛妻ぶりは、とても言葉では云い表せない。淋しく悲しいとあった。

平成四年になって、金井さんは手術をされた。ストーマとパウチの生活をしていますと手紙にはあった。北区の開成病院に母の薬を買いにいっていた女房が、待合で金井五郎さん、と呼ばれる声を訊いて、何か訊いたことのある名前だとハッとして目を上げると、その金井さんはヒョンヒョンと例の軽い足どりで薬をとりに歩いていったという。 暫くして手術を終えた金井さんから一通の手紙が届いた。

御無沙汰をお詫びします。七月三日に札幌山岳会の四十周年記念祝賀会が催されます。私からの通知をしました。

小須田さん、金子さんは旧知の間柄ですから、多分乾杯の音頭位は覚悟しています。私もその時、滝本さんの 「北の山の栄光と悲劇」の中の札幌山岳会について書かれた次の点にふれて一言云いたいと思います。

札幌山岳会は、札幌山岳クラブから飛び出した熱血漢によって作られた事。日高山脈未踏の中の岳の初登頂を北大山岳部と競い合ったこと。厳冬期の利尻山に二名の犠牲を払いながら果敢に挑戦したことなどです。

札幌山岳会の出発と金井テントから秀岳荘への出発は、 やや時を同じくしています。なつかしい顔ぶれが揃っていると思います。又いつか滝本さんとお会い出来る日を楽しみにしています。家内が入院して寝たきりなものですから私の生活は乱れています。朝から一杯呑んでごらんのような書きざまです。多謝。

音信はこのあたりで途切れたように思う。平成五年は、 僕を長い公務員生活に別れを告げた年で、何かと多忙にうち過ぎ、何度かお店へ顔を出した程度で、また勤務地も函館になったこともあって、遂に突然の訃報に接することとなった。

何とも清廉な瑞々しい気持ちを何時までも、いや何時も湛え、若者のような気鋭と溢れるようなロマンチシズムを持ち合わせていた金井さん。

最晩年の数年間ではあったが、こんなに人と接するのが楽しく嬉しく心をヴイヴィットにして下さった金井さん。 本当にお礼を云うのは僕の方です。有り難うございました。

 

 

ここまで読み進んだ方は、もう立派な“秀ちゃん”ファンですよ

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山の神!!

2025-01-03 | 四方山話

箱根駅伝
やっぱり見入ってしまいましたね

ぜんぶ観ていたわけではありませんが、登りの5区と下りの6区は今年も興味深く観察していました。
何せ、標高差840mなんてーのはほとんど登山と一緒なので、将来マラソンでは大成しなくてもウルトラ・トレイル・デュ・モンブランなんかで優勝する逸材が出てこないかなぁ~なんて・眺めているわけです。
「山の神」なんて学生時代にだけ言われるんじゃなく、もっと息の長い称号として与えてあげたい。

その期待を2015年のニューイヤー駅伝に出場した柏原竜二くんに向けていた時期がありましたが、結局彼はランナーとしての人生を諦めてしまいました。

残念でしたが、人それぞれの人生なので仕方のないことです

ということで、2025年の箱根では往路、復路ともに区間新記録を出して奮闘した青学の若林宏樹くん、野村昭夢くんがともに凄い
凄いですが、目立たないところで北海道出身の選手が活躍していたのをランナーの皆さんは観ていたでしょうか


その選手は

シード権内にギリギリ入った帝京大学の選手
野村君と同じ下りの6区で58分11秒で走っていた
北海道栄高校出身
苫小牧出身で中学のときから中距離で活躍していたらしい
名前は廣田陸


あの野村君の記録に遅れること約1分20秒程で、彼のあの下りの走りが無ければおそらく今年のシード権の獲得も無かったのではないでしょうか。

こりゃああと2年の間の彼の活躍に期待しまっす
以上、お正月の四方山話でした

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北海道の花

2024-09-07 | 四方山話

唐突ですが、

北海道の花」は何ですか?

と尋ねられて、瞬時に答えられる北海道民の確率は何%でしょうか?

感覚的には30%ぐらいの人が「それはハマナス」(正解)と答えることができるように思います。

しかし、残り70%の道民は「なんだっけ?」「すずらん」「ラベンダー」なーんて

答えるような気がします

 

ご存知、坂本直行さんの作品で六花亭の包装紙に使われているハマナスの絵

 

正解率の高い低いに男女差はないように思われるけど、年齢差はありそうです。

年齢が高い人(50~80代)の正解率は高く、子供は果たしてどう答えるものか?

