三十五歳を過ぎると、老後を考えると言いますが、六十五を過ぎると来世を、つまり死んだらどうなるのかを考えるようになります。
私は日本人の仏教徒なので、輪廻で来世に生まれ変われることを希望しますが、果たして人間に、ましてや日本人に生まれ変われるかどうか、見当もつきません。
仏教やキリスト教、諸々の宗教の人も、そして無神論者も含め、 多くの現代日本人の死への思いは、この程度に、「天国には行けるのかしら、輪廻で本当に人間に生まれ変われるのかしら」と。しかし殆んどは、「死んだらただ消えてしまい無になってしまう。」と思っている人が多いと想像します。
今度の3.11の震災で、深く感じた事は、人には、突然、死がやってきて、それは悲惨で痛ましく、そしてそれは同時に、不意に今の自分にもやってくるのではという、死との距離の近さでした。死との距離が近いとは、不安なのですが、その不安とは、死んだらどうなるのかが全く分からず、根無し草になってしまう不安なのです。
よくよく考えると、 震災で亡くなった死者の数は、世界レベルでは、病気事故戦争その他何らかの原因で毎日発生しているはずなので、震災で、急に、死への不安を感じるというのは、現代日本を生きている私達の感じ方や思考が、何らかの理由で死が感じられないようになっているのか、不感症か、それとも怠慢しているかのどちらかのように思います。
今日これだけ、科学が発達し科学万能になっているのに、「死んだどうなるか」は、科学こそ説明しなければならないと思うのですが、死後の話は、宗教に任せて、科学は関知しないというのは、科学がまだ未熟な時代には許された話でも、科学が懸命に万能力を発揮して、この思考の怠慢を何とかしなければならないのではと思います。
私の祖母は、私の歳にはもう、日々、お寺に詣でたり、自宅の仏壇に向い「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と己の成仏を祈って、つまり死後の安らかなることを願って準備をしていたというのに、私と言ったら、死んだらどうなるのかの疑問を考えようともせず、震災で急に不安を覚えたりしている。これは宗教への信心不信心の問題ではなく、人は等しく死を迎えるのですから、死んだ後はどうなるかは、科学の、政治の、社会の、プライベートのすべてが、解決を考えなければならない問題であり、現代日本の状況を見ると、社会が、個人が、思考が、怠慢をしているとしか思えないのです。
死者を弔うことは知っていても、自分が死んだらどうなるかを知らないのは、そのまま放置していい問題ではなく、これは人類が発生して以来、人間が一番多く時間を割いてきた思考行為の一つなのに、この問題を,現代日本人は放置したままでいることを、今度の3.11の震災は厳しく気付かせてくれてもいるです。
こんな愚痴っぽいことををぐだぐだ書き綴っていると、もうこの先は読んでもらえないことになるので、次の野町写真を見て欲しい。このチベットの五体投地は何のためにしているのかを考えて欲しい。
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チベットの仏教は主に密教ですが、五体投地はその密教の本格修行に入る前段階の修業になります。本格修業に必要な「祈り」のパワーと瞑想の集中力を高めることになるのですが、なによりも仏教への帰依を誓いその堅固が養われることになる、入門者には相応しい修業になります。
仏教の最終目的は、成仏する。つまり自ら仏になることですが、成仏を約束されている菩薩でもなかなか修業成就が困難な長い道のりですので、来世にもわたり修業を続けるには、再び人間に生まれ変わらなければならず、五体投地は、来世に必ず人間に生まれることを願う「祈り」の修業とも言われます。
つまり、写真の人達は、自分は死んだらどうなるかが分かっていて、その後どうなるか、何をしたいのかまでも、我々現代日本人よりは、分かっている人達なのです。
しかし現代日本人の我々にとって「祈り」とは、大学受験に命懸けで祈ったりするのですが、そうすると果たして我々は、来世は人間に、ましてや日本人に生まれ変われることが出来るのでしょうか。
このように、現代でも行われているチベットの五体投地と、現代日本人の「死んだらどうなるのか」の不安を、単純に比較したのですが、両者が理解し合えないのは明白です。
これは「宗教」と「科学」が理解し合えない今の状況と同じなのですが、しかし、人間「死んだらどうなるのか」を宗教は教えてくれていて、科学が怠慢をしているのであれば、現代日本人は「死んだらどうなるのか」を宗教からしか学べないのですが、しかし、自分が死んだら白装束の昔の着物を着せられ、平安時代か昔のインドや中国の宮殿のような極楽世界に今から行けると言われても、ディズニーランドの楽しさにも及ばないのであれば、 宗教が、 現代日本人から敬遠されるのもこれも明白なことなのです。
