『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

手で見る美術展にて

2015年10月23日 | 考える日々

もうひとつ、美術館にて。
常設展の最後の部屋に
「手で見るアート」の部屋があった。

気づかずに出口を聞いたら、学芸員さんに
「ぜひどうぞ」と手で指し示して案内された。
天井から糸がたくさん下がっている部屋。
なんだなんだ…?

近づくと、入り口近くの学芸員さん2人がサッと立ち、
「見るだけか、実際に触るか」と聞く。
そりゃ、手で見るアートなんだから、触るでしょ。
「せっかくですから、触らせてもらおいます」と答える。

そしたら「鞄をここに置け」だの、
「アクセサリーを外せ」だの、
「手で持っているチラシはポケットに入れろ」だの、
あれこれリクエストされる。
最後には「コレで手を拭いてください」と
ウエットティッシュまで渡される始末。

このシュチュエーションは、
まさしく「注文の多い料理店」ではないですか!
私、食べられちゃうですか(^^;)?

と考えると、ちょっと楽しくなってきましたが、
さて、アホはことはこのくらいにして。
早速、目を閉じて、全身で向き合ってみる。

手を伸ばし、天井から延びる糸と戯れる。
手を伸ばしてユラリと回ってみたり、
手をのばさずに、顔と体で感じてみたり。

何かが物質として周囲に触れる、この安心感!
赤ちゃんにおくるみが必要なのは、コレかも!

試しに、糸のないところでも目を閉じて立ってみた。
とたんに、より所がなくて不安になり、
身動きが取れない。
「何かないか」と手がかりを探して手を伸ばしていた。

一人では成り立ってないのかもしれない。
「私はここに居ます、これが私です」って、
宇宙の真ん中で無に向かって吠えても仕方ありません。
やはり、賛成でも反対でもいいから、
受け止めてもらわなきゃ始まらないのかもね。

それとは別に、彫塑が3つ。

女性像は、目を閉じて触っても、
何が何かわからない。
触覚で全体像を捉える難しさ、
いかに視覚に頼っているか、を実感した。

もう一つは、遠目には、どうやら鳥のようだ。
どんな感じが浮かぶのか、味わってみたくて、
あえて目を閉じて近づき、手で触って見てみる。

鋭いくちばし、丸い体つき。
「カラスだ!」と思って目を開けると、
「鳩」と書いてあった…。
わかんないものだなぁ。

鳩は平和の使者で、カラスは悪の使い、
ってイメージがあるんだけど、
両者の決定的な違いって、何だろ??
色? 大きさ? 食べ物? わかんない。
触ると一緒だったんだけどね。

そして、3つめ。これがスゴイ!
めちゃくちゃ奥まった場所であり、
学芸員さんの座っている場所の間近にポツンと
なんと、ロダンの「痙攣する手」という彫塑が!!

ロダンだよ!ホントに触っちゃうよ!
めちゃくちゃコーフンしていたので、
目を閉じてどう感じるか、の前に、
プレートを読んでしまったのでした。
188?年(←忘れた)制作の、大きな手。

ゾクゾクしながら、握手する。
これは、アナタの手ですか?って思いながら。

「130年ぶりに私が暖めてあげよう」と思って、
ウフウフしながら、ず~っとず~~っと触ったり、握ったり、
指一本一本をなで回したり、爪をなぞったり、
お近づきになろうと、あれこれしたのだけれど、
ブロンズはちっとも暖かくなってくれなかった。

それでも、タイトルが「痙攣する手」。
あんなに力強い彫塑を作りながら、
思い通りに作れないことなんてあったんだろうか。
ロダン。おおロダン!

ロダンだって、確かに生きて喜怒哀楽を感じていたはず。
誰かに暖めて欲しいことだってあったでしょう。
クローデルさん、あなたは隣にいて暖められたのでしょうか。
私では、近づくこともできませんでした。

今度は、高村光太郎の「手」と握手してみたいな。
あれも、畏れ多くて暖められないだろうな。

巨人たちが残したあれこれ。
彫塑であれ、言葉であれ、音楽であれ、
彼らは、自分にまっすぐに、自分のできることをした。

それが、時間を越えて輝き続け、
私が心を向けて開きさえすれば、私に届く。
私の中で、それらが生き続け、私に語ってくれる。
そして、私が誰かに語る。

一人が自分にまっすぐできることをするって、
なんてすごいことなんだ…。

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