先回の野町和嘉の例で、レンズは、撮影者の意思(無意識)をフィルムに写し撮ってくれていることを説明しましたが、でもこの例だけでは、レンズは捕らえた物を物理的にフィルムに感光させているだけで、撮影者の意思(無意識)という非物理的なものが写っているなど証明できない。と科学は言うのではないでしょうか。
ではその説明として、素粒子物理学の方法、電磁力とは量子力学的に二つの電荷の間で光子が交換される現象である。を説明するファインマン図に倣って、写真撮影とは、光が感光するという物理現象であるとともに、撮影者の意思(無意識)とフィルムの間で光子様なものが交換(感光)される現象でもあるという仮説を立て、これを実証すれば、科学的にも、写真にはそのような力があると言うことにならないだろうか。
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何故こんな事を言うかというと、無意識とは、論理的に内容を説明しようとすると何万語あっても足りない言説不可能な意識なので、撮影者の意思(無意識)が写り込んでいることを、これから、どれだけ言葉で説明しようとしても時間が足りないと言うことになってしまうからだ。
また、科学でも真理の証明は、論文のカタチで、言葉に翻訳され理解、審理されるので、科学も言語思考による理解の一種ということになるので、科学的方法でも説明尽くせないことになる。何故なら、例えば、赤ちゃんの笑顔の解明という科学的命題があったとすると、その証明は何万語の論文より、一枚の赤ちゃんの笑顔の写真の方が勝っていることは自明だからだ。
だが無理に言葉だけで説明と言うことになれば、無意識の担当は、「詩」になるが、果たして詩で写真を説明理解できるのであろうか。
つまり、写真も言葉で説明しようとすると書くそばからこぼれ落ちてしまうものなので、言葉での理解に加えて、無意識を理解する感受器官(?)でもなければ出来ないことになってくる。
言葉の限界を見る思いがするが、でも言葉で何万語もかかるものが、写真を見ると瞬時に魅力を感受してしまう。そのとき人間には、自動的に無意識を理解する感受器官(?)が起動しているとしか思えないのだ、つまりそんな感受の方法をここでは理解の拠り所にしたい。
また、フランスの思想家ロラン・バルトは、有名な写真論の中で、いい写真には「プンクトゥム=見る者を突き刺す」があるから。と言いましたが、名前を付けたからと言って、理解や納得がえられた訳でなく、言葉の屋上屋を重ねて、分かったように見せかける、言葉の悪い性癖が出たような気がしますので気をつけなければならない。(「始めに」を参照)
ではこの理解の隔靴掻痒感はどこからくるのでしょうか。
これは、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。
人間は先ず、理解の前に様々な感覚で認識をします。
感覚には、臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚などがあります。
我々現代人は、例えば、臭覚とは何かと問われると、科学的分析と実証、そして言葉での論証をすれば答えられると考えます。臭覚を生物学的、医学的、生理学的、心理学的、人類学的に実証と論証を重ねてゆけばやがて総てが説明出来るようになり、理解が可能になると考えます。しかし、我々は、科学論文が何万冊あってもそれは語り尽くせないことを始めから知っていて、理解の隔靴掻痒感を、それは「人間の性である」というような言葉の説明で納得させられているところがあります。さらにそれを納得するのは言葉ではなく宗教であるなど、宗教にはまことに迷惑な言葉の説明で、現実の社会生活が成り立っているところがあります。
さらに視覚とは何かと問われると、この場合、一枚の赤ちゃんの笑顔の写真から瞬時に感受される理解の方が、科学的理解より優れていることにならないだろうか。つまり、言葉や科学が関知しないあるいは出来ない、撮影者の意思(無意識)が光子様のものになって、その光子がレンズを透過しフィルムに写し込まれていて、それを、繊細な知性である無意識が感知認識をして理解に進むとする考え方です。
しかし科学はこれとは別の方法を考えています。
臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚のうち、触覚、聴覚、視覚は大脳新皮質に結ばれていて、より言語に対応し、臭覚、味覚 、体内感覚は大脳辺縁系に結ばれ、本能、情動を支配するが、部分的にしか新皮質へは行かないので言葉への対応が薄い。と、つまり感覚が捕らえたもののなかから、言葉で説明できないものや難しいものを、言葉のフィルターで分析的に排除し、言葉が理解できる要素のみを集めて論証を進めます。
この方法では、撮影者の意思(無意識)が光子様のものになって、その光子がレンズを通じてフィルムに写し込まれるなどの、言葉で捕らえるのが難しいものは、分析段階から論証が排除されていて、でも、その効果は確かに人間感覚として認められるので、ロラン・バルトが言う、それには「プンクトゥム=見る者を突き刺す」がある。などとラベリングして、分析を中断放棄してしまうのが言葉(科学)の方法なのだ。そして、説明や理解を受ける側の方も、言葉での理解が総てでありそれを望む以上、言葉からこぼれ落ちるものには、興味が無いということになるのだ。
長々と人間の感覚や意識、理解のことをお話ししてきましたが、この理由は、写真には言葉からこぼれ落ちるものがあって、これが写真の本当の魅力であり、この時代、写真が生き残って行くためのパワーであり、そのためには情緒的に語るのではなく、科学的に説明しなければならないと考えたからです。ここまで書いてきて説明を尽くしたかどうかですが、でも明らかに写真と比べ、言語的方法や科学的方法は、何と面倒で時間が掛かるものなのか、つまり粗い知性の野暮な産物であるかがお分かり頂けたかと思います。