その他に「どこで生まれ育ったか?」という地域差もけっこうあるように感じます。

 

2023/07/23『利尻山』のBlog報告より・・・(真ん中に薄く望めているのは利尻山)

 

Toshiは山育ちで、故郷の夕張でハマナスを見た記憶はありません。

おそらく生えていなかったのだと思われ、初めて目にしたのは石狩浜へ海水浴に連れて

行ってもらったときです。

そう、その時から森繁久彌や加藤登紀子が歌う『知床旅情』の歌詞に出てくるハマナス

は浜辺に生えているものだと考えるようになったわけで、

つまりは、海岸に近い町で生まれ、年配者ほどハマナスが北海道の花であると知ってい

るだろうというのがToshiの推察です

 

黄色い実も絵になります

 

子供の頃、石狩浜で見たハマナスの群落の印象通り、実は北海道の花でもあるハマナスは

同時に石狩市の花でもあるのです

 

 

石狩サーモンマラソン大会の開場となっている

石狩市役所の近くにはハマナスが沢山実を付けていました

 

ハマナスの「花」の見頃は6月で、6月9日には石狩浜海水浴場で「はまなすスフェスティバル

なるイベントを12年前ぐらいから開催しているらしいです。

 

9月にもなると実の赤さが際立ってきます

 

でも、海岸線だけに咲いているわけではなく、先日、喜茂別岳に登った帰りに寄った

中山峠の駐車場脇にも、毎年7月には花が咲き、8月には散った花の跡に沢山の実をつけています

 

羊蹄山が眺められる内陸の山の上にも誰が植えたのかわからないけれども、毎年、花と実をつけてくれています

 

Toshiはこの実の色が

だんだんと褪せていく過程が好きで、この時期数個採ってきて自宅で鑑賞しています

 

さらに褪せていくと・・(2ケ月後

 

ハマナスの名称について

Wikipediaより...

ハマナスは英語で「Japanese rose」と名付けられており、北海道の初夏を象徴するバラ科の植物。鮮やかに咲き誇る濃いピンク色の花びらと甘い香りは、石狩浜へ訪れた人々を楽しませている。また、ハマナスの花や果実にはビタミンCやポリフェノールが豊富に含まれており、その健康効果に注目が集まっている。別名、ハマナシとも呼ばれている和名ハマナスの語源は、浜(海岸の砂地)に生え、熟した果実が甘酸っぱいので、ナシに例えて「ハマナシ(浜梨)」という名が付けられ、それが転訛したとする説武田久吉が唱えた。後に牧野富太郎が唱えた同様の説が通説になっている

しかし、江戸時代の俳諧歳時記『滑稽雑談(こっけいぞうだん)』(1713年)には「初生の茄子の如し、また食に耐えたり、故にハマナスと云ふ」とあり、また幕末本草学者である小野蘭山の講義録『大和本草批正(やまとほんぞうひぜい)』には、「実は巾七、八分小茄子の如し、故にハマナスと云ふ」とあり、いずれも果実を初生もしくは小型のナスに見立ててハマナスと名付けたとしている。しかし、漢字で「茄子」の字が使われているが、ハマナスはナスとはどこも似ていないという指摘もなされている。

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坂本直行さんpart3

2024-06-13 | 四方山話

坂本直行さんの話題です

(⇒前回の直行さんの話題はこちら

札幌で、坂本直行さん所縁の講演会があるというので行ってきました

 

主催者がプロジェクターを忘れてきたので、本日のタイトルに使える画像はコレ

講演者の前田由紀枝さんは、高知県立坂本龍馬記念館の元学芸課長さん

 

■日時 2024年6月8日㈯14:00~

■場所 札幌市中央区北2条西7丁目 

   「かでる2・7」

■主催 北海道龍馬会

■会費 1,000円

■演題 『龍馬と北の大地_龍馬の遺伝子』

■講師 高知県立坂本龍馬記念館の元学芸課長 前田由紀枝さん

 

Toshiさん見ましたか?といって知らせてくれた友人は、道新の記事をみて

すぐに、直行さん=Toshiの坂の上の雲を思い出していただいたということに

まずは感謝です

 

そう、このブログには絵に関わることもけっこうな頻度で話題にしている中で、

度々直行さんの山の絵のことも取り上げているからなのでしょう

 

直行さんの水彩画を代表する日高山脈残雪の風景

 

北海道新聞には、龍馬と直行をテーマに!という書き出しなので、

開拓農民であり画家であった坂本直行さんが幕末の志士坂本龍馬と血縁関係にある

ことを知っている人に向けての講演であることがずくにわかる内容なので、

これは是非行ってみようと思いました

 

ここでちょっと前置きをさせてください..

