今ちょっとあれこれモノを整理しなければいけない状況にあり、そこでモノ、その中でも写真というものについて思っていることがある。
写っている自分を見るのは、そんなに好きではないのだが。現実って、ねえ。
ところで、紙の写真って意外と重くて、母がアルバムに整理してくれた物ががとんでもなく重すぎて手に負えないので、 数年前にほぼ徹夜の勢いで簡易なアルバムに選抜し直したことがあった。選抜も苦労...正確には苦痛を伴った。だってだって、なかなかひどい写真も多いわけですよ、フィルム時代。一か八かだったから。それでも今見れば、あーここ行ったー とか、わー〇〇さんじゃん とか、この服好きだったー とか、単純にやっぱり思い出の一部が切り取られてそこにあるわけなので、思い出、すなわち自分の半生を自然と振り返ることとなった。良いか悪いかはともかく、こうやって生きてきたことは間違いはない事実だ。
もう1つ、写真の整理はデータの世界も忘れてはいけない。いつの間にこんなにあるんでしょ、データの写真...。
私は何を撮ったのか分からないと言われるほどに撮ることに全く技術がないのだが、フィルム時代とシャッターを切る「重み」が全く違うので、私ですら大量にあるんですよ、データ。以前に比べればずいぶんパシパシ撮っちゃうようになりましたね...。時々はカメラロール内も整理しているし、私の周りの優秀な母になったお友達たちの話を参考にフォトブックたるものにしてなんとかしています。(これは心からおススメします!)
最近とある写真を探して年代別にカメラロールを見ていたときに、それとは別にふと目に止まる写真があった。それはもう2度と会えない人の、私のカメラロールの中では多分唯一一緒に写っている写真だった。その日はお祝いの日で短い時間だったが楽しく皆で過ごしていたから、普通に見直してもいい写真だと言えるのだが、もう2度と、と思うとまた少し違う気持ちで見えてしまった。
今の状況からして、素直に、やっぱり、写真は、いいものなんだと思えた。でも胸がキュッとした。それ以降何度も脳裏にその写真が浮かんでくるので、これを書いてみようと思った。
やっぱり写真はデータであっても重いのだ。紙の写真と同じだ。人生の記録の1つの方法だから重いのだ。動画や録音はもっと直接的だから、もっと優しく寄り添ってくるだろうし、そしてある意味もっと残酷だろう。写真は記憶や思いを気づかせてくれるくらいのちょうどいい立ち位置なのかもしれない。
別にいらないよ写真なんて、と昔は思っていたけど、もっともっと先輩の方がデータの写真ですら「いらないよ、もう「終活」で写真も全部捨てたんだ」とおっしゃった時に、私の「いらないよ」とは違う「いらないよ」だと、ドキッとした。その分、実際一緒にいられる時間を作りたいと思った、それができるうちに。
でも、写真が思い出となって見えるようになってきて、ああ、私も歳めちゃくちゃ取ってるじゃん、が1番の結論です。(脳内BGMは「古いーアルバムの中ーにー」 これまた古いわ、怖いわ)
自分を取り巻くあれこれが、生きているうちにどんどん溜まってきた。モノのことは考え始めたら、もはや全部いらないんじゃないのか、全部捨てるか...という域に達しがちですが、そういうことでもないのです。今年はその点、色々と知恵を絞ったり決断を迫られる年になりそうです。(写真よりも楽譜ですよ、楽譜。どうしたらいいの。)
大事なモノまで勢いで捨ててしまわないように気をつけます。
そしてこういう写真を撮る人間(職種?)になるとは思わなかったな...。もう色々なところで使っていますが、私の新しい「顔」でございます。写真は撮るに至るまでが本当に大変、(そんなに好きじゃないから)でも、素晴らしい方にご協力いただいたできた写真です。たくさん使えますように。
あっ、昔から知る方、言ってくださいよ、「髪」。笑 これについてはまた今度。
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