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※「:」は、節を表す記号の代用。
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【里人の登場】
アイ「かやうに候ふ者は、
篠原(しのわら)の里に
住居(すまい)する者にて候、
ここに遊行(ゆぎょう)十四(じうよ)代の
流れ他阿弥(たあみ)上人、
この所に御座ありて、
毎日ありがたき説法の御座候ふが、
日中(にっちう)の前後に
独言(ひとりごと)を仰せ候ふあひだ、
篠原の面々不思議なりとの
申し事にて候、
それがしはお側(そば)近く
参る者なれば、
不審なく申せとのことにて候、
今日も日中過ぎに参り、
このことを尋ね申さばやと存ずる、
今日も上人の独言を仰せ候はば、
こなたへ知らせたまはり候へ、
その分心得候へ、心得候へ
アイ「かやうに候ふ者は、
篠原(しのわら)の里に
住居(すまい)する者にて候、
ここに遊行(ゆぎょう)十四(じうよ)代の
流れ他阿弥(たあみ)上人、
この所に御座ありて、
毎日ありがたき説法の御座候ふが、
日中(にっちう)の前後に
独言(ひとりごと)を仰せ候ふあひだ、
篠原の面々不思議なりとの
申し事にて候、
それがしはお側(そば)近く
参る者なれば、
不審なく申せとのことにて候、
今日も日中過ぎに参り、
このことを尋ね申さばやと存ずる、
今日も上人の独言を仰せ候はば、
こなたへ知らせたまはり候へ、
その分心得候へ、心得候へ
【上人の説法】
ワキ:それ西方(さいほう)は
十万億土(のくど)、
遠く生るる道ながら、
ここも己心(こしん)の弥陀の国、
貴賤群衆(くんじゅ)の
称名(しょうみょう)の声
ワキヅレ:日々(にちにち)夜々(やや)の
法(のり)の場(にわ)
ワキ:げにもまことに
摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の
ワキヅレ:誓ひに誰(たれ)か
ワキ:残るべき
ワキ、ワキヅレ:ひとりなほ、
仏のみ名を尋ね見ん、
仏のみ名を尋ね見ん、
おのおの帰る法の場、
知るも知らぬも心引く、
誓ひの網に洩るべきや、
知る人も、知らぬ人をも渡さばや、
かの国へ行く法(のり)の舟、
浮かむも安き道とかや、
浮かむも安き道とかや
ワキ:それ西方(さいほう)は
十万億土(のくど)、
遠く生るる道ながら、
ここも己心(こしん)の弥陀の国、
貴賤群衆(くんじゅ)の
称名(しょうみょう)の声
ワキヅレ:日々(にちにち)夜々(やや)の
法(のり)の場(にわ)
ワキ:げにもまことに
摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の
ワキヅレ:誓ひに誰(たれ)か
ワキ:残るべき
ワキ、ワキヅレ:ひとりなほ、
仏のみ名を尋ね見ん、
仏のみ名を尋ね見ん、
おのおの帰る法の場、
知るも知らぬも心引く、
誓ひの網に洩るべきや、
知る人も、知らぬ人をも渡さばや、
かの国へ行く法(のり)の舟、
浮かむも安き道とかや、
浮かむも安き道とかや
【老人の登場】
シテ:笙歌(せいが)はるかに聞こゆ
孤雲(こうん)の上、
聖衆(しょうじゅ)来迎(らいこう)す
落日の前、
あら尊(とう)とや今日もまた
紫雲(しうん)の立って候ふぞや
「鉦(かね)の音(おと)念仏(ねぶつ)の
声の聞こえ候、
さては聴聞もいまなるべし、
さなきだに立居(たちい)苦しき
老いの波の、
