2022年2月26日
母親が生前大好きだった「ブラックコーヒー&モンブランケーキ」を食べて供養した。
こんにちは✨😃❗️
2日前に7回目の命日を迎えた母親。
今から綴る文章は間違いなく長くなるので、良ければ覚悟の上で読んで欲しいと思う。
母親が生前大好きだった「ブラックコーヒー&モンブランケーキ」を食べて供養した。
実は、私…コーヒーが飲めないの。
必ず、飲んだ後に胃痛が起きるか、或いは胸焼けと頭痛が起きるから飲みたくないのだ。
なので、カフェインレスのコーヒーで試すわけだが、体調によって変わる。
24日に頂いた時は、体調がイマイチだったようで胸焼けで苦しんだ。
基本合わないのだろうね😅
命日に合わせてとある場所へ行き、手を合わせてきた。
その帰りに一人の女性とお会いして、1時間程話をした。
私より随分年齢の高い人だと思う。
殆ど、私は聞き役ではあったのだが、話の内容が濃くて【心】の奥底から私の御魂(みたま)が震えた感覚に陥った。
『人の意見に惑わされずに自分軸で行動しなさい』とか『幸せの神様は前髪しかないなら、そのタイミングで捕まえないと、後ろを振り返った時には髪がないから捕まえられないよ』とか、『皆、お金が無いって言うけど、あるから今日一日無事に過ごすことが出来るのよ。そこに気付かないと駄目よ』とか、色んな話を一気に聞いたから家に戻った時は興奮状態で、明くる日の朝はグッタリしていた。
パパさんに『夜中唸ってたよ』と言われてハッとした。
短時間で、エネルギーを使い果たした感じだ。
昨日は、目を瞑った地点で寝落ちしていた。
活動しないまま一日が過ぎた。
『まぁ~、そんな日もあって良いかも』と思って受け入れた。
24日は、我が家地方は雪がちらついていた。
7年前も、告別式(26日にした)の時は雪がちらついていた。
何しか寒かった。
母親のきょうだいは10人いる。
母親は6番目に誕生した。
父親(私の祖父)42歳、母親(私の祖母)33歳の時に誕生したので、いわゆる両親が厄年だったので儀式があったと聞いている。
【捨て子の儀式】といって、一旦子供を捨てるふりをして、他の大人に拾われる事によって厄落としとする儀式だと聞いた。
生まれたばかりの母親は、親戚の人に拾ってもらう様にお願いをして、一晩面倒をみて翌日両親(私の祖父母)の元へ連れて行くということだったようだ。
そんな母親は、かなり霊感がきつくあり、それが原因で何度も衝突した。
私には全く感じない事でも、母親はいち早くキャッチしていた。
一番困ったのは、私が連れてくる友達に対して『あんたは何で変な子ばかり連れてくるの(母親に言わせると、邪気が凄い)』と言われ、その子たちに合わせないように段取りをして、遊ぶ約束をしていても勝手にその子の家に電話をかけて遊ばせないようにされたりしていたので(のちに、この現状を友達が白状したのである)、次第に友達はいなくなりいじめの対象になっていた。
そんなことを知る由も無い私は、最初友達と仲良くしていても、これらの理由により中学卒業するまで孤独な日々を過ごしていた。
転機が訪れたのは、高校に行き始めてからだ。
自宅から1時間30分かけて学校まで通っていたので、母親の監視が甘くなったこと。
(付いて行けないと思ったのだろう)
他府県の友達が増えたので、遊びに行くのも電車やバスを利用しないと行けなかったので、これが私にとって都合が良かった。
だから、高校時代の友達は今もずっと続いている。
(高校の友達を家に連れて来たことがあったが、全く変な事は言わなかったから続いているのかもね)
母親とは犬猿の仲で、何度も家出を試みた。
一番酷いことをしたのは、夜中2時を過ぎても家に戻らず、後一歩というところで捜索願いを出される寸前だったことだ。
家に戻るなり、鼻血が出るまでボコボコに殴られた。
そりゃそうだろう。
これが、私にとって最高の反抗だったなぁ~。
喧嘩をする度に、包丁を持って振り回され、その度に「殺される」と思っていた。
自分の思うようにならないと手を上げる人だったから、「家はくつろぎの場所」なんて考えられなかった。
ただ、有難かったのは、子どもが大好きなのに授からなかったおばあちゃんがいた。
危険を感じた時は、おばあちゃんの所に逃げていた。
いつも『おばあちゃんの子になりたい』って言っていた。
母親も、おばあちゃんとの交流を認めてくれるようになり、母親がしんどい時はおばあちゃんの所に行ってお世話になっていた。
今となったら懐かしい思い出ではあるが、当時は生きた心地はしなかった。
父親は、朝から晩まで仕事1本で必死に働いて家計を守ってくれていたから(今でいうWワークをしていたので、母子家庭みたいなものだった)、父親はこのような状況で過ごしていたことは知らない。
父親に告げ口をする気力もなかった。
私が結婚してから、比較的穏やかな親子関係が生まれてきた。
母親は何も変わっていないが、私自身が母親との接し方を変えた。
私も、娘たちを出産し、多少なりとも親の気持ちが解ってきたからだ。
その事によって親の偉大さを知り、感謝の心が生まれ、子育ての大変さとか、生活の大変さにも気付き、両親がいなかったら今の私は無いなぁ~と。
色んな【心】の動きを(喜怒哀楽)知ることで、心理学の事に興味が湧いてきて、『自分らしく生きるにはどうしたら良いか?』と研究をしながら現在に至るので、
最近は、生まれる前から【心】の勉強をするために発願をして、色んな条件(環境)が整った家庭で生まれ育ったのだろう。
そう思うことで、私は納得している。
母親の晩年は、胃ガンとの闘いだった。
父親曰く『お母さんのお父さん(私の祖父)も胃ガンで他界している。食べ物の好みも一緒で、ちゃんとした御飯を食べずおかきばかり食べていたらしい。あと、醤油かけ御飯が好きで、身体に悪いから…と言って止めても、一寸した隙に醤油かけ御飯を食べてたからなぁ~』と言っていた。
その後に『似んで良いのに…』って父親は毎度言うわ。
最期は、危篤状態が続き、意識が朦朧(もうろう)とする中で、一度目覚めたときに私の顔を観て『有難うございました』と敬語で語った母親の言葉が最後の言葉となった。
この一言により、今まで母親にされていた酷い事が【許し】に変わった。
と、同時に私もあの世へ向かう時が来たら【感謝】の言葉で締めくくりたい。
心の底から思う。
人の最期は、どんな形で終わるか解らないが、最近、父親が『俺が死んでもしんみりせんといてくれや。バッハの曲をかけて見送ってくれや』って言うことが多くなった。
なので『了解』と言っている。
私も、最後の言葉と見送ってもらう時の曲を決めている。
遺言状に書いておく予定だ。
それを、ある時期が来たら長女に渡す様にしようと思う。
今を大切に。
この瞬間を大切に、自分らしく生きようではないか。
長文になってしまったが、備忘録として残しておこうと思う。
最後まで読んでくれて有難う。
親子の形は人それぞれ。
関わり方は全て間違いでは無いことを伝えたい。