70を過ぎると、余命の10余年より、「死んだらどうなるのか」を考える方が合理的である。と、前にお話ししました。それで続けて、「死んだらどうなるのか」を考えて来ましたが、そこで分かった事をお話ししたいと思います。
科学を信ずる人や無神論者は、死ぬと肉体が無くなる。だから死んだら無になってしまう。と考えています。死ぬと何もかもが無になる。とは、科学は研究を尽くし、本当は結論を出してはいないのにです。研究の怠慢で暗黙知のようになっているだけなのです。果たしてこれで良いのでしょうか。たぶん、無神論者は全部イコール科学信者ではないので、無神論者の方はこの暗黙知をぜひ考えてみてほしい。
キリスト教、イスラム教などの一神教は、死んだら神の審判により、「魂」に永遠の命を授けられるか地獄に堕ちるかのどちらかになります。どちらも聖書やコーランの教えを守るか守らないかが、判定の基準になりますが、聖書やコーランは、文字で書かれた言語思考そのものですから、同じ言語内の思考から発生する戒律、倫理、知識、社会の法律、規範、習慣などとつながっていて、社会生活と親和性が強く、今日我々が生きる社会での了解、つまり「言葉での理解が理解の全てになっている」ことと深くつながっています。つまり言語思考的正しさが、現世でも、死んでからでも求め続けられるのが一神教世界と言えます。一神教は何故言語思考を選んだのか?。一神教が選んだと言うより、言語思考が一神教を選んだのかも知れません。
また、言語内思考では「魂」の存在が設定されます。それがなければ二項分類(対立)の言語思考では、神と人間との区別がつかない事になるからです。(理由は後述します)
仏教、道教(タオ)、ヨガなどの東洋の宗教は、人間死んだら生まれ変わる輪廻転生の考えがあります。死んだら49日のバルト(中陰)を経て、何処かの女性の子宮に入り新生児として生まれ変わるという考え方です。キリスト教のように死ぬと「魂」に変化すると言うのではなく、肉体は初めから「縁」によって与えられたいわば借り物感覚ですから、借主は死んでも借主であり、輪廻転生は、生から切り離され後戻りできない死の過程などではなく、すべてが一連の現実的出来事のように進みます。今日「言葉での理解が理解の全てになっている」我々の感覚からは、死ぬと「魂」に変化しその魂が女性の子宮に入る。と説明された方が分かりやすく、現実、チベットの死者の書ではそれに近い感覚で書かれているので誤解するのですが、このブログと同様、死者の書も、言語思考で展開されていますから、説明は言語内思考のルールに従わざるを得ないのです。
つまり「変化」という概念が、言語思考のそれとは違っていて、でも、その説明を、東洋の宗教は、教典や説教などの言語でしなければならないところに矛盾があるのです。で、それは何かと問はれ、釈迦は沈黙を選び、禅では不立文字、空海は言葉では表現できないと言い、親鸞はただ念仏を唱えれば良いと説明しています。
また仏教では、死後の変化に、他に「成仏(解脱)」と言う方法があります。
輪廻とは、苦しみを伴う煩悩が生まれ変わってもなお残り、輪廻転生を続けている限り、生はその苦しみと煩悩から抜け出せない事を言います。そして、その終わりのない苦しみから抜け出す方法が解脱、つまり「成仏」なのです。
仏とは、永遠に苦とは無縁の存在ですから、輪廻のサイクルを断ち(解脱)、成仏すること。つまり自分が仏様になれば、苦しみから抜け出せる事になります。
さらに、死を契機にしなくても、即身成仏という生きながら成仏する方法もあります。生きながら仏に変化するとは?。我々人間は、蛹から成虫に変化する昆虫のような生き物ではないはずで、つまりここでも、変化の概念が言語思考とは違っています。言葉で表すと即身成仏と表現せざるを得ないのです。
また仏教には、往生する。つまり、死ぬと極楽か地獄に行くという考えがありますが、これも輪廻転生の一段階で極楽か地獄に行くということで、極楽は限りなく解脱に近づくだけで、キリストの神は天国にいても、その極楽に、仏は住んではいません。
もう一つ、不老不死という考え方があります。不死であれば死んだらどうなるかなど、考えなくもいい事になります。主に道教などが、不老不死を言いますが、生があれば死があって当然という概念は、言語思考の二項分類(対立)そのものであり、やはり「変化」の概念が違っていて、不老不死とは、それは昼の現実が夜の夢に続くような変化感なのです。また、成仏と不老不死が目指すものに大きな違いはなく、成就後に眺めてみたい風景の違い程度のように思います。
このように、古今東西、死んだらどうなるかを調べてみると、世界には他にも別のものがるかも知れませんが、次に分類できると思います。
1)死んだら無になる。
2)死んだら「魂」になり、天国か地獄に行く。
3)死んだら輪廻で生まれ変わる。
4)死んだら解脱し仏になる。
5)生きながら即身成仏する。
6)死なないで不老不死になる。
(1)の死んだら無になる。は、無になるのですから、去りゆく今生のために足跡を残す努力はあっても、死後の行き先の為には、努力をしないことになります。そして、他の分類は、すべて死に行く先のより良き境遇を求め様々な努力をする事になります。
「死んだら無になる」は、最終選択としてどうしようもない場合には残すとしても、「死んだら解脱し仏になる」「生きながら即身成仏する」「不老不死」のいずれかは、本当に実現したいものです。 その為には、成仏とは何か。不老不死とは何か。を次回は考える事になります。
