『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

私ってキュウリに似てる② 36/100

2021年09月13日 | 考える日々
2か月ほど前に、
窓の外の緑のカーテンを見ていた時、
「私ってキュウリに似てるなぁ」って思った。
顔じゃないよ、あり方が。

私ってキュウリに似てる①(2021/7/17)

キュウリは、
自立してる草木と違って、
きゅうりネットがないと立ってられないから、
ネット依存症だな、とか。
あ、オヤジギャグ(^^)。

自立していない状態は不本意だけど、
そもそも、一人で立てるわけじゃない、
ってことにも気づき。

インフラにも支えてもらってるし、
家族や周りのいろんな人にも支えてもらってるし、
何なら、古典や最先端技術や好きな曲や手仕事や…、
あらゆるものが私を支えてくれている。

で、だね。
「依存」ってことを考えてたんだけど、
たとえば、誰かの相談に乗ってる時、
その人「に」私が依存していることもあるよね?

その時は、そんなことカケラも思ってないけど、
その相談に乗ることで、
自分が必要とされていることを確認できる、
みたいなこと。

依存っていうと、悪いことみたいだけど、
「支え合い」っていうと美しい。
私もその人に相談することもあるし。

他に似た言葉で言うと、
「よりどころ」も依存と重なるところあるし、
「生きがい」とか「オタク」はどうかな?

どうも、「自立」はプラスで、
「依存」がマイナスみたいな印象があって、
どこまでが「当たり前」で、
どこからか「病んでいる」状態なのか、
その線引きも難しい。

信心とか熱狂的なファンも近いかも。
ファンが高じて、コンサートをハシゴする「追っかけ」、
さらに社会活動にまで広がる「オシ活」なんてのもある。

どこまでが真っ当で、どこからクレイジー?
その境目って何かなぁ?

…てなことを思いつつ、
ヒマな時間を、ヒマに任せて、
雨あがりの枯れかかったキュウリを見ていた。

窓の外のキュウリは、
「自分を支えるもの」としてネットを使ってる。
キュウリと一緒に植えてある朝顔は、
ネットからはみ出したところにも伸びていく。
ネットがなければ、ベンチの足でも雑草でも、
自分を支えてくれるものなら何にでもつかまって伸びる。

そっか。
ちょっとだけわかった。
まっとうな依存と、
病んでいる「依存症」の境界線。

キュウリや朝顔みたいに、
「自分を生かす、伸ばす」ための依存は、
真っ当な「支え」なんだろうな。
誰かのファンになったり、
何かを学んだり、人間関係を結んだり。

その先。
目的が「自分を失う、忘れる」方向に進みすぎると、
依存は、少しずつ「症」に近づいていく。
全財産を投じてしまうギャンブルとか、
日常の自分を忘れるための何かとか。

あ、こっちの依存は「支え」じゃなくて
「中毒」と表現してもいい。
アル中、ネトゲ廃人、ギャンブル中毒…。

まぁ、よく考えたら、
まるごとの自分を持ち寄って、
安心して提出できる場所や人間関係って、
結構少ないかもしれないけどさ。

キュウリみたいに、少しでも本来の姿で伸びていくために、
相手を見て受け取ってもらえそうなボールを選んだり、
自分を仮死させて相手を生かすことで、自分も生きる、
みたいな、綱渡り的ソリューションも駆使しつつ、
頑張ってるよね、私たちみんな!

本日のフォルメン 36/100



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