寄りもつかずは法の場に、
よそながらもや聴聞せん
:一念(いちねん)称名(しょうみょう)の
声のうちには、
摂取の光明曇らねども、
老眼の通路(つうろ)
なほもって明らかならず、
よしよし少しは遅くとも、
ここを去ること遠かるまじや
南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)
シテ:笙歌(せいが)はるかに聞こゆ
孤雲(こうん)の上、
聖衆(しょうじゅ)来迎(らいこう)す
落日の前、
あら尊(とう)とや今日もまた
紫雲(しうん)の立って候ふぞや
「鉦(かね)の音(おと)念仏(ねぶつ)の
声の聞こえ候、
さては聴聞もいまなるべし、
さなきだに立居(たちい)苦しき
老いの波の、
寄りもつかずは法の場に、
よそながらもや聴聞せん
:一念(いちねん)称名(しょうみょう)の
声のうちには、
摂取の光明曇らねども、
老眼の通路(つうろ)
なほもって明らかならず、
よしよし少しは遅くとも、
ここを去ること遠かるまじや
南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)
【上人、老人の応対、上人の退場】
ワキ「いかに翁、
さても毎日の称名に怠ることなし、
されば志(こころざし)の者と
見るところに、
おことの姿、
余人(よじん)の見ることなし、
誰(たれ)に向って
なにごとを申すぞと、
皆人(みなひと)不審しあへり、
今日はおことの名を名乗り候へ
シテ「これは思ひもよらぬ仰せかな、
もとより所は天離(あまざか)る、
鄙人(ひなびと)なれば人がましやな、
名もあらばこそ名乗りもせめ、
ただ上人(しょうにん)のおん下向、
ひとへに弥陀の来迎(らいこう)なれば
:かしこうぞ長生きして
「この称名の時節に会ふこと
:盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)
優曇華(うどんげ)の、
花待ち得たる心地して、
老いの幸はひ身に越え、
喜びの涙(なんだ)袂に余る、
さればこの身ながら、
安楽国に生るるかと、
無比(むひ)の歓喜(かんぎ)を
なすところに、
輪廻(りんね)妄執の閻浮(えんぷ)の名を、
またあらためて名乗らんこと、
口惜(くちお)しうこそ候へとよ
ワキ「げにげに翁(おきな)の申すところ、
ことわり至極(しごく)せり、
さりながら一つは懺悔(さんげ)の
廻心(えしん)ともなるべし、
ただおことが名を名乗り候へ
シテ「さては名乗らでは叶ひ候ふまじか
ワキ「なかなかのこと、
急いで名乗り候へ
シテ「さらば、
おん前なる人を退(の)けられ候へ、
近う参りて名乗り候ふべし
ワキ「もとより翁の姿、
余人(よじん)の見ることはなけれども、
所望(しょもう)ならば
人をば退(の)くべし、
近う寄りて名乗り候へ
シテ「昔長井の斎藤別当実盛は
この篠原(しのわら)の合戦(かせん)に
討たれぬ、
聞こし召し及ばれてこそ候ふらめ
ワキ「それは平家の侍(さむらい)、
弓取っての名将、
その戦(いくさ)物語は無益(むやく)、
ただおことの名を名乗り候へ
シテ「いやさればこそその実盛は、
このおん前なる池水(いけみず)にて、
鬢髭(びんひげ)をも洗はれしとなり、
さればその執心(しうしん)残りけるか、
いまもこのあたりの人には
幻のごとく見ゆると申し候
ワキ「さていまも人に見え候ふか
シテ:深山木(みやまぎ)の、
その梢とは見えざりし、
桜は花に顕はれたる、
老木(おいき)をそれとご覧ぜよ
