ゆるふわ読書日記

徒然なるままに読んだ本を紹介していきます。
ゆるふわとは、ゆるゆるふわふわです。

カザルス J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲(全曲) TOCE-8562・63

2024-01-26 06:12:12 | 日記
パブロ・カザルス J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲(全曲) TOCE-8562・63

今だに、よくCDで音楽を聴く。
ライナーノートで共感した一節を、共有したいと思います。文章は大久保喬樹氏です。
「彼にとって、音楽とは、なによりもまず音を通じて他人に、自分の感情や思想を語りかけていく、その意味での言葉であり、それによって、音楽という、あるいは芸術という枠を越えて、哲学や宗教や政治と同様に直接人々に働きかけ、動かすような力なのである。
このことは、カザルスに限らず、アフリカでの布教医療活動と並行してバッハ研究、バッハ・オルガン曲の演奏を続けたシュヴァイツァー等、今世紀(引用者注:20世紀)前半の多くの巨匠たちに共通してみられる音楽観であるが、その根底にあるのは、学問にせよ、芸術にせよ、それぞれあらわれ方、手段方法は異っても、本質は、すべて同じ普遍的な人間性の表現、人間性への奉仕であるとみなすヒューマニズムの思想に他ならない。
カザルスの音楽は一貫してこの思想の実践である。バッハの無伴奏チェロ組曲での厳しい、烈しい、重い響き、ティボー、コルトーとのトリオでの官能的な響き、カタロニヤ民謡での素朴な、自然の響きまで、カザルスの音楽は実に多様な表情をみせるが、それらはすべてカザルスの人間性の表現であり、伝達(ルビ:メッセージ)なのである。」


Ernst Cassirer,Kant und die moderne Mathematik(2)

2022-12-03 14:42:16 | 日記
ドイツ語を学んでいます。
まだ3ページ目で、内容は序盤といった所です。
全部で49ページあります。
先は長いです。

大澤真幸『見田宗介先生を悼む一一翼をもち、そして根を持つこと一一』

2022-11-20 23:55:04 | 
社会学者の見田宗介先生(1937-2022)が四月一日に逝去されました。私は社会学には疎いのですが、日本の学者さんの中で、広い領域と深い洞察に裏付けられているであろう論考に、深い関心を抱き続けてきました。真木悠介名義の『気流の鳴る音』、見田宗介『時間の比較社会学』、見田宗介『宮沢賢治一一存在の祭りの中へ』など、私は未読なのですが、どうしても無視できない方として意識し続けております。その見田先生の大澤真幸による追悼文である。

「いや、こんな要約では、とてもこの講義のおもしろさや深さは伝わらない。いずれにせよ、私がこのとき獲得したものは、精神の自由ということだったと思う。私たちは、無意識のうちに、自分の精神に枷をはめている。なしうること、考えることの範囲を、そうとは自覚することなく限定している。見田先生の講義は、その枷から私を解放してくれた。すぐれた学問は、精神を自由にする。私が感じた興奮は、自由を得たときの歓びであった。(p.124)」

いずれ見田先生の著作を是非とも拝読したいと思っている。

『武満徹 エッセイ選 ーー言葉の海へ 小沼純一 編』

2022-11-08 20:47:55 | 
『武満徹 エッセイ選 ーー言葉の海へ 小沼純一 編』ちくま学芸文庫(2008)

作曲家の武満徹(1930-1996)の文章を編纂したのが本書である。その音楽と同じく、とても印象的な文章を書かれる方である。確かオクタビオ・パス(メキシコの詩人。1914-1998)が、詩に対する批評は詩で行うのがよいといった事を確か言っていて(記憶も曖昧ですみません。)、武満徹の文章は詩のようであり、私には詩で返す能力もないので、その美しい文章達の紹介をここでは行いたい。折しも、今は代表作『ノヴェンバー・ステップス』にちなまれる11月である。

「たとえば、ル・コルビュジエがその建築の基準に人体を用いたように、一般的な音響環境についての論においては、人間の耳と共に、人間の声を標準とし考察しなければならないだろう。(p.49)」

「私は、たぶん、未だにひとつの歌ーー旋律をうたいたいと思いつづけているタイプの、あるいは古風な作曲家であるかもしれないが、旋律のひとつの持続によって到達したいのは、その持続のなかで味わう歓びや苦しみを超えた場処なのであって、ただ、私はそれを素直に永遠とはよべないのだ。(p.53)」

「音楽は祈りの形式である、とひとりの友は言う。たぶん、私自身の音楽行為も、それを言葉にして整え表すなら、その行為を支えている多層な感情は、祈りという一語に集約されるかもしれない。むしろ他の言葉によっては説明し得ぬものである、と言って差支えない。だが、祈りはここでは既に言葉では無いなにものかである。(p.56)」

「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。私の小さな個性などが気にならないようなーー。(p.149)」

「そんな表面的な技術ではなく、その人なりの美しい音があるはずです。モーツァルトやベートーヴェンは、そういった「自分の声」を持っていたひとたちです。(p.190)」

「僕は音楽とは「祈り」だと思うんです。「希望」と言ってもいい。(p.194)」

「私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ、既に世界に遍在する歌や、声にならない嘯(つぶや)きを聴き出す行為なのではないか、と考えている(p.261)」

「敗戦と、戦後の生活体験が、現在の私を形成しているすべてであるといってさしつかえない。音楽も詩も愛も、すべてがそのなかで育った。(p.285)」

「私たちは〈世界〉のすべてが沈黙してしまう夜を、いかにしても避けねばならない。(p.293)」

「オーケストラは、西洋近代がつくりだしたもっとも精巧で完成された一箇の楽器だと言えよう。(p.372)」

「私が、映画音楽から、仲々、足が洗えないでいるのは、実は、こうした自分とはまるで違った考え方や感じ方のひとたちと、一緒に夢を紡ぐことの面白さが、とても貴重なものに思われるからで、無駄にしたという思いなど無い。(p.388-389)」

「私は映画音楽を書く時、映像に音を加えていくというよりも、映画からいかに音を削っていくかということについて考えます。(p.392)」

解説(小沼純一)
「自らの音楽作品において、武満徹は、しばしば日本の庭園をモデルにしていた。オーケストラを庭に、ソロの楽器を歩くひとにみたてる(p.464)」


リルケ『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』

2022-10-24 04:54:41 | 
「『若き詩人への手紙』は、一人の青年が直面した生死、孤独、恋愛などの精神的な苦痛に対して、孤独の詩人リルケが深い共感にみちた助言を書き送ったもの。『若き女性への手紙』は、教養に富む若き女性が長い過酷な生活に臆することなく大地を踏みしめて立つ日まで書き送った手紙の数々。その交響楽にも似た美しい人間性への共同作業は、我々にひそかな励ましと力を与えてくれる。(裏表紙より)」

ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)の『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』(新潮文庫)。二人の相手に対し、非常に親密に、丁寧で、そして誠実に記された励ましと忠告の手紙である。私にとっては何度も読むことになる作品になるだろう。リルケのその高潔な生涯は、彼の作品の暗さと相反して、清らかな励ましを私達に与えてくれる。ブログを書いたり、何かを表現するにあたって、響いた一節を引用しておきたい。

「自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。(p.15)」