豊中は、箕面、千里から下りてきて神崎(淀川)に至るひらぺったい土地です。
旧い遺跡なども散在していて利便性の高い土地だったことでしょう。
ただし、それほど規模の大きいものはなかった、あるいは重要性は認識されていなかったというようなことでもあるんですかね、一定規模があって原形をとどめているものは失われているようです。
残っているものの一つ、今西家住宅を観てきました。
ここも往時そのままということはありません。
ただ、ただもんじゃね~感は目一杯ですね~
奈良にも同じ今西家というものがあるので分家筋かなにかと思ったら、関係はないようです。
目代さん、つまり本家名義による現場管理長、その代理とでもいうところですかね。
奈良春日社の有力荘園を管理する役職にして神主とのことです。
徴税、治安維持も担っていて、ま~小さな城ということでもおかしくないような・・
戦国大名に当てはめれば前身である守護、その守護代というところでしょう。
守護代は下克上により戦国大名化した者が多数(織田も武田も長尾も・・)ですが、ここの目代さんは強勢独立ということはなかったようです。
また、有力大名とも婚姻関係を持つような家柄だったようです。さすが中臣氏(あの鎌足さんち)の末裔さん。
何代目かの当主に光秀の娘が嫁いでいました。
本能寺事件発生、これに伴う山崎合戦緊急事態。
“今ちゃん、ウチ来るよな?”
“ムムム・・義父(とう)ちゃんの一大事とあらば・・・”
そう言ったかどうか、また、関係があるのか当主の弟が明智方で参陣します。
秀吉激おこ、“おのれ目代、赦さん! 所領没収じゃ~!!”
となったが、江戸期に再興、明治期に再度廃止ということのようです。
立地は服部空地方面から流れてくる天竺川沿い、と言ってもこの川は天井川であり、その堤防のために河川を意識しません。
堤防道路と斜路。この坂道が”天井”の度合いを示します。
法面には複数の仏様を祀ります。経塚もあります。川への畏敬でしょう。
平地なのに異様にまっすぐな川、河川改修の結果ですね。
越水、破堤があれば水浸しとか・・・昔も今も危険な川のようです。
ほど近く萬歳山松林寺というお寺があります。
今西家と縁があるようですが、そのような説明板は見かけません(or見つけられません)でした。
川の対岸、住吉神社の長い参道です。散歩から帰ります。
なお、記事中あえて服部緑地のことを服部空地と書きました。
調べてみてびっくりしたからなんですが、現在は緑の確保という観点もあるんでしょうけどもともと「防空緑地」、つまり空襲に際しての避難場所、
延焼防止のための空間として指定(昭和16年)されたようです。空襲を想定していた・・きなくさい空気の現場だったんですね。
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