現代日本では、科学が万能であり、理解のほとんどが文字で書かれ理解記憶されているので、科学的に現代的に「宗教」を表現しなければ、 現代日本人には伝わらないのだと思います。またチョット古いのですが、マクルーハンのメディアはメッセージなので、最新のインターネット上で、人間「死んだらどうなるのか」を表現するくらいにしなければ、今日の日本では、もう宗教は伝わらないのではないかとも思います。
今回の震災では、多くのお寺や神社が津波で流され跡形もなくなる有様をTVや写真で見ました。 寺院や神社の立地は過去の災害の経験から、津波が到達しない高台に建てられていたはずなのですが、その寺院神社をなぎ倒した津波の威力に、知った積もりでいても死は突然やってくるという死との距離の近さを、まざまざと感じさせられてしまったのです。
しかし振り返ってみて、その壊滅した寺院や神社に、私達は「死んだらどうなるのか」の回答を求め、詣でて、祈ったことがあったかどうか。私の祖母は毎日のようにお寺にお詣りして「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と自分の死出の旅路の安穏と成仏を祈っていたというのに、その「祈り」の場所が、津波で流されてしまったのだ。そしてその喪失を現代日本人は嘆こうともしていない。何故なのだろうか。震災地では、さらに切実に死後の成仏を祈らなければならなくなった人もいると思うが、どこで祈ればいいというのだろうか。
そんな「祈り」をする人は、50年前頃までは確かにいたのだが、現代日本では絶滅してしまったので、喪失しても誰も気にしないということなのだろうか。
また、Twitterでこんな書き込みを見ました。
「日本には仏教の僧侶が沢山いるのに、多くの人が死んだ災害地に、なぜ祈りを捧げに来ないのか。死者を弔いに来ないのか。」の不満のツイートです。
この言葉に、現代日本人の宗教への誤解が、仏教への誤解が集約されています。
誤解とは何か、ここでは仏教で説明しますが、そして、端的な説明のために誤解を招きそうな極端な表現をしますが、つまり、仏教は、宗教は、生者のためにあるのであって、副次的には死者のためにもあるのですが、死者を弔うことを主には考えてはいません。
人間「死んだらどうなるのか」を生きているうちに考えさせ、死んでも消えては無くならない煩悩(苦しみ)の輪廻から、どうしたら脱出できるか(方法)を悟り納得することにあります。
これは私達の倫理であるヒューマニズムの発露でも、現実の苦しさを和らげる心理カウンセリング治療でもありません。もっと根本的に、現実の苦しみとは何かを分析し、苦しみが発生する原因を知り、仕組みを知り、苦しみからの脱出を「成仏」として理解し、それを実践する方法を学び(悟る)、実際に実践することにあります。(四聖諦)
今日的に言うと、ヒューマニズムや心理カウンセリング治療では、現実の苦しさの総ては無くならないという確信が、宗教の存在理由である。とも言えます。つまり仏教では、もっと根本的に飛躍的に、肉体的精神的に、現在の自己を解体し新しい自己に生まれ変わり(成仏)、現実の苦しさから脱出する方法を教えるのです。
ですから、仏教は生者のためにあるのです。そして、それを実践するにはパワーが必要になります。そのパワーの一つが「祈り」であり、「祈り」のパワーアップの過程が始めにお話しした五体投地などの修業と言うことになります。
野町写真には「祈り」の写真が沢山あります。寺院で「祈る」写真だけではなく、原始宗教的な「祈り」、個人的「祈り」、日々の生活の中心に「祈り」を置き「祈り」を日々の営みにしている集団の写真など、現代日本人からは死者の弔いにしか見えない行為も、真には生者のためのもの、そして集団的行為に見えても、実は生きている個人のためだけのものなのです。
なぜなら、宗教で平和を考えるとすると、全体の平和が個人の平和をもたらすのではなく、先ず個人が平和でなければ、全体は平和にならないと考えるからです。平和は個人から始まると考えるのです。
野町写真の中の多くの「祈り」をする人々と、この部分が,現代日本人と大きく違うところかも知れません。我々は、昔より個人主義が進んでいると思っているかも知れませんがでもそれは表面上であって、我々は全体の平和は願っていても、個人の平和を真剣には願ってはいないので、それではいつまでたっても全体の平和はやって来ないことになっているのです。
次回からしばらくは、 宗教について特に仏教について、 現代日本人に知ってもらうために、昔の語り口や例え話ではなく、パソコンやTV、電子レンジ、ディズニーランド、宇宙ロケットがある現代の方法で、いろいろお話ししてみたいと考えています。
そのことで、見えていなかったことが野町写真で見えてきたり、現代日本人が見失い存在すら忘れてしまっている事柄がよみがえってくるのでは、と期待をしています。