『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学5章14

2012年09月24日 | 『自由の哲学』

もうひとつ、例を挙げてはっきりさせたい。
石を投げてみれば、石は刻々と場所を移す。
その刻々と移る点を結べば、ひとつの線になる。
数学で習うさまざまな線の中に放物線がある。

私が習って知るところでは、
一点がしかるべき動きをして、放物線ができる。
石がどんな条件で動いたかを調べると、
その動きの線が、
私の知っている放物線と同じように動くのがわかる。
石が放物線を動いたことが、特定の条件から、導き出される。

放物線の形は、見てとられる他のいろんなものと同じく、
現象のひとつである。

先に挙げた精神(パッと見て物事の考えもパッとわかる精神)には、
見た目の石が刻々と場所を移すのもひとつの現象だ。
私たちが見て考えて付け足す放物線の形も
そういう精神からしてみれば、
石が動いているという現象と切っても切れないひとつのものだろう。


でも、人はそういう精神を持ってないんだよな。
見ることと考えることを別々に行わないと、
そのものの持つ考えには至れない。

特定の形、特定の重さの石を、特定の角度、特定の力で投げれば、
その石が描く放物線は、毎回、決まっている。
その放物線は、人が勝手に考えて決めつけているんじゃなくて、
物事に沿って考えていると言える。

ただ、その放物線は、いくら目を凝らして見ても、
超高速度カメラで連続撮影しても、点にしか見えない。
そのそれぞれの点は、考えることで、
「放物線」という考えになる。

毎日の最高・最低気温を記録していても、
単なる数字の記録にすぎないが、
暑い日に「暑いな~、セミ鳴いてるな~」と考えてみることで、
それが「夏だ」とわかる。

って、当たり前だけど、考えるってスゴいな。


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