 

新聞に書かれている情報に分からないところがあるので、まず電話で

北海道龍馬会事務局に問い合わせをしました

 

Toshi

「定員60名と書いてありますが、事前の申し込みは必要ないのですか?」

事務局スタッフ

「必要ありません。前回もそうでしたが、そんなに人が入ることはないので、

 大丈夫です。仮に少し多くなったら役員を出してでも入れられますから(笑)」

Toshi

「そうですか、わかりました

 

というやり取りだったので、意外と不人気なんだと、当日は開演ぎりぎり

に部屋に入ると・・なんと席が一杯で立見になりますといわれました。

 

諦めて立見を覚悟して後ろの壁にもたれていると、何席かパイプ椅子

加えられたことでなんとか座ることができました。

しかし、その後、受付に聴いても講演がどれぐらいの時間行われるかも

ハッキリとしません

それだけでなく、主催する会の会長さん、今日持ってくるはずのプロジェクター

を忘れたといって冒頭からお詫びで始まる講演会、講師が憮然としているのは

当たり前で、夜更かしして幾度も写真や記載する内容を見直して臨まれたのだそう・・

 

講師と同じぐらい、こちらもその内容、主に資料の内容を楽しみに来ている

わけで、大ブーイング(とっ言っても、平均年齢70歳を超えていそうな来場者は、

声に出すことなく睨むぐらいに留める人達ばかり)

 

Toshiも「1,000円返せ」と言いたかったけど、始まると先生のお話はけっこう

楽しかったです

 

テークノートしたことは4つ

とりわけ、下のの坂本直寛(直行さんのお爺ちゃん)でリンクさせていただいた

ブログ「十勝の活性化を考える会」に書かれている内容を読むと、龍馬と北海道(北見、浦臼)

の縁、そして直行さんとの繋がりがよ~くわかります

是非、ご一読を

 

坂本龍馬の本名は直陰(なおかげ)で、龍馬は幼名

 龍馬は本名の直陰の陰と言う字が暗くて嫌だったので、直柔(なおなり)に名前を変えたらしい

 故に、直行さんだけでなく「直」の字は坂本家における通り字である

 

坂本家系図

 

 

直行さんのお爺ちゃん「直寛(なおひろ)」さんは、土佐でいう“いごっそう”と

 熊本人の血もひいた“肥後もっこす”も加わった、とってもあまのじゃくで頑固、

 そして気骨のあるやさしい人だったらしい

 

坂本直寛像

 

坂本家は上士・下士でいうと下士だったが商家で富豪であったから、喰うに困らない。

 龍馬はお坊ちゃんで、直行さんも貧農といいながら実はおぼっちゃんだった。

 

たしかに、このお姿は貧農という感じがしません

 

坂本龍馬のお婆ちゃん「久さん」のお父さんは井上好春という歌人だったので、

 龍馬も歌を多く読んでいる。

 

この家系図を観ると、直行さんのお爺ちゃん:坂本直寛は龍馬(次男)のお兄さん:権平直方ではなく、お姉さん:坂本千鶴の子(後に養子)とわかります。

 

最後に、

今、エネーチケーの朝の連ドラ「虎と翼」は、土佐、いや高知県人の方(特に

女性)にも凄く評判が良いのだそう..

