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野町和嘉「写真」を巡って。

「死んだらどうなるのか」(4)仏教について

2011年09月07日 | 死んだらどうなるのか
「死んだらどうなるか」について、3回お話ししてきましたが、読んでいただいた方から、ちょっと難しい。長い。との感想がありました。
少し気をつけながらお話しを続けようと思います。
本題に入りたいと思いますが、今までにお話ししたことを整理しながら進めたいと思います。

「死んだらどうなるか」は、死んでみなければ分からず、永遠のテーマと理解されています。もし、永遠を、言葉の上だけではなく、総て真に知ろうとすると、考える方もつまり我々も、永遠無限全能でなければ証明が成り立ちません。
今の常識では荒唐無稽のあり得ないことなのですが、でも昔の人は千年万年にもわたり深く考えてくれていて、その一つが仏教の教えであることが分かりました。

仏教では、成仏することが最終目的であり、仏とは永遠無限全能の存在であるからです。そしてその、永遠無限全能を実現する方法や技法のことが、仏教の教えのようなのです。

でもこれは、我々が知っている仏教の教えとは違うのではないでしょうか。

仏教の教えとは、普通には、
因果応報で悪いことをすると,それは自分に返って来ますよ。
殺生や盗み、嘘、強欲、姦淫をすると地獄に堕ちますよ。
怒ったり妬んだりすると、幸せになりませんよ。
幸福になるためには、人から愛されるのが、いちばんの近道です。
などの、有り難い人生の指針を教えてくれるものなのでは…。

また詳しく知っている方は、
この世の苦しみから、修業を積んで「悟りの世界」へ行くこと。(四聖諦)
物事には必ず原因(因)があって条件(縁)があって結果(存在、現象)がある。(因縁)
因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)
因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)
カルマがつくる煩悩。 煩悩がつくるカルマ。それがつくる輪廻転生から脱することが、成仏である。
などが仏教の教えなのでは…。

そしてこの「永遠無限全能の存在になることが、成仏です」は、 仏教の教えに、 入ってはいないのでは?、と。

しかし、仏教の最終目的は、仏になること(成仏)であり、その仏とは永遠無限全能の存在ですから、この考えは確かに仏教の最終目的と合致しています。また、多くの教えが、自らが永遠無限全能の存在にならなければ、実現出来ない困難なものばかりなので、この考えはむしろ成仏への基本条件の一つと言えるのではないかと思います。
また、科学的、論理的にも、それは人類が火星に住むと同じく、今は不可能でも、正しいのではないでしょうか。
しかし「永遠無限全能を実現する」のは不可能と、始めから決めてかかっている、想像力の乏しい現代日本人がいるのも事実なのです。

こうも考えられます、前に上げたその多くの教えは、等しく成仏を最終目的にしている教えですので、正しくは、修業の段階ごとのクリア目標(手段)なのではないでしょうか。?

輪廻を繰り返し何世にも渡り修業を続けるのですから、いつのまにか成仏への手段が目的へと変化してしまったのかも知れない。
例えば、何も考えず「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏できると思っていた私の祖母は、仏教についていろいろ考え過ぎている私と比べ、修業も終わりに近く、来世ぐらいには成仏できる羨ましい人だったのかも知れない。

同じ仏教でも、密教では、「永遠無限全能の存在になることが、成仏です」が最終目的になっています。
「生起次第」「究竟次第」。あるいは「梵我一如」で「悟り」に達し、成仏、つまり永遠無限全能の存在になることを目指します。
密教の方法は、先ず、永遠無限全能(宇宙)とは何かを知ることから始めます。(瞑想)
永遠無限全能を知るには、自らが永遠無限全能でなければ不可能なので、自分の感覚、 意識、 肉体、心を永遠無限全能に変える修業をするか,あるいは、初めから何をしなくても永遠無限全能であることを知ることにより、目標を達成しようとします。

本当にこんな事が教えとしてあるのか、と疑われる方が多いと思います。
密教は、密の字のように、何かの理由で秘密にされてきたので、その教えは表にされず一般には広がってはいなかったのですが、近年、ダライ・ラマを始め、チベット仏教の僧侶達が、積極的に、仏教経典を各国の言葉で現代語訳にして広めてこられ、今では知っている方も多いのではと思いますが、その中で、密教は、これは釈迦の教えの一部であると言っています。

このことが、私なりの解釈を言い、このブログを書いている動機になっています。

そしてまた何故「永遠無限全能の存在を実現する方法や技法のことが、仏教の教え」などど、奇想天外な解釈をして、お話しを進めるかというと、
ダライ・ラマの教えはチベットの人には現実的かも知れませんが、 現代日本人には異国的ですし、今の日本仏教からのアナウンスは単なる人生の指針の教えのようですし、また科学は「死んだらどうなるか」には無関心のようですので、新しいアプローチで、仏教が新鮮に感じられ興味をもっていただけるのではないかと思ったからです。

本題に入る前に、全体を理解しやすくするために、仏教の大凡の構成をお話ししておきたいと思います。

チベットでは、仏教には、「顕教」「密教」「ゾクチェン」が有ると言います。
この分類で言うと
日本では、一般の仏教は顕教に、空海の真言宗などは密教、 禅宗は密教とゾクチェンの間ぐらい、 法然親鸞の浄土宗はゾクチェンの種類に入るのかも知れません。

そして、
顕教は放棄の道。悪しきカルマを放棄し、苦と転生を生む原因(煩悩)を滅すること。
密教は変化の道。不浄なカルマによる不浄な顕現(例えば怒りなど)を、瞑想と真言の力で本尊の清らかな顕現へと変容させる。或いは、外の宇宙を観想し、内(身体)の宇宙を観想し、その二つのものが一つになり、成仏すること。(即身成仏)
ゾクチェンは自己解脱。元々が清らかで空なる原初の境地を発見し、持続させること。
と分類されます。

しかし、何のことかチンプンカンプン。

今回もやはり長くて、後半は難しくなってしまいましたが、
次回は、努力してやさしく、これらが何を意味するのか、現代日本人の思考方法で言うと何を意味しているのかを、「死んだらどうなるか」を通じてお話しして行きたいと思います。