“・・平成最後の○○” というのをちょくちょく見聞きする気がする。
大半は努力してそうなったということじゃなく、ただ単に時が流れてそうなった・・というだけのことだろうけどね。
しかし、これは余裕が持てて非常によいことだと思う。
30年前、それこそ最後の昭和などというのは言葉にできなかった。
テレビをつければ“本日の陛下、下血〇ml、体温〇度、脈拍・・”というテロップが流れていた。
年末に向け忘年会も歌舞音曲の自粛という実質禁止措置がとられ、通りも閑散としていたと思う。なんとも気の重い時期だった。
明けて新年、陛下の容体はますます重篤になったのかな? はればれとした年明けではなかった。
そして1月7日、この日は土曜日だった。通勤電車の中で携帯ラジオを聞いていると崩御の報が流れた。
当時は携帯電話さえ珍しく到底一般的とは言えなかった。企業の連絡用にショルダーホンとか配備してるところがあったかと・・つまり、“スマホで見た、知った”というのはあり得ないころだった。
駅に下り、会社までの道すがらひそひそ話程度に話が聞こえる。
なぜひそひそ・・この頃は“半ドン”という語が生きている時代で、土曜日はお昼で仕事を切り上げていた所が多かった。
勤務先も半ドンだったのを1日勤務として隔週休日にしたてだった。他の会社もそういうのが多かったんじゃないかと思う。
そして正月から初の土曜で通勤の人出は少なかった。それでひそひそとしか聞こえないくらいだったのだ。
30年経っても忘れないこともある。
こういう状況を見据えてか、開いている飯屋が少なく、材料仕入れの量も難しかったとは思う。 翌日曜は休業だし・・
頼んだランチが出てくると、とてもまともな食事と言えなかった。
残菜の寄せ集め、ごはんもちょっぴり、こんなんだったらオーダーのとき断れよ!というレベル。
食べ終えた客との差歴然、値段は一緒、食い物の恨みは深い。
昭和天皇の崩御というのは、お人柄なのかできるだけ静穏にという想いのなせることだったのかもしれない。
出来過ぎてて “ほんとか?”と疑いたくなった記憶もある。
当時は、元号は生活・仕事と密接だった。日付の補充は昭和が印刷済、数日後には消し線の上に平成と書いたゴム印が売り出されたほど・・
大変不謹慎なことだけれど、“やっと長い夜が明けた”と感じた方も多かったんじゃないだろうか・・?
そんなことを目のあたりにして今上天皇は、いつのことか予定できない自分の崩御を以て改元というのを避けたいと真剣にお考えだったのかもしれない。
”もうしんどい” はおまけ。
自分自身は次の次の改元の折には、もう何にも関心を持てない身になっているか、最悪この世にいないかもしれないね・・
現元号への改元の年、妻を娶り、冬には娘を授かった。自身の家庭の始まりの年だった・・