科学を信ずる人や無神論者は、死ぬと肉体が無くなる。だから死んだら無になってしまう。と考えています。死ぬと何もかもが無になる。とは、科学は研究を尽くし、本当は結論を出してはいないのにです。研究の怠慢で暗黙知のようになっているだけなのです。果たしてこれで良いのでしょうか。たぶん、無神論者は全部イコール科学信者ではないので、無神論者の方はこの暗黙知をぜひ考えてみてほしい。
キリスト教、イスラム教などの一神教は、死んだら神の審判により、「魂」に永遠の命を授けられるか地獄に堕ちるかのどちらかになります。どちらも聖書やコーランの教えを守るか守らないかが、判定の基準になりますが、聖書やコーランは、文字で書かれた言語思考そのものですから、同じ言語内の思考から発生する戒律、倫理、知識、社会の法律、規範、習慣などとつながっていて、社会生活と親和性が強く、今日我々が生きる社会での了解、つまり「言葉での理解が理解の全てになっている」ことと深くつながっています。つまり言語思考的正しさが、現世でも、死んでからでも求め続けられるのが一神教世界と言えます。一神教は何故言語思考を選んだのか?。一神教が選んだと言うより、言語思考が一神教を選んだのかも知れません。
また、言語内思考では「魂」の存在が設定されます。それがなければ二項分類(対立)の言語思考では、神と人間との区別がつかない事になるからです。(理由は後述します)
仏教、道教(タオ)、ヨガなどの東洋の宗教は、人間死んだら生まれ変わる輪廻転生の考えがあります。死んだら49日のバルト(中陰)を経て、何処かの女性の子宮に入り新生児として生まれ変わるという考え方です。キリスト教のように死ぬと「魂」に変化すると言うのではなく、肉体は初めから「縁」によって与えられたいわば借り物感覚ですから、借主は死んでも借主であり、輪廻転生は、生から切り離され後戻りできない死の過程などではなく、すべてが一連の現実的出来事のように進みます。今日「言葉での理解が理解の全てになっている」我々の感覚からは、死ぬと「魂」に変化しその魂が女性の子宮に入る。と説明された方が分かりやすく、現実、チベットの死者の書ではそれに近い感覚で書かれているので誤解するのですが、このブログと同様、死者の書も、言語思考で展開されていますから、説明は言語内思考のルールに従わざるを得ないのです。
つまり「変化」という概念が、言語思考のそれとは違っていて、でも、その説明を、東洋の宗教は、教典や説教などの言語でしなければならないところに矛盾があるのです。で、それは何かと問はれ、釈迦は沈黙を選び、禅では不立文字、空海は言葉では表現できないと言い、親鸞はただ念仏を唱えれば良いと説明しています。
また仏教では、死後の変化に、他に「成仏(解脱)」と言う方法があります。
輪廻とは、苦しみを伴う煩悩が生まれ変わってもなお残り、輪廻転生を続けている限り、生はその苦しみと煩悩から抜け出せない事を言います。そして、その終わりのない苦しみから抜け出す方法が解脱、つまり「成仏」なのです。
仏とは、永遠に苦とは無縁の存在ですから、輪廻のサイクルを断ち(解脱)、成仏すること。つまり自分が仏様になれば、苦しみから抜け出せる事になります。
さらに、死を契機にしなくても、即身成仏という生きながら成仏する方法もあります。生きながら仏に変化するとは?。我々人間は、蛹から成虫に変化する昆虫のような生き物ではないはずで、つまりここでも、変化の概念が言語思考とは違っています。言葉で表すと即身成仏と表現せざるを得ないのです。
また仏教には、往生する。つまり、死ぬと極楽か地獄に行くという考えがありますが、これも輪廻転生の一段階で極楽か地獄に行くということで、極楽は限りなく解脱に近づくだけで、キリストの神は天国にいても、その極楽に、仏は住んではいません。
もう一つ、不老不死という考え方があります。不死であれば死んだらどうなるかなど、考えなくもいい事になります。主に道教などが、不老不死を言いますが、生があれば死があって当然という概念は、言語思考の二項分類(対立)そのものであり、やはり「変化」の概念が違っていて、不老不死とは、それは昼の現実が夜の夢に続くような変化感なのです。また、成仏と不老不死が目指すものに大きな違いはなく、成就後に眺めてみたい風景の違い程度のように思います。
このように、古今東西、死んだらどうなるかを調べてみると、世界には他にも別のものがるかも知れませんが、次に分類できると思います。
1)死んだら無になる。
2)死んだら「魂」になり、天国か地獄に行く。
3)死んだら輪廻で生まれ変わる。
4)死んだら解脱し仏になる。
5)生きながら即身成仏する。
6)死なないで不老不死になる。
(1)の死んだら無になる。は、無になるのですから、去りゆく今生のために足跡を残す努力はあっても、死後の行き先の為には、努力をしないことになります。そして、他の分類は、すべて死に行く先のより良き境遇を求め様々な努力をする事になります。
「死んだら無になる」は、最終選択としてどうしようもない場合には残すとしても、「死んだら解脱し仏になる」「生きながら即身成仏する」「不老不死」のいずれかは、本当に実現したいものです。 その為には、成仏とは何か。不老不死とは何か。を次回は考える事になります。