SSF 光夫天 ~ 詩と朗読と音楽と ~ 

◆ 言葉と音楽の『優しさ』の 散歩スケッチ ◆

「盛夏の午後」 ~ホオジロ~

2015-09-12 23:19:09 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
『自註 富士見高原詩集』<尾崎喜八>より、
「盛夏の午後」を紹介します。



2015年夏、異常なほど気温は高く、朝夕においても、30℃を超え、これは、普段の夏の昼間の気温ではないか、と。
暑い夜、私の住む大阪では、「クーラー」を使うしか、他の手段がなかった・・・そんな夏でした。

還暦を過ぎ、若い連中からは、「おじいちゃん、熱中症にならんように、適度にクーラー使うんよ!」と言われ、
「何を言ってるんや!私は、まだ若い!!」と意地を張るところだが、ホントに暑く、クーラーはフル回転。

そんな中、この「盛夏の夏」をあらためて、「夏、真っ盛りの午後」の情景を思い浮かべながら、
喜八が書いた『自註 富士見高原詩集』の、この詩に、思いを馳せ、取り上げます。



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【自註】盛夏の午後

どこにでもいて、庶民的で、いつでも機嫌にむらが無くて、
歌もよく歌うこのホオジロという私の好きな鳥が、富士見高原にもたくさんいた。

それでいつかは彼らの讃め歌を書いてやりたいと思っていた矢先、折よくもこういう光景に出会ったのである。

大輪ジニアの咲いている一角は前にも出て来た採取圃場で、
それを中にして彼らのとまって歌っている木が一方はカラマツ、一方はリンゴというのが、その場の画に生彩を与えた。

空間は音の伝達の場である。

そしてもしもその音源相対する二つの方向にあって人がその中間にいたとしたならば、
二個のスピーカーから出る音楽のように私に来て、どちらからともなく歌い止むまで聴き手の私を去らしめなかった。
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盛夏の午後

歌を競うというよりも むしろ

歌によって空間をつくる頬白が二羽、

むこうの丘の落葉松と

こちらの丘の林檎の樹に

小さい鳥の姿を見せて鳴いている。


その中間の低い土地は花ばたけ、

大輪百日草のあらゆる種類が

人為の設計と自由とを咲き満ちている。


すべての山はまだ夏山で、

森も林もまだしんしんと夏木立だが、

もうその葉に黄を転じた一本の胡桃の樹。

二羽の小鳥はほとんど空間を完成した。

しかしなお歌はやまない。

その二つの歌の水晶のようなしたたりが、

雲の楼閣を洩れてくる晩い午後の日光の

蜜のような濃厚さを涼しく薄める。



秋の詩 ~詩とその註釈~「かけす」

2015-09-07 19:51:16 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」

~詩とその註釈~

詩は、「言葉」と「文字」の『芸術』であると同時に、作者の「心の歌」
であるので、本来、『自註』は、不要であると思います。

しかし、詩を読み、更に註釈を読めば、作者の人としての「心」を感じ、
生活と芸術を一層よく理解できます。

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自註 富士見高原詩集
尾崎 喜八(1892年1月31日 - 1974年2月4日)

この詩集は、1969年(昭和44年)に青娥書房から限定千部で出版。
そして、1984年(昭和59年)装いも新たに再版。(鳥影社)

そこで、新しい企画を立てるため、再度、振り返ってみたいと思います。
詩とその註釈の読み直しと、さらに朗読と音楽を付加し、ひとつひとつの詩を噛みしめてみようと思います。

なお、「自註」とは、喜八自身が自分の詩に註釈を施し、或はそれの出来たいわれを述べ、
又はそれに付随する心境めいたものを告白して、読者の鑑賞や理解への一助とする試み。
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対象として、この詩集70詩の内、13詩を取り上げてみます。
そして、その他詩集などから、7詩を。総て20詩。


男声合唱組曲『尾崎喜八の詩から』

まずは、富士見峠での詩作、「かけす」から・・・ (光夫天)
                                          

かけす

山国の空のあんな高いところを

二羽三羽 五羽六羽と

かけすの鳥のとんで行くのがじつに秋だ


あんなに半ば透きとおり

ときどきはちらちら光り

空気の波をおもたくわけて


もう二度と帰って来ない者のように

かけすという仮の名も

人間との地上の契りの夢だったと

今はなつかしく 柔らかく


おりおりはたぶん低く啼きながら

ほのぼのと 暗み 明るみ

見る見るうちに小さくなり

深まる秋のあおくつめたい空の海に

もうほとんど消えていく・・・・・・


【自註】かけす

秋もようやく深くなると、日に幾たびか、空の高みをカケスの群れが南のほうへ飛んでいく。

南の何処へいくのかは知らないが、とにかくこの高原を後にして、
今まで一緒に暮らして来た私たちを後にして、われわれの知らない土地へ行ってしまう。

私たちにはそれが寂しかった。

ふだんよりも遥かに高いあんな空を飛んで行くのだから胸の痛む思いがする。

誰がどういうわけでカケスと呼んだか語源の程は知らないが、とにもかくにもその名で呼ばれて、
自分でもその気になっていたかも知れない者が、どうにも出来ない本能か運命のようなものに導かれて、
おそらくは半ば心を残しながら遠く去って行くのだと思うと、私には彼らが単なる鳥としては見られない。

寧ろ何か霊的なものに見えてくる。

或る友人がこの詩を特に好きだと言ったが、
出来る事ならばこの高原で、秋空遠く消えていく彼らの姿を一緒に見たいと思っている。



<初演データ>
演奏団体 :関西学院グリークラブ
指揮者  :北村協一
演奏年月日:1975(昭和50)年1月18日
関西学院グリークラブ第43回リサイタル(於 神戸国際会館)

見出し画像:自註富士見高原詩集(写真:勝山甲一氏)