一方、何年か前の大河ドラマ「龍馬伝」は不評で、講師の前田由紀枝さんは

来館者から「どうしてあんなドラマの内容(史実と違い過ぎる)に文句を

言わんのじゃ」と叱られたらしく、そんな時、

「龍馬伝」あれはドラマですから、(あれぐらいは大目に見てあげましょうよ)

でも、「虎に翼」は連続テレビ小説、そう小説ですから(出来はいいんでしょう

と答えるんだそうです

自由民権運動やデモクラシーがどの土地柄よりも強かった土佐、高知の人達の

このての番組への評価(ホンネ)はとても参考になりますね

前田先生も絶賛の「虎に翼」は確かに面白いですね

それではまた

 

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ササ枯れ現象

2023-08-16 | 四方山話

先日の北海道新聞に、

ササ一斉開花のなぞ

と題して、Toshiが先日黒松内岳山行の際に目にした

「笹枯れ」の現象について詳しく解説されている記事を読みました。

ササ枯れ=一斉開花(結実)後は枯死する

 

北海道新聞 2023年(令和5年)8月15日(火曜日) 第3社会面

なにげなく目にしている景色に何も疑問を持たずにいると、

数十年~百数十年に一度しか見られないものを見逃してしまうところでした。

 

黒松内から蘭越に向かう国道5号線の道脇のササの花

 

蘭越~ニセコ~真狩あたりまでこの景色が続いていました。

 

この現象が、今年6月以降全道中で見られるという。

 

分からないことが多いササだけど、一度開花して枯れてしまうと

元に戻るまで20~30年はかかるらしく、日頃見ていた笹原に木々が

成長することもあるそうなので、我々が生きている間はその景色の

変わりをみていきたいと思います。

 

しかし、タケノコが採れなくなる心配が起こりますが、今のところ

ネマガリダケが枯れている景色は目にしていません。

 

最後に記事中に紹介されていたササに詳しい秋田大学の蒔田明史教授(58)

のササ研究報告がされている大学のページはこちら

 

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藤野三山

2023-07-06 | 四方山話

今回の四方山話は、気になっていた札幌近郊の山『藤野三山』についてです。

昨年の11月に同三山を歩いたときのブログは⇒こちらです。

 

藤野三山と札幌市内の景観(手前は盤の沢山)

 

藤野三山(赤字)には揃って「豊」の字が付くので『藤野三豊山』とも呼ばれているのだそう。

 

面白いことに、藤野には藤野三豊山以外に、常磐ヒルズだとか藤野マナスルなんていう

言ったもん勝ちの山名で呼ばれているゴージャスな低山まであるのです。

近々、藤野富士と常磐ヒルズ、そして藤野マナスルにも登頂したいと考えていますが、

まずは藤野三豊山を四方の山の頂から見た姿を確認しておきましょう。

 

南区藤野を取り囲むエリアの外観図

 

まずは最もポピュラーな「藻岩山」から西南の方向を眺めた景色から

 

次に、先週登った「空沼岳」から北の眺望

 

少し西にある「烏帽子岳」から東南の方向を見渡した景色は霞んでいます・・

 

そして、冬の札幌岳から望む北東の眺めは美しい(手前に「盤の沢山」が)

 

最後に、札幌岳から少し近づいた「盤の沢山(893m)」から見下ろした三山です

 

如何でしょうか

豊平川、豊平峡から取った「」の字を当てた三山に、藤野富士を

加えた4鋭鋒がポコポコとしてとても分かりやすい兄弟達です。

 

最後に、先日図書館で目にした山の本に書かれていた「藤野三鋭鋒」の

名前の由来についてご紹介してお別れしましょう


【藤野地区三鋭峰の山名について】

藤野地区にはひときわ目を引く鋭峰が並んでいる。これほど特徴的な山なのに、地形図を見 ると名があるのは焼山だけだ。

豊平町時代、藤野に多目的ダムを造り、付近の三つの山を活用した一大レクリエーション基地を計画した。このとき、宣伝用パンフレットの作成にあたって、従前の「焼山」を「豊平山」、「牧場の山」を「豊見山」、「下藤野の山」を「豊栄山」に変え、これらを総称して「藤野三豊山」 と呼ぶことにした。 残念ながら岩盤の状態が悪くて計画は実現せず、急ごしらえの山の名も定着せずに現在に至っている。


 

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アイヌを知るために⑦

2023-04-11 | 四方山話

表題の“アイヌを知るために”をいろいろと読み進めていくと、当然ながら

北海道の歴史をよく知らなければならないことがわかります

 

 

幼少期から学校を卒業するまでの間は、北海道の歴史はたかだか100年ぐらい

しかないと思っていたので、歴史の教科書のわずか数ページに関心が湧くはずもなく、

日本史に蝦夷という言葉やアイヌが登場してもピンときませんでした

なので、概ね北海道の人は北海道のことをよく知りません。

 

自分だけでなく、友人に「黒田清隆の像が大通り10丁目にあるって知ってる?