ワキ:不思議やさては実盛の、
昔を聞きつる物語、
人の上ぞと思ひしに、
身の上なりける不思議さよ
「さてはおことは実盛の、
その幽霊にてましますか
シテ「われ実盛が幽霊なるが、
魂(こん)は冥途にありながら、
魄(はく)はこの世に留(とど)まりて
ワキ:なほ執心の閻浮(えんぷ)の世に
シテ:二百
「余歳のほどは経(ふ)れども
ワキ:浮かみもやらで篠原(しのわら)の
シテ:池のあだ波夜となく
ワキ:昼とも分かで心の闇の
シテ:夢ともなく
ワキ:現(うつつ)ともなき
シテ:思ひをのみ
シテ:篠原(しのわら)の、
草葉の霜の翁(おきな)さび
地:草葉の霜の翁さび、
人な咎めそかりそめに、
現はれ出でたる実盛が、
名を洩らしたまふなよ、
亡き世語(よがたり)も恥かしとて、
おん前を立ち去りて、
行くかと見れば篠原の、
池のほとりにて姿は、
幻となりて失せにけり、
幻となりて失せにけり
ワキ「いかに翁、
さても毎日の称名に怠ることなし、
されば志(こころざし)の者と
見るところに、
おことの姿、
余人(よじん)の見ることなし、
誰(たれ)に向って
なにごとを申すぞと、
皆人(みなひと)不審しあへり、
今日はおことの名を名乗り候へ
シテ「これは思ひもよらぬ仰せかな、
もとより所は天離(あまざか)る、
鄙人(ひなびと)なれば人がましやな、
名もあらばこそ名乗りもせめ、
ただ上人(しょうにん)のおん下向、
ひとへに弥陀の来迎(らいこう)なれば
:かしこうぞ長生きして
「この称名の時節に会ふこと
:盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)
優曇華(うどんげ)の、
花待ち得たる心地して、
老いの幸はひ身に越え、
喜びの涙(なんだ)袂に余る、
さればこの身ながら、
安楽国に生るるかと、
無比(むひ)の歓喜(かんぎ)を
なすところに、
輪廻(りんね)妄執の閻浮(えんぷ)の名を、
またあらためて名乗らんこと、
口惜(くちお)しうこそ候へとよ
ワキ「げにげに翁(おきな)の申すところ、
ことわり至極(しごく)せり、
さりながら一つは懺悔(さんげ)の
廻心(えしん)ともなるべし、
ただおことが名を名乗り候へ
シテ「さては名乗らでは叶ひ候ふまじか
ワキ「なかなかのこと、
急いで名乗り候へ
シテ「さらば、
おん前なる人を退(の)けられ候へ、
近う参りて名乗り候ふべし
ワキ「もとより翁の姿、
余人(よじん)の見ることはなけれども、
所望(しょもう)ならば
人をば退(の)くべし、
近う寄りて名乗り候へ
シテ「昔長井の斎藤別当実盛は
この篠原(しのわら)の合戦(かせん)に
討たれぬ、
聞こし召し及ばれてこそ候ふらめ
ワキ「それは平家の侍(さむらい)、
弓取っての名将、
その戦(いくさ)物語は無益(むやく)、
ただおことの名を名乗り候へ
シテ「いやさればこそその実盛は、
このおん前なる池水(いけみず)にて、
鬢髭(びんひげ)をも洗はれしとなり、
さればその執心(しうしん)残りけるか、
いまもこのあたりの人には
幻のごとく見ゆると申し候
ワキ「さていまも人に見え候ふか
シテ:深山木(みやまぎ)の、
その梢とは見えざりし、
桜は花に顕はれたる、
老木(おいき)をそれとご覧ぜよ
ワキ:不思議やさては実盛の、
昔を聞きつる物語、
人の上ぞと思ひしに、
身の上なりける不思議さよ
「さてはおことは実盛の、
その幽霊にてましますか
シテ「われ実盛が幽霊なるが、
魂(こん)は冥途にありながら、
