対米戦果に「痛快、壮快」…松岡元外相の書簡発見

2007-01-07 | 橋本徹馬
対米戦果に「痛快、壮快」…松岡元外相の書簡発見

橋本徹馬の著書:『日本の敗戦降伏裏面史』に拠ると・・

「最新昭和史事典」:
昭和16年4月16日、米国務長官ハルと駐米大使野村吉三郎に民間私案
『日米了解案』を交渉の基礎として提議(日米交渉開始)。

↑この私案とは、1941年(昭和16年)1月17日、
橋本徹馬氏とホンベック極東顧問が取り交わしたモノが
素案になっていると言う・・。

橋本徹馬氏は近衛文麿首相の密命でアメリカに渡り、
平和交渉をしに行った。
東條陸相
『「三国同盟」をアメリカはどう考えてるのかを聞いてきてくれ。』
と言っていたらしい。

交渉は“ある程度”いや、かなり上手く行ったらしいのだが
橋本氏が帰国すると、近衛東條も会おうとはしなかったらしい。

その理由は:

国内の独伊派の勢力が強くなり、その人々が、橋本の帰国後に
日本を親米に一決させてはならぬ!と、厳重な監視をしていたかららしい。
当時の拓務大臣「秋田清氏」が、独伊派を煽動していたという。

東條陸相も、その権勢を失いたく無い心境から、独伊派を抑え得なかったらしい。


この了解案が、日米国交調整の意見書として提示された時は
近衛文麿首相も東條陸相も及川海相も喜んだらしい。
『これなら難題の日米国交調整も必ず出来る!』と・・・。

ところが、この米国の穏健案に反対していたのが松岡外相だった・・・。

何とか周りの者がゴネる松岡を説得し、漸く回答書を送ったのが
修正案到着後から一ヶ月も経ってからの事であった・・・。

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