前回は、『他国と日本では戦争観が違う』ということで終わりましたが、このことに触れる前に、
その前のテーマ、『歴史は、事実につじつまを合わせることで見えてくる』の、続きを書かせてください。
よく言われている左翼的歴史観には、洗脳に近いものがあるように、私は思います。
史実、もしくは世間でそう言われていること。そう教わったこと=歴史・・・で、思考停止していると思います。
「それは違いますよ。」と、私は言いたいのです。
歴史というのは、過去の出来事です。
ですので、歴史というのは、一度確定すれば、もう評価は二度と変化しない・・・
と思われ勝ちなんですけど、実は違います。
歴史ほど新発見のあるものはない・・・これが真実です。
どんどん新しい文献などがでてきますので、そのたびに評価が変わるのが歴史です。
ですので歴史ほど、評価の確定が難しい学問はありません。
しかし、こと日本の戦前・戦中の評価については、思考停止状態にある人が、日本では多いのではないでしょうか?
戦前日本侵略国家説のみが語られ、それと違う意見を持つ人は、すぐに軍国主義者のレッテルが貼られてしまいます。
これは一種の信条であり、イデオロギーなのではないでしょうか?
史実の数が多いことは、歴史の評価の対象にはなりません。
それは、史実は強い者が書くからです。
そして、書こうと思えばいくらでも書けるからです。
たとえば、
北朝鮮の国内においては、首領の金一族を讃える史実で溢れかえっているはずですね。
しかし彼らが、本当に国の良き指導者なのかどうかは、検証する必要がありますよね。
その上で、評価を下さないと間違った判断になりますよね。
金北朝鮮総書記を讃える史実は、ものすごい数になるから、金総書記一族は偉大な政治指導者である・・・
とは、決して言えない訳です。
そしてよく、当時を知る人に直接インタビュー・・・などもやってます。いわゆる、証言です。
これもよくよく注意しないといけません。
一定の真実は含んでいるかも知れませんが、参考程度にしかならないです。
主観が入りすぎているし、歴史的真理のすべてを語れてはいないし、
編集できますから情報の公開のところで、いくらでも操作可能です。
そしてこれが大事なのですけど、
証言は史実と同様、たとえ嘘であろうと、いくらでも言えるからです。歴史的真理の評価という点では、むしろ妨げになることが多いです。
たとえば、病院に担ぎ込まれた患者さんが、医者にこう言ったとしますね。
「痛い痛い!!さっき、転んだ時に足の骨を折った!」
こう患者さんが訴えても大抵の医者は、話半分しか聞いていません。
患者さんの訴えだけでは、真実を見逃すかも知れないからです。
ですから医者は、きちんとレントゲンなどの検査をした上で、総合的な判断をしますよね。
ねんざや打撲の可能性だってあるわけですから・・・。
痛いのは真実でしょうけど、それが骨折によるものか、その他の原因なのかは、検査をしないとわかりません。
その検査結果と、その考察の上、診断と治療方針の決定が必要です。
骨折とねんざでは、痛い・・・ということは同じでも、治療方法が全然違ってきますからね。
歴史の考察も、これと全く同じなのです。
身近な例で言うと、二酸化炭素温暖化説というのがありますね。
これを歴史的に評価する場合はどうするか。
皆様、グリーンランドをご存じですよね。北大西洋の、氷河に覆われた島です。
ここがなぜ、グリーンランド、直訳すると「緑の大地」という名前なのでしょうか?