魄(はく)はこの世に留(とど)まりて
ワキ:なほ執心の閻浮(えんぷ)の世に
シテ:二百
「余歳のほどは経(ふ)れども
ワキ:浮かみもやらで篠原(しのわら)の
シテ:池のあだ波夜となく
ワキ:昼とも分かで心の闇の
シテ:夢ともなく
ワキ:現(うつつ)ともなき
シテ:思ひをのみ
シテ:篠原(しのわら)の、
草葉の霜の翁(おきな)さび
地:草葉の霜の翁さび、
人な咎めそかりそめに、
現はれ出でたる実盛が、
名を洩らしたまふなよ、
亡き世語(よがたり)も恥かしとて、
おん前を立ち去りて、
行くかと見れば篠原の、
池のほとりにて姿は、
幻となりて失せにけり、
幻となりて失せにけり
(間の段)【里人の物語】
(里人は、実盛が若武者を装ってヒゲ、白髪を染めて出陣、討たれて、池の水で首を洗われ、実盛と判明など語る)
(里人は、実盛が若武者を装ってヒゲ、白髪を染めて出陣、討たれて、池の水で首を洗われ、実盛と判明など語る)
【上人の待受】
ワキ:いざや別時(べちじ)の称名にて、
かの幽霊を弔はんと
ワキ、ワキヅレ:篠原の、
池のほとりの法(のり)の水、
池のほとりの法の水、
深くぞ頼む称名の、
声澄みわたる弔ひの、
初夜(しょや)より後夜(ごや)に
至るまで、
心も西へ行く月の、
光とともに曇りなき、
鉦(かね)を鳴らして
夜もすがら
ワキ:南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)
南無阿弥陀仏
【実盛の亡霊の登場】
シテ:極楽世界に往(ゆ)きぬれば、
永く苦海(くかい)を越え過ぎて、
輪廻(りんね)の故郷(ふるさと)
隔たりぬ、
歓喜(かんぎ)の心いくばくぞや、
所は不退の所、
命は無量(むりょう)寿仏(じゅぶつ)と
のう頼もしや
シテ:念々(ねんねん)相続する人は
地:念々ごとに往生(おうじょう)す
シテ:南無といっぱ
地:すなはちこれ帰命(きみょう)
シテ:阿弥陀といっぱ
地:その行(ぎょう)この義を、
もってのゆゑに
シテ:かならず往生を得(う)べしとなり
地:ありがたや
シテ:極楽世界に往(ゆ)きぬれば、
永く苦海(くかい)を越え過ぎて、
輪廻(りんね)の故郷(ふるさと)
隔たりぬ、
歓喜(かんぎ)の心いくばくぞや、
所は不退の所、
命は無量(むりょう)寿仏(じゅぶつ)と
のう頼もしや
シテ:念々(ねんねん)相続する人は
地:念々ごとに往生(おうじょう)す
シテ:南無といっぱ
地:すなはちこれ帰命(きみょう)
シテ:阿弥陀といっぱ
地:その行(ぎょう)この義を、
もってのゆゑに
シテ:かならず往生を得(う)べしとなり
地:ありがたや
【実盛の亡霊、上人の応対】
ワキ:不思議やな
白みあひたる池の面(おも)に、
かすかに浮かみ寄る者を、
見ればありつる翁(おきな)なるが、
甲冑(かっちう)を帯する不思議さよ
シテ:埋もれ木の
人知れぬ身と沈めども、
心の池の言ひがたき、
修羅(しゅら)の苦患(くげん)の数々を、
浮かめてたばせたまへとよ
ワキ:これほどに
目(ま)のあたりなる姿言葉を、
余人(よじん)はさらに見も聞きもせで
シテ「ただ上人のみ明らかに
ワキ:見るや姿も残りの雪の
シテ:鬢髭(びんひげ)白き老武者なれども
ワキ:その出立は花やかなる
シテ:よそほひことに曇りなき
ワキ:月の光
シテ:灯火(ともしび)の影
地:暗からぬ、
夜(よる)の錦の直垂(ひたたれ)に、
夜の錦の直垂に、
萌黄(もよぎ)匂(におい)の鎧着て、
黄金作(づく)りの太刀(たち)刀(かたな)、
いまの身にてはそれとても、
