『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章2段落_3

2016年09月06日 | 『自由の哲学』

考えることは、一人ひとりバラバラな覚えを
ひとつの同じものに近づけ、導いていく。
考えの世はひとつ。だけど、
覚える人ごとに違う覚えを、いろいろなあり方で与える。

人は、自分だけの覚えに執着している限り、
自分を一人きりの人にしか見えない。

だけど人は、自分の中にうっすら感づいている
一人ひとり違うみんなに共通する世に注目すると、
自分の中に丸ごとの世界が
生き生きと見えてくるのを感じる。

二元論は、すべての人に共通する世の基礎を
神々しいあっちの世界にあると決める。
一元論は、その神々しいものを、
あっちの世界じゃなくて、この世界の中に見いだす。

誰かの考えは、また私の考えでもある。
その考えの内容を、私の考えとは違うと思うのは、
私が考えることなくただ受け止めているからだ。
私が考えてみれば、それが自分たちの考えになる。


覚えは一人ひとり違うけど、
考えたら、みんな同じ所にたどり着く。
っての。ホント~??

普通は、
見えるものはみんな同じだけど、
考えは、みんな違う、って言うよね

誰が見ても、さいころの目は4に見える。
だけど、丁半どちらに賭けたかによって、
それが喜びになったり落胆になったりする。
…って、それ、考えてないか。反応だな。

えーと、考える。
考えるって、もっと広いことだ、きっと。
自分に固執しないんだ。
自分の損得なんかはるかに越えて、
ず~っと遠いところまで羽ばたくものなんだ。

自分の体や損得を越えて考えてみる。
人は、自分の望むサイの目を出すことは出来ない。
誰でも期待通りになれば嬉しい、外れればがっかりする。
期待している時の高揚感は何とも言えない。
俺たちは損したり得したりだけど、胴元はいつも儲かる。
などなど…。真実が少しずつ見えてくる。

考える時、いつも自分から始めるけど、
自分のことだけ考えてるわけじゃない。
そんな小さいことじゃなくて、
世のことわり、人間のホントウを考える。

せっかく考えた考えが、
空疎な理論だけのことに陥らないために、
地肉の通った自分の実感から始めることが大切で、
それに沿ってジブンを動かすことで、
それがさらに真実に近づくってもんです。

それを妨げているのは、
何か外なるものではなくて、
ジブンの勇気や勤勉の欠如です。

それでいいんだけどね、ジブンのペースで。
それだけじゃ、すんごく不自由だから、
今、無理せずにできることって
アレとコレだな、って考えてます。

それができることは、とても自由(^^)/


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