それは、約1000年前にバイキングが発見したときには、緑の大地だったからです。
バイキングは肉食なので、ここでトナカイなどを放牧し入植しておりました。
しかし寒くなって氷河に覆われたので、バイキングはこの島から去りました。
1000年前は、今よりも暖かい気候だったのです。
これは日本にも当てはまります。
平安時代は温暖で、食べ物が豊富で、貴族文化が栄えました。
しかしだんだん寒くなり、食べ物が採れなくなって争いが増え、武士の時代となるのですね。
これらの事実から導き出される真実は、
確かに地球の平均気温は、近年急激な上昇をしているのは事実だが、それは二酸化炭素が原因ではない
ということになってしまうのです。
1000年前に、今よりも二酸化炭素量が多いはずがないからです。
この二酸化炭素のように、山のような史実、大多数の証言よりも、たった一つの真実の方が重要なのです。
それには、緻密な歴史的検証が必要です。
元慰安婦が、大騒ぎしようが、隣の国が国家をあげてキャンペーンしようが、全く関係がないのです。
さて前回、
『歴史を読見とるには、つじつまが合うことが重要だ。』
と、述べたところで終わりました。
歴史というのは文献、すなわち史実を研究するものです。
史実ではないものを対象とするなら、歴史ではなく、考古学や神話研究など、他の分野になるはずです。
実は元史料(史実)の方には、後世の者にとって大事な情報というのは、
欠落していることが多く、はっきり言って、あまり役には立ちません。
先の記事で書いたように、肝心な所が、わからないことが多いのです。
日常的過ぎて、当たり前すぎること、至極当然過ぎることは、人は書く必要すら思いつかないからです。
史実をもっとキツイ言い方をすれば、雑史料なのですね。
まあ、流れと登場人物だけは、はっきりとしている・・・。そんな程度であります。
史実につじつまを合わせようとすれば、つじつまが合わないことだらけになるのが歴史・・・
そういうものなのます。
なぜなら、歴史は勝者が書くものだから です。
勝者に都合の良いように、書かれているのが史実だからです。
ですから、どうしてもつじつまが合わなくなるのです。
つじつまが合わないことは、歴史的真理ではありません。
真理はいつ何時、誰から見てもすっきりシンプルに、整合性を持っているものなのです。
歴史であっても、そのことに違いはありません。
では、何が大事なのか?
何に、そのつじつまを合わせれば良いのか?
ということですね。
それは・・・
【事実】につじつまを合わせることをすれば、色々なものが見えてくるのです。
歴史は史実の研究であり、史実の連続のように誤解され勝ちですが、そうではありません。
事実の連続が歴史なのです。
ですから、追求するべきもの、目で追うべきものは、事実のみです。
たとえば、よく左翼的な歴史観で言われる言葉として、
「日本は明治の開国以来、近隣諸国と戦争ばかりしてきた、好戦的な国家である。」
というフレーズがございます。
確かに、日清戦争~太平洋戦争終結の期間というのは、ほんの数十年の出来事ですが、
その間は、大正時代の前後を除けば、ほぼ戦争の歴史でした。
しかし他の期間は、戦争は全く行っておりませんね。
先の大戦からでも、もう60余年経過しておりますが、それだけの期間戦争や、
軍事的衝突のない国家というのは、日本以外に果たして存在するのでしょうか?
そのような長期間、軍事的衝突すらない国家というのは、日本以外には、ほんの数カ国しか世界に存在いたしません。
大国では、日本のみであります。
日本人が本質的に好戦的な民族であるならば、そのような長期間に渡って、
果たして平和を、享受することで満足できるのでしょうか?
ましてや自衛隊という、はばかりながらも軍事力を持ちながら、その現実的な兵力を、行使しないでいられるのでしょうか?
昭和20年8月15日に、昭和天皇の詔(みことのり)があり、日本は敗戦した・・・
となっております。
ですがそれは、日本の天皇が一方的に、自国民に対して、戦闘終結を呼びかけたに過ぎません。
実質的、歴史的な終戦は、調印式が行われた翌月に入ってからなのです。
しかし、全アジアに散っていた日本軍は、昭和天皇の詔を聞くや否や、ただちに戦闘を終結し、日本に帰還し始めました。
これは凄いことですよ。
見事な、そして歴史的な撤退です。
普通はどこかで、戦火が続くものなのです。
また、連合軍総司令官としてマッカサー元帥が来日し、そして長期滞在した後も、テロ騒ぎ一つありませんでした。
今も止まない、イラクの自爆テロのようなことは、日本では皆無だったのです。
好戦的な民族、血に飢えた野蛮な侵略者たちが、このような規律正しい行動を、国軍挙げて実効できるのでしょうか?