何(なに)か宝の池の蓮(はちす)の、
台(うてな)こそ宝なるべけれ、
げにや疑はぬ、
法の教へは朽ちもせぬ、
黄金(こがね)の言葉多くせば、
などかは到らざるべき、
などかは到らざるべき
ワキ:不思議やな
白みあひたる池の面(おも)に、
かすかに浮かみ寄る者を、
見ればありつる翁(おきな)なるが、
甲冑(かっちう)を帯する不思議さよ
シテ:埋もれ木の
人知れぬ身と沈めども、
心の池の言ひがたき、
修羅(しゅら)の苦患(くげん)の数々を、
浮かめてたばせたまへとよ
ワキ:これほどに
目(ま)のあたりなる姿言葉を、
余人(よじん)はさらに見も聞きもせで
シテ「ただ上人のみ明らかに
ワキ:見るや姿も残りの雪の
シテ:鬢髭(びんひげ)白き老武者なれども
ワキ:その出立は花やかなる
シテ:よそほひことに曇りなき
ワキ:月の光
シテ:灯火(ともしび)の影
地:暗からぬ、
夜(よる)の錦の直垂(ひたたれ)に、
夜の錦の直垂に、
萌黄(もよぎ)匂(におい)の鎧着て、
黄金作(づく)りの太刀(たち)刀(かたな)、
いまの身にてはそれとても、
何(なに)か宝の池の蓮(はちす)の、
台(うてな)こそ宝なるべけれ、
げにや疑はぬ、
法の教へは朽ちもせぬ、
黄金(こがね)の言葉多くせば、
などかは到らざるべき、
などかは到らざるべき
【実盛の亡霊物語】
シテ:「それ一念(いちねん)
弥陀仏(みだぶつ)
即滅(そくめつ)
無量罪(むりょうざい)
地:すなはち回向(えこう)
発願心(ほつがんしん)、
心を残すことなかれ
シテ:時到って今宵(こよい)
会ひがたきみ法(のり)を受け
地:慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげ)の物語、
なほも昔を忘れかねて、
忍ぶに似たる篠原の、
草の蔭野の露と消えし、
ありさま語り申すべし
シテ「さても篠原の
合戦(かせん)敗れしかば、
源氏の方に手塚の太郎光盛、
木曾殿のおん前に参りて申すやう、
光盛こそ奇異の曲者(くせもの)と
組んで首を取って候へ、
大将かと見れば
続く勢(せい)もなし、
また侍(さむらい)かと思へば
錦の直垂(ひたたれ)を着たり、
名乗れ名乗れと責むれども、
つひに名乗らず、
声は坂東声(ばんどうごえ)にて
候ふと申す、
木曾殿あっぱれ
長井の斎藤別当実盛にてやあるらん、
さらば鬢髭(びんひげ)の
白髪(はくはつ)たるべきが、
黒きこそ不審なれ、
樋口の次郎は見知りたるらんとて
召されしかば、
樋口参りただ一目見て、
涙をはらはらと流いて
:あなむざんやな
斎藤別当にて候ひけるぞや、
実盛常に申ししは、
六十(ろくじう)に余って
戦(いくさ)をせば、
若殿原(わかとのばら)と争ひて、
先を駆けんも大人気(おとなげ)なし、
また老武者とて人々に、
あなづられんも口惜しかるべし、
鬢髭を墨に染め、
若やぎ討死(うちじに)すべきよし、
常々(つねづね)申し候ひしが、
まことに染めて候、
洗はせてご覧候へと、
申しもあへず首を持ち
地:おん前を立ってあたりなる、
この池波の岸に臨みて、
水の碧(みどり)も影映る、
柳の糸の枝垂れて
地:気霽(は)れては、
風新柳(しんりう)の
髪を梳(けず)り、
氷消えては、
波旧苔(きうたい)の、
髭を洗ひて見れば、
墨は流れ落ちて、
もとの白髪となりにけり、
げに名を惜しむ弓取りは、
誰(たれ)もかくこそあるべけれや、
あらやさしやとて、
みな感涙をぞ流しける
地:また実盛が、
