『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学12章_18段落_1

2015年10月24日 | 『自由の哲学』
この観点から見て、先にふれた二つの間の違いはどうなるか。
つまり、次の二つについての違い。
1、自由だとは、やりたい放題できることだ
2、何をしたいのか自分で決められるなんて幻想だ

ハマリングの自由な欲するの見解は、
この二つの違いに基づく。
つまり、1を肯定し、2をバカげた同語反復とする。

ハマリングは、
「私はしたいようにすることができる。
でも、私が何をしたいのかを自分で決められる
というのは、嘘だ」と言う。

私(シュタイナー)が、
したいようにすることができるかどうか、
したいことを実際に行動に移せるか、は、
外の世界との兼ね合い、および
私の道徳のテクニックの習熟度合いにかかっている。


自由には「したいようにしたいことをする」という段階がある


それが第1段階。
ワガママなお子さまの段階。

それを実現するかどうかは、
外の世界との兼ね合いが大きな要素になる。
たとえば、幼い子どもならママに泣きつくとか、
大人なら、感情を爆発させて相手を怖がらせる、とか
泣き落とす、とか、地位があるなら部下を説得する、とか。
ま、強制すると、パワハラって言われるけどね。

いずれにせよ、この外の世界とのつきあい方で
思い通りに出来るにしても、この品性のあり方は、
「自由っていいな」「自由に向かって生きよう」
とは、ま~~~ったく思えないあり方だなぁ。
自由って、もっと気高いはず。

では、本当に自由であるために、何がいるのか、
18段落を続けて読んでみます。


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