私は、無理だと思います。
これは、史実がなんであろうと、左翼的なイデオロギー組織がどんなキャッチフレーズを作ろうと、
戦前の日本軍には、きちんとした秩序と、礼節と分別があった証です。
これが、事実につじつまを合わせる・・・の例ですけど、むしろ、当時そして明治以降の日本においては、
本当は戦争など、したくなかったのではないか・・・
と思われる節があるのです。
それは私のある仮説からきている、いわゆる『つじつま合わせ』なのですけど、
日本と、その他の国々では、戦争に関する一般的な見解が、そもそも違うのではないか・・・
と、私は思っているのです。
日本と世界には、戦争観の見解に、大きな相違があるのですね。
でないと、つじつまが合わないのです。
このことを、多くの日本人は気付いていないと思います。
なぜなら、日本にいると、日本の考えが当たり前過ぎて、わからないからです。
その違いとは何か。それは・・・
世界の国々にとって、戦争とは即ちビジネスである・・・日本とは違っている・・・ということです。
私は一歴史ファンです。ですので歴史の記事を書いておりますが、全くの素人見解ではあります。
しかし、その市民感覚こそ、この日本に巣食う自虐史観を、克服できるのだと思います。
まず最初に申し上げなければならないことは、
歴史とは、その研究は文献によって行われるのが主流ですけど、この元文献の多くには、
歴史的に本当に大切なことは、書かれていないことが多いということです。
大事なことを書いているから、研究に値する・・・と思われがちなのですが、
以外に、後世に残すべき情報、後世の人たちがその時代を研究するのに、本当に役立つ情報というものは、
歴史的文献などには、ほとんどの場合、書かれていないものなのです。
歴史の場合、それが当たり前だと思わなければなりません。
たとえば、私たちが、『なぜ、太平洋戦争がおきたのか・・・』ということを知りたいと思った場合、
その当時の日本人が、『なぜそのような判断をしたのか。なぜ当時の行政が行った判断に、多くの国民が従ったのか・・・』
ということを知りたいのですが、それらは文献には書かれていないのですね。
それはなぜか・・・それは・・・
その当時の日本人なら当たり前すぎて、敢えて書き残すには、値しないものであるからなのです。
今でも、ニュースに出るような情報というのは、変わったことであるから、ニュースソースになりますね。
しかし、極々当たり前のこと、日常的過ぎることは、ニュースとして扱われませんよね。
これと同じことが、歴史的文献の中にも存在しているのです。
しかし、本当に知りたい情報とは、
得てしてこの、【 その当時の、その国や地域での当たり前 】なのですね。
この当時の当たり前によって、多くの大事な判断はなされているものだからです。
仏教の仏典の中には、以外にも、霊的な話は少ないと言われます。
それは、仏陀釈尊在世中のインド地方というのは(今もそうですけど)、人々の極めて信仰心が厚く、
霊界があるということ、霊的なことというのは、人々の間では、至極当たり前のことであったからなのです。
お釈迦様は、それらの環境を前提に、弟子や衆生に説法なさっていたのですね。
ですから、仏典の中では、幽霊話などはほとんど出てこないのです。
またたとえば、現代小説などで、
主人公が家に帰ってきて、部屋の明かりをつけた・・・
と書いてあれば、同じ時代、同じ地域に住む人々なら、
「ああ、蛍光灯のスイッチをいれたのだな・・・」
と、推測したり、思い描いたりするのですけど、
この文章を、未来に生きる人で、蛍光灯も電気エネルギーでもない、全く別のテクノロジーで生きている人たちには、
蛍光灯も電気エネルギーシステムも、スイッチすらも、全く想像が付かないわけです。
「で、この主人公は、一体どうやって部屋に明かりをつけたのか???」
となる訳ですね。(笑)
しかし、現代社会の中で生きている現代の小説家にとっては、
部屋を明るくする蛍光灯のことも、蛍光灯を明るくするための電気のことも、蛍光灯をつけるためのスイッチのことも、
小説の中に書くはずはないのです。
なぜならそれは、その時代、その国における 【当たり前】 だからです。
このようなことは、歴史では日常茶飯事であり、それを前提に読まないと、
ただクソマジメに字面だけを追っていると、とんでもない判断ミスをしてしまうものなのですね。
学者の方というのは、専門領域があるので、どうしても視野が狭く、融通の利かない人たちが多い傾向があると思います。
(学者の方がいらっしゃったら、ゴメンナサイ。^^;)
ここは気を付けないといけない、とても重要なポイントなのです。
要するに、歴史というのは、モザイクだらけなのです。
では、このモザイクだらけ、隙間や節穴だらけの歴史を、正しく読み取り、
現代に正しい教訓とするには、一体どうすればいいのでしょうか。
それは、詳細は次回以降に譲りますが、一言で言えば、実は、
つじつまがあうこと・・・なのです。