錦の直垂(ひたたれ)を着ること、
私(わたくし)ならぬ望みなり、
実盛都を出でし時、
宗盛公に申すやう、
故郷(こきょう)へは錦を着て、
帰るといへる本文(ほんもん)あり、
実盛生国(しょうこく)は、
越前の者にて候ひしが、
近年(きんねん)ご領につけられて、
武蔵の長井に、
居住(きょじう)仕り候ひき、
このたび北国に、
まかり下りて候はば、
さだめて討死(うちじに)
つかまつるべし、
老後の思ひ出これに過ぎじ、
ご免あれと望みしかば、
赤地(あかじ)の錦の、
直垂を下し賜はりぬ
シテ:しかれば古歌(こか)にも
紅葉葉(もみじば)を
地:分けつつ行けば錦着て、
家に帰ると、
人や見るらんと詠みしも、
この本文(ほんもん)の心なり、
さればいにしへの、
朱買臣(しゅばいしん)は、
錦の袂(たもと)を、
会稽山(かいけいざん)にひるがへし、
いまの実盛は、
名を北国(ほっこく)の
巷(ちまた)に揚げ、
隠れなかりし弓取りの、
名は末代(まつだい)に有明の、
月の夜すがら、
懺悔(さんげ)物語申さん
シテ:「それ一念(いちねん)
弥陀仏(みだぶつ)
即滅(そくめつ)
無量罪(むりょうざい)
地:すなはち回向(えこう)
発願心(ほつがんしん)、
心を残すことなかれ
シテ:時到って今宵(こよい)
会ひがたきみ法(のり)を受け
地:慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげ)の物語、
なほも昔を忘れかねて、
忍ぶに似たる篠原の、
草の蔭野の露と消えし、
ありさま語り申すべし
シテ「さても篠原の
合戦(かせん)敗れしかば、
源氏の方に手塚の太郎光盛、
木曾殿のおん前に参りて申すやう、
光盛こそ奇異の曲者(くせもの)と
組んで首を取って候へ、
大将かと見れば
続く勢(せい)もなし、
また侍(さむらい)かと思へば
錦の直垂(ひたたれ)を着たり、
名乗れ名乗れと責むれども、
つひに名乗らず、
声は坂東声(ばんどうごえ)にて
候ふと申す、
木曾殿あっぱれ
長井の斎藤別当実盛にてやあるらん、
さらば鬢髭(びんひげ)の
白髪(はくはつ)たるべきが、
黒きこそ不審なれ、
樋口の次郎は見知りたるらんとて
召されしかば、
樋口参りただ一目見て、
涙をはらはらと流いて
:あなむざんやな
斎藤別当にて候ひけるぞや、
実盛常に申ししは、
六十(ろくじう)に余って
戦(いくさ)をせば、
若殿原(わかとのばら)と争ひて、
先を駆けんも大人気(おとなげ)なし、
また老武者とて人々に、
あなづられんも口惜しかるべし、
鬢髭を墨に染め、
若やぎ討死(うちじに)すべきよし、
常々(つねづね)申し候ひしが、
まことに染めて候、
洗はせてご覧候へと、
申しもあへず首を持ち
地:おん前を立ってあたりなる、
この池波の岸に臨みて、
水の碧(みどり)も影映る、
柳の糸の枝垂れて
地:気霽(は)れては、
風新柳(しんりう)の
髪を梳(けず)り、
氷消えては、
波旧苔(きうたい)の、
髭を洗ひて見れば、
墨は流れ落ちて、
もとの白髪となりにけり、
げに名を惜しむ弓取りは、
誰(たれ)もかくこそあるべけれや、
あらやさしやとて、
みな感涙をぞ流しける
地:また実盛が、
錦の直垂(ひたたれ)を着ること、
私(わたくし)ならぬ望みなり、
実盛都を出でし時、
宗盛公に申すやう、
故郷(こきょう)へは錦を着て、
帰るといへる本文(ほんもん)あり、
実盛生国(しょうこく)は、
越前の者にて候ひしが、
近年(きんねん)ご領につけられて、
