人生の快と不快を帳簿に付けて、
その貸し借りを決算するのは、
何を持ってはかるのがふさわしいか。
ハルトマンは「理性を持ってはかる」と言う。
でも『無意識の哲学』という本で、彼は
「快と苦は、心だけの問題だ」と。
とすると、何かが快であるかどうかは、
「感じる」という自分のものさしではかることになる。
そう。私の快・不快を帳簿につけて、
喜び・苦しみのどちらが多いかは、
「私が感じること」を基準にしてはかる。
それでもハルトマンは言う。
私たちそれぞれの生きる価値は、
私たちそれぞれが、主観的にはかるだけだ。
でも、主観的なものさしでは、
感情から適切な値段をはじき出すことにならない。
言葉を変えれば、
私が人生の中で下す総合判断は、
私たちが感じることだけでは下せない。
ハルトマンはこう言うことで、また、
この人生が幸か不幸か、快か不快か、
この人生を生きるに値するかどうかを
感情じゃなくて理性で考えて決めなければならない、
と言っている。
*注釈*
快と不快どちらが多いかを理性ではかろうとする人は、
はかる対象が、頭だけで考えたことについて
計算をしている、ということに気づいていない。
感情というものは、そもそも計算できない。
生きることを、本当にふさわしく計算するなら、
頭だけで夢見て数えたことじゃなくて、
実際に生きて自分が動いてしたことを見て取ることだ。
※
ハルトマンは悲観論。
彼が、人はなぜ生きないといけないのか
という問いに答えるとしたら、
「神の苦しみを減らすため」と答える。
自分の喜びのために生きる、ではない。
なんでそんなにブルーな考えなの?と思うけど、
そう考えなくては生きていられないほど、
彼の人生は大変だったそうです。
ふーん、そうなんだ。
ハルトマンがどんな人生を送ったかは知らないけど、
たとえば、家族は長患いで、お金も時間もなくて、
仕事がぜんぜん認められなくて、子どもはグレて、
自分の発言の意図を曲げられて政治に利用されて…
なんて、想像してみる。
なんでオレは生きてるんだ!と、
叫びたくなるような、しんどい日常があるとしたら、
生きる意味を自分の喜びに求めずに、
神のしんどさを肩代わりしてるんだ、と思う方が、
自分に誇りが持てるかもしれないなぁ。
「神」とか言うと、ちょっと現実味ないけど、
会社、とかならありそう。
現代なら、自分の幸せのために生きてるんじゃなくて、
会社のこの大変な局面を背負えるのはオレだけだ!
と、思うことは、たぶん、日常的にあるよね。
そうやってパワーが出るのはいいことだし、
それに助けられる人がいっぱいいるんだけど、
もし、そうやってて自分がしんどくなったら、
心が置き去りじゃないか確認が必要かもなぁ。
と、甘えさせてもらっている立場で言うことじゃないけど。
誰かに役立つって、すごく誇りが持てるだけに、
麻薬みたいにがんばってしまうから。
特に、管理職の人なんて、
上がれば上がるほど大変だものね。
快や不快は心の問題だ。感情は主観的だ。
そりゃそーだl
同じ1000円が、泣きたくなるほどありがたい時もあるし、
ほとんど何の足しにもならない時もある。
快と不快は、数字ではかろうとしても、はかれない。
でも、快と不快は心の問題だ、と言いながら、
感情は主観的なものさしだから、
それではちゃんとした答えは出ないから
理性で判断しなければならない、と言う。
心か、理性か、どっちやねん!?
と、思わずツッコミたくなります。
その貸し借りを決算するのは、
何を持ってはかるのがふさわしいか。
ハルトマンは「理性を持ってはかる」と言う。
でも『無意識の哲学』という本で、彼は
「快と苦は、心だけの問題だ」と。
とすると、何かが快であるかどうかは、
「感じる」という自分のものさしではかることになる。
そう。私の快・不快を帳簿につけて、
喜び・苦しみのどちらが多いかは、
「私が感じること」を基準にしてはかる。
それでもハルトマンは言う。
私たちそれぞれの生きる価値は、
私たちそれぞれが、主観的にはかるだけだ。
でも、主観的なものさしでは、
感情から適切な値段をはじき出すことにならない。
言葉を変えれば、
私が人生の中で下す総合判断は、
私たちが感じることだけでは下せない。
ハルトマンはこう言うことで、また、
この人生が幸か不幸か、快か不快か、
この人生を生きるに値するかどうかを
感情じゃなくて理性で考えて決めなければならない、
と言っている。
*注釈*
快と不快どちらが多いかを理性ではかろうとする人は、
はかる対象が、頭だけで考えたことについて
計算をしている、ということに気づいていない。
感情というものは、そもそも計算できない。
生きることを、本当にふさわしく計算するなら、
頭だけで夢見て数えたことじゃなくて、
実際に生きて自分が動いてしたことを見て取ることだ。
※
ハルトマンは悲観論。
彼が、人はなぜ生きないといけないのか
という問いに答えるとしたら、
「神の苦しみを減らすため」と答える。
自分の喜びのために生きる、ではない。
なんでそんなにブルーな考えなの?と思うけど、
そう考えなくては生きていられないほど、
彼の人生は大変だったそうです。
ふーん、そうなんだ。
ハルトマンがどんな人生を送ったかは知らないけど、
たとえば、家族は長患いで、お金も時間もなくて、
仕事がぜんぜん認められなくて、子どもはグレて、
自分の発言の意図を曲げられて政治に利用されて…
なんて、想像してみる。
なんでオレは生きてるんだ!と、
叫びたくなるような、しんどい日常があるとしたら、
生きる意味を自分の喜びに求めずに、
神のしんどさを肩代わりしてるんだ、と思う方が、
自分に誇りが持てるかもしれないなぁ。
「神」とか言うと、ちょっと現実味ないけど、
会社、とかならありそう。
現代なら、自分の幸せのために生きてるんじゃなくて、
会社のこの大変な局面を背負えるのはオレだけだ!
と、思うことは、たぶん、日常的にあるよね。
そうやってパワーが出るのはいいことだし、
それに助けられる人がいっぱいいるんだけど、
もし、そうやってて自分がしんどくなったら、
心が置き去りじゃないか確認が必要かもなぁ。
と、甘えさせてもらっている立場で言うことじゃないけど。
誰かに役立つって、すごく誇りが持てるだけに、
麻薬みたいにがんばってしまうから。
特に、管理職の人なんて、
上がれば上がるほど大変だものね。
快や不快は心の問題だ。感情は主観的だ。
そりゃそーだl
同じ1000円が、泣きたくなるほどありがたい時もあるし、
ほとんど何の足しにもならない時もある。
快と不快は、数字ではかろうとしても、はかれない。
でも、快と不快は心の問題だ、と言いながら、
感情は主観的なものさしだから、
それではちゃんとした答えは出ないから
理性で判断しなければならない、と言う。
心か、理性か、どっちやねん!?
と、思わずツッコミたくなります。
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