次回は、レンズに映し込まれる 撮影者の意思(無意識)とは何かを、先掲の撮影法の違いによってお話ししたいと思います。
ではその説明として、素粒子物理学の方法、電磁力とは量子力学的に二つの電荷の間で光子が交換される現象である。を説明するファインマン図に倣って、写真撮影とは、光が感光するという物理現象であるとともに、撮影者の意思(無意識)とフィルムの間で光子様なものが交換(感光)される現象でもあるという仮説を立て、これを実証すれば、科学的にも、写真にはそのような力があると言うことにならないだろうか。
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何故こんな事を言うかというと、無意識とは、論理的に内容を説明しようとすると何万語あっても足りない言説不可能な意識なので、撮影者の意思(無意識)が写り込んでいることを、これから、どれだけ言葉で説明しようとしても時間が足りないと言うことになってしまうからだ。
また、科学でも真理の証明は、論文のカタチで、言葉に翻訳され理解、審理されるので、科学も言語思考による理解の一種ということになるので、科学的方法でも説明尽くせないことになる。何故なら、例えば、赤ちゃんの笑顔の解明という科学的命題があったとすると、その証明は何万語の論文より、一枚の赤ちゃんの笑顔の写真の方が勝っていることは自明だからだ。
だが無理に言葉だけで説明と言うことになれば、無意識の担当は、「詩」になるが、果たして詩で写真を説明理解できるのであろうか。
つまり、写真も言葉で説明しようとすると書くそばからこぼれ落ちてしまうものなので、言葉での理解に加えて、無意識を理解する感受器官(?)でもなければ出来ないことになってくる。
言葉の限界を見る思いがするが、でも言葉で何万語もかかるものが、写真を見ると瞬時に魅力を感受してしまう。そのとき人間には、自動的に無意識を理解する感受器官(?)が起動しているとしか思えないのだ、つまりそんな感受の方法をここでは理解の拠り所にしたい。
また、フランスの思想家ロラン・バルトは、有名な写真論の中で、いい写真には「プンクトゥム=見る者を突き刺す」があるから。と言いましたが、名前を付けたからと言って、理解や納得がえられた訳でなく、言葉の屋上屋を重ねて、分かったように見せかける、言葉の悪い性癖が出たような気がしますので気をつけなければならない。(「始めに」を参照)
ではこの理解の隔靴掻痒感はどこからくるのでしょうか。
これは、現代では、言葉での理解が理解の総てになっていることと深く関係しています。
人間は先ず、理解の前に様々な感覚で認識をします。
感覚には、臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚などがあります。
我々現代人は、例えば、臭覚とは何かと問われると、科学的分析と実証、そして言葉での論証をすれば答えられると考えます。臭覚を生物学的、医学的、生理学的、心理学的、人類学的に実証と論証を重ねてゆけばやがて総てが説明出来るようになり、理解が可能になると考えます。しかし、我々は、科学論文が何万冊あってもそれは語り尽くせないことを始めから知っていて、理解の隔靴掻痒感を、それは「人間の性である」というような言葉の説明で納得させられているところがあります。さらにそれを納得するのは言葉ではなく宗教であるなど、宗教にはまことに迷惑な言葉の説明で、現実の社会生活が成り立っているところがあります。
さらに視覚とは何かと問われると、この場合、一枚の赤ちゃんの笑顔の写真から瞬時に感受される理解の方が、科学的理解より優れていることにならないだろうか。つまり、言葉や科学が関知しないあるいは出来ない、撮影者の意思(無意識)が光子様のものになって、その光子がレンズを透過しフィルムに写し込まれていて、それを、繊細な知性である無意識が感知認識をして理解に進むとする考え方です。
しかし科学はこれとは別の方法を考えています。
臭覚、味覚、触覚、聴覚、視覚、そして体内感覚のうち、触覚、聴覚、視覚は大脳新皮質に結ばれていて、より言語に対応し、臭覚、味覚 、体内感覚は大脳辺縁系に結ばれ、本能、情動を支配するが、部分的にしか新皮質へは行かないので言葉への対応が薄い。と、つまり感覚が捕らえたもののなかから、言葉で説明できないものや難しいものを、言葉のフィルターで分析的に排除し、言葉が理解できる要素のみを集めて論証を進めます。
この方法では、撮影者の意思(無意識)が光子様のものになって、その光子がレンズを通じてフィルムに写し込まれるなどの、言葉で捕らえるのが難しいものは、分析段階から論証が排除されていて、でも、その効果は確かに人間感覚として認められるので、ロラン・バルトが言う、それには「プンクトゥム=見る者を突き刺す」がある。などとラベリングして、分析を中断放棄してしまうのが言葉(科学)の方法なのだ。そして、説明や理解を受ける側の方も、言葉での理解が総てでありそれを望む以上、言葉からこぼれ落ちるものには、興味が無いということになるのだ。
長々と人間の感覚や意識、理解のことをお話ししてきましたが、この理由は、写真には言葉からこぼれ落ちるものがあって、これが写真の本当の魅力であり、この時代、写真が生き残って行くためのパワーであり、そのためには情緒的に語るのではなく、科学的に説明しなければならないと考えたからです。ここまで書いてきて説明を尽くしたかどうかですが、でも明らかに写真と比べ、言語的方法や科学的方法は、何と面倒で時間が掛かるものなのか、つまり粗い知性の野暮な産物であるかがお分かり頂けたかと思います。
次回は、レンズに映し込まれる 撮影者の意思(無意識)とは何かを、先掲の撮影法の違いによってお話ししたいと思います。