『武満徹 エッセイ選 ーー言葉の海へ 小沼純一 編』ちくま学芸文庫(2008)
作曲家の武満徹(1930-1996)の文章を編纂したのが本書である。その音楽と同じく、とても印象的な文章を書かれる方である。確かオクタビオ・パス(メキシコの詩人。1914-1998)が、詩に対する批評は詩で行うのがよいといった事を確か言っていて(記憶も曖昧ですみません。)、武満徹の文章は詩のようであり、私には詩で返す能力もないので、その美しい文章達の紹介をここでは行いたい。折しも、今は代表作『ノヴェンバー・ステップス』にちなまれる11月である。
「たとえば、ル・コルビュジエがその建築の基準に人体を用いたように、一般的な音響環境についての論においては、人間の耳と共に、人間の声を標準とし考察しなければならないだろう。(p.49)」
「私は、たぶん、未だにひとつの歌ーー旋律をうたいたいと思いつづけているタイプの、あるいは古風な作曲家であるかもしれないが、旋律のひとつの持続によって到達したいのは、その持続のなかで味わう歓びや苦しみを超えた場処なのであって、ただ、私はそれを素直に永遠とはよべないのだ。(p.53)」
「音楽は祈りの形式である、とひとりの友は言う。たぶん、私自身の音楽行為も、それを言葉にして整え表すなら、その行為を支えている多層な感情は、祈りという一語に集約されるかもしれない。むしろ他の言葉によっては説明し得ぬものである、と言って差支えない。だが、祈りはここでは既に言葉では無いなにものかである。(p.56)」
「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。私の小さな個性などが気にならないようなーー。(p.149)」
「そんな表面的な技術ではなく、その人なりの美しい音があるはずです。モーツァルトやベートーヴェンは、そういった「自分の声」を持っていたひとたちです。(p.190)」
「僕は音楽とは「祈り」だと思うんです。「希望」と言ってもいい。(p.194)」
「私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ、既に世界に遍在する歌や、声にならない嘯(つぶや)きを聴き出す行為なのではないか、と考えている(p.261)」
「敗戦と、戦後の生活体験が、現在の私を形成しているすべてであるといってさしつかえない。音楽も詩も愛も、すべてがそのなかで育った。(p.285)」
「私たちは〈世界〉のすべてが沈黙してしまう夜を、いかにしても避けねばならない。(p.293)」
「オーケストラは、西洋近代がつくりだしたもっとも精巧で完成された一箇の楽器だと言えよう。(p.372)」
「私が、映画音楽から、仲々、足が洗えないでいるのは、実は、こうした自分とはまるで違った考え方や感じ方のひとたちと、一緒に夢を紡ぐことの面白さが、とても貴重なものに思われるからで、無駄にしたという思いなど無い。(p.388-389)」
「私は映画音楽を書く時、映像に音を加えていくというよりも、映画からいかに音を削っていくかということについて考えます。(p.392)」
解説(小沼純一)
「自らの音楽作品において、武満徹は、しばしば日本の庭園をモデルにしていた。オーケストラを庭に、ソロの楽器を歩くひとにみたてる(p.464)」