と聞いたら「黒田清隆って誰だっけ?」と答えが返ってきます。


ということで、今回は三冊の小説から目からウロコの北海道史とアイヌの置かれた当時の

状況を考えてみました。

 

黒田清隆(1840~1900年)は、薩摩藩出身の明治期の政治家で、維新後に北海道開拓次官、

同長官を歴任し、北海道開拓使に尽くすが1881年に開拓使官有物払い下げ事件で世論の

攻撃を受け、開拓使の廃止後は農商務省から首相にまでなった人です。

授業で習ったことはすっかりと忘れていました

 

前回「アイヌを知るために⑥」で取り上げた松浦武四郎は、アイヌの目線で当時の蝦夷

(えみし)と和人の融和を考えた人。一方、黒田清隆は、開拓使長官として、また一国の

宰相としてロシアの南下侵略を危惧して、蝦夷(えぞ)にもともと住んでいたアイヌを和人

に同化させる政策を考えた人といって良いのだと思います。

 

同じ蝦夷でも“えぞ”と読むとそれは今の北海道から択捉という地域を指し、

えみし”と読めば、それは大和王権から観た(東北以東、以北に縄文時代から住む)先住民

を言います。

 

なので、

和人(日本人)から観た黒田清隆とアイヌ民族から観た黒田清隆は、人物像として真逆に

評価される人ということになります。

 

つまり、ロシアに対して「蝦夷(えぞ)はもともと日本の国の一部」という既成事実を

つくるためには「アイヌは同化されている日本人」という体裁が必要だったのです。

その体裁を整えるための屯田兵の移入(明治維新で失業した士族に対する救済=士族授産

対策)であったり、本州から北海道への保護移民制度、さらにはアイヌに対する撫育制度

はすべて、ロシアの侵略を警戒して(幕末から続く)日本政府のとった政策の一環だった

のです。

はい、ここではその政策の良し悪しを論じるのではなく

ここ数カ月の間に読んだToshiの本、乃南アサの3冊のご紹介です。

地の果てから

②ニサッタニサッタ

③チームオベリベリ

 

ニサッタニサッタの前半はなかなか読み進めにくい本ではあるけれど、読み終えた後は

地の果てから”との関係性(同書の続編)、人と人との繋がりや縁というものの不思議さ、

マイノリティが抱える生き辛らさが理解できる良書です。

地の果てからは、明治時代から続く開拓移民政策で移り住んできた家族の苦労が描かれ

ていて「何故、こんな地の果てまで移り住んでくる必要があったのか?」に思いを致すと

、中学時代に亡くなった祖母の顔が目に思い浮かんで泣けました

チームオベリベリも同様、北海道入植を志した人の夢や希望、挫折や筆舌に尽くしがたい

苦労がアイヌとの出会いの中で生き生きと描かれているとても良い本でした。

(オベリベリ=帯広)

 

はぁ~、それもこれも、アイヌ民族の蜂起や艱難辛苦の歴史にに比べれば・・・

 

チームオベリベリは、昨年山友のナジャさんから紹介を受けたのに、読むのがこんな

時期にまでなってしまいました

次回は、夏目漱石が徴兵令が未施行となっていた北海道岩内に22年間住んでいたとい

うことに関係する北海道移民誘導政策とアイヌの関係について触れたいと思います。

 

また今度

 

コメント (2)
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坂本直行さんpart2

2023-01-29 | 四方山話

北海道で登山が趣味の人なら知らない人は居ない?

いや、若い人には知らない人も多いかな?

