風がさわやかです。
こういう感じを緑風とか薫風とかいうんですかね。
雨があったせいか、花粉、黄砂なんかも気にならないレベルです。
・・病気かも・・・
こうなると・・じっとしてられないんですね。意識はしてないんですが、放浪癖があるかも、と・・ 齢行ったら 放浪⇒徘徊 にならないか心配!
・・っと、小1時間もあるとメシついでにチャリ出してみます。
田んぼに蓮華草が咲いています。(今西家付近)
蓮華草ってのどかな感じします・・って、あまりしない・・・れんげ草と書けばいいのかな?
チェーンのうどん屋さんが見えました。
ん? その手前に長崎ちゃんぽんがあります。今日はここだな。
最初の思いどおりちゃんぽん注文。
素人かな? そう思うくらい。野菜の芯まで炒まっていない、スープも油浮きがなく頼りないくらいの塩気・・ それがいいんですね(^^) 気に入り気に入り!
ランチやその他料理もかなりのボリュームです。
ほんとはそっちに行きたいんですが、・・基礎代謝低いし・・運動してないし・・貯金は貯まらんけど、体にばかり貯金しちゃアカン言われるし・・ とほほですわ(;´д`)
風を感じながら少々大回りで帰ります。
緑陰があって少し汗ばむ程度で済みます。
豊中は大きく見るとひらぺったな土地なんですが、部分で見ると結構な起伏があるんですよね・・大阪のベッドタウンとして新しい住宅の密集がある一方、昔からの村落、お屋敷を残しています。
いかにも大店という感じです。
いい雰囲気の通りです。電柱が無ければもっと・・
池に出ました。ごつごつしてるのは・・・亀さんですね。アカミミ?
お寺が見えます。枝はさくら、先週か、今年はもっと前、いい風景だったろうな・・
行ってみましょう。
お寺さんは利生山興法寺とある。立派な門構え、武家屋敷に見えます。
ん・・! ちょっと険しいことが書いてありますね。
超大雑把にでたらめ縮約してみます。
“法然上人が神崎に立ち寄った際、現在の尼崎市今福の一郷守護をしていた源経基の子孫が教化を受けて歓喜、一宇を建て、その翌年お礼に上洛した。上人により御法を興した法師として興法寺という号を賜った。”
ここからが「ん!」ですね。
“その後天正二年顕如上人が法敵信長と合戦した際、顕如に加勢したため、信長激オコ、軍勢を差し向けてきた。当主父甲冑を帯びて勇戦したものの利あらず戦死敗退、堂宇も焼かれた。”
ここにも信長の影があるんですね。豊中は今西家といい、反織田地域だったようですね。
碑文は、“顕如と信長の和約がなり、落ち着いてきたので堂宇を再建でき、今につながる。”と続きます。
いつの世であっても武力の行使が当たり前という時代ってほんと恐ろしいです。
因みに 「源経基」
源氏に二十一流が知られますが、著しく栄えた清和源氏の祖らしいです。
頼朝も義経も、足利氏も武田氏も清和源氏、その他有名人物多数。
清和源氏は清和天皇の皇子、後の陽成天皇の弟皇子からの流れとされていますが、実際は陽成天皇からの流れとする説もあるそうです。
なにせ正確な戸籍のない時代ですから言ったもん勝ちで通じたんでしょう。
ま~実質の大きな違いないから・・と立証されたとしても 清和源氏→陽成源氏 の言い換えは起きないだろうとも(現に陽成源氏もある。)。
天皇の名前は諡号・追号、要するに生前のお姿に応じて贈るもののようです。
「陽成」の“陽”は、隋の煬帝の“煬”に通じるところがあり、必ずしも良い意味ではないと聞いたことがあります。
事実か冤罪かは別として陽成天皇には暴君だったという説があり、清和源氏一族が“祖”であることを嫌ったのでは・・? ということらしいです。