写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

「言語思考」について-3

2007年08月11日 | 「言語思考」
先回、「言語思考」は取捨選択をして真実を一つに集約するツールとしては、都合が良いのですが、真実は一つではなく無限にあると考え、真実を語るには万巻の仏典が、これまでも、これからも増え続けるというのが仏教の方法なのです。とお話ししました。
最近読んだ本の中に、
…科学は「真理(宇宙という全世界)を、短縮された表現形式をもつアルゴリズムに圧縮可能だ」という信念に支えられてきた。…
…科学は、「今、ここ」の、局所的因果律を前提にしている。…
とあるのも、「科学思考」、つまりそれが寄って立つ「言語思考」独特の振る舞いを説明しています。
寄って立つとは、単純に考えて、科学は、論文のカタチで「言語思考」に翻訳され、評価を受けているので、つまり、科学は、「言語思考」そのものと考えられますから、上記の言説は「科学思考」の限界を言いながら、「言語思考」の限界を言っていることになります。

当然、このような「科学思考」の振る舞いの矛盾は、科学では、ラプラスの魔、マクスウェルの魔の名称でラベリングされ議論されていますが、矛盾を解いたと思った瞬間、つまり振る舞いの外に出られたと思った瞬間、自らの振る舞いに捕らえられていることに気がついてしまいます。
科学はこの解決に、そこに新しいラベルを貼り、新ラベルの矛盾を再び議論することを始めます。そして「科学思考」であれば、人や人生に解体や再生を迫る「祈り」をしなくても、日々を過ごして行ける。つまり、安全であることもこれは意味しています。
本当は、自らの振る舞いの実証には、「科学思考」ではない「言語思考」でもない、第三の方法でなければ、解決しない。と「科学思考」も分かっている筈なのですが…。
近年、この矛盾や限界の突破に、脳科学による解明が期待されています。「心(仮想)」は脳で生まれると言い、また「言語思考」は脳に所属するので、「言語思考」を司る部分以外の脳の機能を使って実証すれば解決出来るのでは…。と言っています。一見、第三の方法のように思えますが、科学の成果は、論文などの「言語思考」に翻訳されて評価実証されるので、これでは、真実を一つに集約することを、結論や理解ということにするという「科学思考」の振る舞いの外には出て行けません。
つまり、「科学思考」が自らの限界を話すことは、前からお話ししているように、「言語思考」が「言語思考」を裁くと同じく、自己撞着に陥ることになり、科学の状況は、泥縄から、泥棒が縄を編む状況にまで混乱(進歩)を深めています。 
これらをまとめると、…「科学思考」の限界が、「科学」の進歩の限界を暗示している。…と言うことになってしまいます。

ではこの問題を、仏教はどのように解決してきたのでしょうか。
「色即是空、空即是色」は、どう考えても、今日の「言語思考」からは、ベタで自己矛盾です。今日の「言語思考」なら、もっとスマートに説明出来ると思いますが、その前に「科学思考」や「言語思考」のアンチテーゼである、「真実は一つでなく無限にある」とは何なのか。をお話ししなければ議論のバランスを欠いてしまいます。
空海の 
 …「重重帝網なるを即身と名ずく」の「重重帝網」
華厳経の
 …「一即多」と「相移即入」の「多」
観無量寿経の
 …「極楽世界」
タオ(道教)の
 …「天人合一」の「天」
などが、「真実は一つでなく無限にある」の言葉による表現です。しかし名称(ラベル)だけで説明がなければ、多くの人には、何のことか分かりません。
観無量寿経の「極楽世界」の表現では、極楽の有様を、多くの言葉を使い長々と説明しています。
「極楽」とは、「真実」のことですから、「極楽」を語ることは「真実」を説明することになるのですが、しかし読み進めると、総てをこの方法で説明し尽くすには、この量の言葉と紙面では足りないことが分かってきます。つまり、言葉で語り尽くせぬ程「真実は一つでなく無限にある」ことになり、「無限」を言葉で説明するには、無限と同じ量の言葉と紙面が必要になってきます。つまり「無限」を説明するのに「無限の時間」がかかるのでは、理解も永遠に出来ないことになるのです。
仏典にはこのような長々とした説明や、論理の繰り返しが数多く出現してきます。「無限」を説明しようとする強い意志は分かるのですが、努力して読み進み理解しようとすると睡魔が襲ってきます。また、理解ための頭脳容量がすぐに不足しますので、毎日少しづつ、何日も何ヶ月も理解に励み、読経として声を出して読み上げたり、それでも人間の「言語思考」は、仏典に書いてある量の「無限」すら十分に理解出来ないのが普通です。これは人間の認識ツールとして「言語思考」は、「無限」を表現したり理解するのに、不完全であることを意味しているのではないでしょうか。
本来なら、この場で「重重帝網」「多」「極楽」「天」とは何かを説明しなければならないのですが、同じ理由で紙面が足りなくなるので、Googleの検索などで解説を探してください。ネット検索は「言語思考」に準拠していても、bookよりは、「無限」を説明出来るツールに成長できるかもしれません。