武蔵の長井に、
居住(きょじう)仕り候ひき、
このたび北国に、
まかり下りて候はば、
さだめて討死(うちじに)
つかまつるべし、
老後の思ひ出これに過ぎじ、
ご免あれと望みしかば、
赤地(あかじ)の錦の、
直垂を下し賜はりぬ
シテ:しかれば古歌(こか)にも
紅葉葉(もみじば)を
地:分けつつ行けば錦着て、
家に帰ると、
人や見るらんと詠みしも、
この本文(ほんもん)の心なり、
さればいにしへの、
朱買臣(しゅばいしん)は、
錦の袂(たもと)を、
会稽山(かいけいざん)にひるがへし、
いまの実盛は、
名を北国(ほっこく)の
巷(ちまた)に揚げ、
隠れなかりし弓取りの、
名は末代(まつだい)に有明の、
月の夜すがら、
懺悔(さんげ)物語申さん
【終曲】
地:げにや懺悔の物語、
心の水の底清く、
濁りを残したまふなよ
シテ:その執心の修羅の道、
廻(めぐ)り廻りてまたここに、
木曾と組まんと企みしを、
手塚めに隔てられし、
無念はいまにあり
地:続くつはもの誰々(たれたれ)と、
名乗る中にもまづ進む
シテ:手塚の太郎光盛
地:郎等(ろうどう)は
主(しう)を討たせじと
シテ:駆け隔たりて実盛と
地:押し並べて組むところを
シテ:あっぱれおのれは
日本一(にっぽんいち)の
剛(こう)の者と組んでうずよとて、
鞍(くら)の前輪(まえわ)に押しつけて、
首かき切って
捨ててんげり
地:そののち手塚の太郎、
実盛が弓手(ゆんで)に廻りて、
草摺(くさずり)をたたみあげて、
二刀(ふたかたな)刺すところを、
むずと組んで二匹が間(あい)に、
どうと落ちけるが
シテ:老武者の悲しさは
地:戦(いくさ)にはし疲れたり、
風に縮める、
枯木(こぼく)の力も折れて、
手塚が下になるところを、
郎等は落ちあひて、
ついに首をば掻き落とされて、
篠原の土となって、
影も形も亡き跡の、
影も形も
南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)、
弔ひてたびたまへ、
跡弔ひてたびたまへ
地:げにや懺悔の物語、
心の水の底清く、
濁りを残したまふなよ
シテ:その執心の修羅の道、
廻(めぐ)り廻りてまたここに、
木曾と組まんと企みしを、
手塚めに隔てられし、
無念はいまにあり
地:続くつはもの誰々(たれたれ)と、
名乗る中にもまづ進む
シテ:手塚の太郎光盛
地:郎等(ろうどう)は
主(しう)を討たせじと
シテ:駆け隔たりて実盛と
地:押し並べて組むところを
シテ:あっぱれおのれは
日本一(にっぽんいち)の
剛(こう)の者と組んでうずよとて、
鞍(くら)の前輪(まえわ)に押しつけて、
首かき切って
捨ててんげり
地:そののち手塚の太郎、
実盛が弓手(ゆんで)に廻りて、
草摺(くさずり)をたたみあげて、
二刀(ふたかたな)刺すところを、
むずと組んで二匹が間(あい)に、
どうと落ちけるが
シテ:老武者の悲しさは
地:戦(いくさ)にはし疲れたり、
風に縮める、
枯木(こぼく)の力も折れて、
手塚が下になるところを、
郎等は落ちあひて、
ついに首をば掻き落とされて、
篠原の土となって、
影も形も亡き跡の、
影も形も
南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)、
弔ひてたびたまへ、
跡弔ひてたびたまへ
※出典『能を読むⅡ』(本書は観世流を採用)
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