ゆるふわ読書日記

徒然なるままに読んだ本を紹介していきます。
ゆるふわとは、ゆるゆるふわふわです。

Ernst Cassirer,Kant und die moderne Mathematik(1907)

2022-10-10 21:58:23 | 日記
過去に岩波書店から、『カントと近代の数学』という題名で、下村寅太郎訳で出版されていたようだが、古本は見つからない。辞書を引いて、自力で読もうとしたが、単に難しい。これは自分のドイツ語の実力に問題があるということです。今後ドイツ語を勉強しようと思います。

リチャード・クライン『煙草は崇高である』

2022-10-07 03:50:23 | 日記
煙草が止められない。しかし、あともう少しで止めるだろうとは思っている。値上げばかりだし。

リチャード・クライン、太田晋・谷岡健彦訳『煙草は崇高である』太田出版(1997)

煙草を哲学するような本である。否定的(消極的)な経験をその契機として含むような美的満足、というカントの崇高の定義を煙草に当てはめて、煙草の美は崇高であるとする。どういう事かというと、例えばアルプスの自然の偉容や深淵と対峙して、自らの小ささや限界を感じ人は苦痛を感じる。そこから理性が想像力を励ますという葛藤をへて、やがてある快がもたらされる。これが苦痛を伴った「消極的快」であり、崇高の要素である。煙草は身体に悪いと分かっていても止められない。それを説き明かしてくれるのが煙草の崇高性だ、とのことである。
この本では、煙草との歴史、哲学や文学、映画、アメリカ政治の関係が多様に語られる。それにも関わらず「本書の更なる実用的価値は、この点にある。実をいえば、本書は禁煙のために執筆され、また供されているのである。(訳者あとがき)」
本書を読み、煙草を深く知る事で、逆説的に私は煙草を止められるだろうか。止めようとは思っている。

最近の本

2022-10-04 23:29:01 | 日記
図書館で借りてきたりして、最近読んでいる本です。

エルンスト・カッシーラー、山本義隆・村岡晋一訳『認識問題4』みすず書房(1996)
アガサ・ファセット、野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』みすず書房(1978)
鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』岩波新書(1940)
ベーラ・バルトーク、伊東信宏・太田峰夫訳『バルトーク音楽論選』ちくま学芸文庫(2018)
川端康成『眠れる美女』新潮文庫(1967)

最近は、バルトーク(1881-1945)の音楽にハマっています。当時の民俗音楽の採集が、文化人類学の走りのようにも思える。無調音楽への理解はありつつも、その方向へは流れなかった所が良かったのか。文筆面はというと、とても明確な文章を書く人ですね。川端康成はご愛嬌。


カント『永遠平和のために』

2022-10-04 00:19:08 | 
カント哲学における究極の理想である。「異常な幸福者の夢想」と評されようと、カントにはそういった事も計算済みだったのではないだろうか。何百年、何千年掛かるかは見当もつかないが、このカントの理想・理念が世界に訪れる日は来るのだろうか。

千葉雅也『現代思想入門』

2022-09-22 23:20:13 | 
著者渾身の一冊。
デリダ、ドゥルーズ、フーコーから始まり、ニーチェ、フロイト、マルクスを経て、ラカン、ルジャンドル、レヴィナス、メイヤスーなどの二十一世紀におけるフランスの現代思想の紹介も行いつつ、私達の人生との向き合い方に即しても記述されている。誠実にかつリーダブルに書かれている。

「人は決断せざるをえません。先のツイートのケースでは、「大人は責任をもって決断するのだ」ということがある種の強さのように言われていました。それを言うなら、未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断をできる者こそが本当の「大人」だということになるでしょう。」(p.54)

「すなわち、同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと思うのです。(p.140-141)」

「身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、箇別の問題に有限に取り組むことである。
世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。(p.214)」

p.214の引用は、それだけでは詩句のようだが、これは生き方に繋がっている結論部分である。思想と生き方が交差する地点の描写とも言え、辿って読めば分かるように書いてあります。個人的には大分参考になりました。