・空海は、「重重帝網」の認識や理解を迫ります。理解しなければ「即身成仏」出来ないと言います。
・華厳経は、一個の如来に多個を見ろと言い、一と多が量子論的に在ると言い、それを認識しろと言います。
・タオ(道教)の「天」は、「天」は無限であるのは自明のこととして、あまり説明がありません。
・観無量寿経はインドの思考論理ですから、多くの言葉と紙面で「無限」を表現しようとしていますが、いつも徒労感を覚えてしまいます。

さて、いよいよ、「無限」を認識理解しなければ先に進まなくなりました。
ではどうすれば、人間は「無限」を認識出来るのでしょうか。

一言で言うと、
…さっさと「言語思考」を止めなさい。…
です。
…「言語思考」を止め、「重重帝網」を認識理解すれば「即身成仏」できる。…
が空海の教えではないでしょうか。
しかし空海には、真言(秘密語・マントラ)があります。「言語思考」に信頼を置いているように思えます。
「無限」と「真言(言語思考)」とのパラドックスを、科学の最新理論であるスーパーストリング理論で説明してみましょう。
科学は、物質の成り立ちを、素粒子(単粒子)として考え、分子、電子、クオークなど、タマネギの皮を剥くように解明を進めてきました。
常に、それは量子論的に語られて来ましたが、理論を突き詰めていくと、仏教では空性、無常で表現されるような、時間と空間の広がりが理論上必要となってきました。時間と空間とは、時間と時間、空間と空間、空間と時間の関係性を常に問われますから、粒子の範囲では、どうにも説明がつきかねるところまで到達してしまいました。そこで登場したのがスーパーストリング理論です。一言で言えば、「全ての素粒子は有限な大きさを持つひもの振動状態である。」と説明されますが、このスーパーストリングが「真言」と良く似ています。

般若波羅蜜多心経の末尾に、有名な次のマントラ(真言)が記されています。
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
掲諦(ガテー)とは、「行く(往く)」という語意ですが、逝く(成仏する)と行く(進んで止まらない)の二つの真理を表しています。しかし、マントラはこのような文字としての語意だけでなく、声に出し唱えることで、音色と響き。唱える人の身体観。唱える場所を荘厳する色、カタチ、匂い、触感。など、五感を総動員し、身体、言葉、心で多様に認識理解を行う。いわば、もともと人間に具わった種々の認識器官やツールを、「言語思考」を引き金として総動員させる、仏教独自のメソッドなのです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」 はつまり、スーパーストリング理論が言う、振動状態なのです。真言を唱え認識することで、自分と自分を取り巻く環境の総てが振動状態にあることを実感するのです。つまり科学的に言うと、如来の法身・報身・応身が活躍(振動)する「時間と空間」。そしてその「関係性」の総体をそれは表しているのではないでしょうか。
こう考えると、仏教と科学、約2000年を経て、漸く同じ地平に立つことになった思いがします。しかし同時に、どちらも「言語思考」の限界に、その先を阻まれているようにも思います。仏教は、「言語思考」に代わる認識法の開発を根本に意図していましたが、科学は漸く、その限界に気づき始めたところと言えます。
「進んで止まらない」が両者の真理ですから、我々人間は、次の一歩を踏み出さなければなりません。
科学は、最小単位である「スーパーストリング」を最大単位である「宇宙」との、つまり、華厳の言う「一即多」と「相移即入」の関係性を明らかにしなければならず、
仏教は、密教、顕教、仏典(book)、ヨガ、曼荼羅、金剛杵、印など、「言語思考」を透明にし、背後に隠れている能力を、目覚めさせ活性化させる、これら古代からの手法ではなく、現代人に馴染みのあるパソコン、TV、写真、ムービー、イベント、インターネットなど、より優れた新しい手法で、より効果的に、仏教を体験してもらうことが求められています。

次回は、「言語思考」に変わる認識法とは何か、そして「無限」の実感、認識、理解とは何なのか、また、それを言葉(ブログ)で説明が出来るのだろうか?、を考えてみたいと思います。


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写真の彼らは、2007年1月18日、インド、ガンジスの川原で繰り広げられた、クンブ・メーラの祭りで、言わば、「言語思考」に代わる認識法を求めて「祈る」人々です。

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