Toshiが好きな画家:坂本直行さんの足跡をテーマにした特集番組がエネーチケーであるというので、録画して視てみました。

教えてくれたおかずさん、有り難うございます


BSプレミアム特集番組
「山と原野とスケッチと ~日高山脈と生きた画家・坂本直行~」

2023年1月27日(金) 午後10:00~10:59【BSプレミアム・全国】
2023年1月31日(火) 午後11:00~11:59【BSプレミアム・全国】※再放送

 

1月27日(金)に視られなかった方、是非、1月31日(火)午後11時からの再放送をご覧ください。

とってもとっても良い番組を制作していただきました。

えねーちけー制作スタッフさん、いつもながら有難うございます

 

チョッコウさん、山が自分を呼んでいるというお話が挿入されています。

直行さんの絵を鑑賞する我々も一緒です。

描かれた絵の山から呼ばれているような気持になるのです。

描かれている稜線上を今歩いていたり、遠く遠望する峰々の白い頂が「簡単じゃあないけれど、ここまで来ることは出来ます」と言っているような気がします。

ナレーションはチームナックスの音尾琢真さん、しみじみとした良い語りをしてくれています。

最近、大河ドラマにも出演し、演技に声優、ナレーションに円熟味を感じますね。

 

Toshiが前回、直行さんの絵の紹介をしたのは2012年、このブログを始めて間もないときでした。

坂本直行さん-“坂の上の雲”-

 

この時はまだ直行さんの生い立ちのことは詳しく知らなかったけど“我が人生に悔いなし”という、自身の名の通り真っすぐな人生の足跡を知って益々直行さんの絵が好きになりました

Toshiの自宅の居間に飾ってある唯一直行さんの絵『夏のエサオマントックベツ岳』(隣りはAkkeの夕張岳)

 

直行さんの水彩画はだいたい12、3万円から40万円ぐらいで購入できますが、

直行さんは生前数千点の絵を描き残したと番組で言っていましたから、

画商が取り扱う絵としては、“それだけの数だから”購入しやすい価格で出回っているのでしょう。

年配の方が亡くなったりしたら、売りに出る⇒気に入った人がまた購入して比較的早くにお亡くなりになる・・

私の知っている人で所蔵している人は皆年配の人です

 

それではまた折に触れて直行さんの絵を話題にしたいと思います

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アイヌを知るために⑥

2023-01-26 | 四方山話

まったく久し振りに取り上げる四方山話は、1年半も前にシリーズ⑤まで進んで

停滞していた“アイヌを知るために”の話題です

今回は、北海道の名付け親ともいうべき松浦武四郎の足跡をさらに掘り下げて、

克明に伝えてくれている書籍『松浦武四郎とアイヌ』の紹介です

アイヌを知るために⑤はこちら

帯も付いていないと表からはタイトルも分からない地味ぃ~な本

著者のご紹介 -Wikipedia-

新谷 行(しんや ぎょう、1932年 - 1979年3月18日)は昭和期の詩人、文芸評論家、歴史家。本名は新屋英行(あらや・ひでゆき)で、北海道の騎手・新屋幸吉は兄にあたる。妻は詩人の上杉浩子。


1932年のお生まれで、1979年に49歳でお亡くなりになっています。

留萌市小平のご出身、編集社を独立してから凡そ10年の間にアイヌに

関する詩や書籍を何冊かお出しになっています。

この本はToshiさん高校生になりたての頃に書かれたもの

新谷行氏は、

松浦武四郎という人が自らが和人としての立場から、征服された側のアイヌの視点にたって、

その民族としての抵抗史を記述した特筆したルポタージュ作家であったことを詳しく紹介して

くれています。

この本を学生時代に読んでいたら、Toshiの世界史観も大きく変わっていたかも?

実は先日、この本を読む前に、昔読んだ坂の上の雲』(司馬遼太郎著)全6巻

見返すのに数カ月を要していました。

そんな目がショボショボとしている間に、“坂の上の雲”に描かれている時代(江戸期

から明治にかけて)のロシアと日本との関係日本(幕府)の北方政策と当時の蝦夷

(北海道)の置かれている環境に、今のウクライナの人々が置かれている環境と

アイヌとが重なってしまい「はっ?」としてこの本を手にしていたのでした。

北海道の成り立ちを語る上で、我々道産子と言われる北海道出身者が、本当は

きちんとした歴史を勉強しておかなければならないのに、実際には何も学んでい

かったということを改めて認識した本でした。

松浦武四郎とアイヌとの言葉を超えた交流が、告発者として明治期の北海道に

大きく影響を与えたことのお勉強は、少なくとも北海道内の中学・高校の授業で

は是非、取り上げていただきたいものです。(取り上げないと思うけど)


この後は、Toshiの備忘録で関心の高かったページだけを抜き取らせていただきました。

このシリーズもまだまだ続けていきたいと思います。

P200~P208【明治期の北海道】

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