写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(1)

2012年02月07日 | 死んだらどうなるのか
「何故」、はじめから答えが分かっている「死んだらどうなるか」を考えようなどと思ったのか。?「何故」、そのために「永遠無限全能」などと荒唐無稽な言葉で、話を進めなければならないのか。?
このまま説明しないで先に進むと、本当に荒唐無稽な話に思われてしまうので、今回は、その「何故」を説明したいと思います。

現代日本では、 多くの人が科学を信じているので、死ぬと肉体は無くなる、だから人は死んだら無になってしまう。と、でも昔から、魂は残ると言われているが、でも魂の存在を科学は証明していないので、有るのか無いのか正直自分には良くわからない。
宗教を信ずる人は、宗教が言う死後を信じていると思うのですが、でもそれは、科学で証明されていないので、信じる気にはなれない。だから私は「死んだらどうなるか」は分からないでいる。
これが現代日本人の多くの人の気持ちであると思う。

宇宙の誕生や誕生以前、そして、宇宙の死とその後は、宇宙論として盛んに研究と議論が重ねられているのに、人間が「死んだらどうなるか」は、 科学者の知識も、死んだら肉体は消滅する程度のレベルで、それ以上の研究を見たことがない。
この科学の怠慢に疑問を抱かずに、科学を信じて、 死んだら肉体は無くなるので、人は無になってしまう。と思ってしまうことに、私は、昔からずっと疑問を感じていたのです。

幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためには、科学を始め、哲学、倫理、経済、生活の知恵、占い、おまじないに至るまで、多くの手段が準備されているのに、「死んだらどうなるか」については、宇宙論を展開する科学者といえども、宗教に任せっきりで、つまり生きている間のことには真剣なのに、現代人は「死んだらどうなるか」には何故淡白なのだろうか。

肉親を失い悲嘆にくれる人には深い同情を寄せるのだが、その悲嘆の原因である死んだ人が今どうなているのか、つまり「死んだらどうなるか」を考えようともしない。死は次に自分にやって来るかもしれないのに、「無」になってしまうという恐ろしい答えがわかっているので考えても仕方がないと思っているのだろうか。宇宙の誕生や死は、科学ではビックバンとか言って分かっていることになっているのに、人の「死んだらどうなるか」は、放ったままにされて何も知らされていない。

宗教に対しても誤解がある。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。のためにのみ宗教があると思っている。死んだら無になってしまうという結論が始めからあるので、宗教にも「死んだらどうなるか」より、現世での幸せの方法のみを求めているようなのだ。

癒しを与えてくれる宗教者を敬い、褒めたたえているが、その宗教者が何故、癒しを与えようとしているのかを知らないし、知ろうともしない。それを知ることが宗教の信心の始まりになるのに、現世の苦しみを和らげてくれる優しい姿をした宗教者のみを真の宗教者と思っている。

宗教は仏教は、誕生、生、死、死後を説明してくれている。そしてその生と死の輪廻から離れる方法(成仏)を教えてくれます。
癒しが必要になる苦しみを、癒すのではなく、苦しみそのものを元から断とうとするのが、お釈迦様の意図なのです。
もっと言えば、元から断つとは、苦しい楽しいの二元論を止める生活を始めることなのです。つまり、仏教は真に合理的なのです。

こんなふうにお話すると、「死んだらどうなるか」を、仏教で説明しようとしている理由を、少しはわかっていただけるのではないかと思いますが…。