江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で東北から北陸を旅し、倶利伽羅峠を越えて金沢に入りました 芭蕉に同行していた弟子の曽良の「随行日記」によれば、 芭蕉が倶利伽羅峠を訪れたのは元禄2年(1689)7月15日、新暦の8月29日。「快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻金沢ニ着。…」とあります。
埴生八幡とは、義仲が戦勝を祈願した埴生護国八幡宮のことです。埴生護国八幡宮については過去ブログをご覧ください。→ 埴生護国八幡宮 <義仲が戦勝祈願した大社>
「平家物語」に想い入れがある芭蕉は「奥の細道」の旅で、源平合戦ゆかりの史跡を巡り、いくつかの名句を残しています。特に義仲には強い共感を抱いていたようで、「(墓は)木曽殿の隣に」との遺言によって大阪で病死した芭蕉は弟子によって死の翌日、大津にある義仲寺に運ばれ義仲の墓の隣に埋葬されました。
北陸路では金沢に急いだ芭蕉も、義仲が大勝を納めた合戦の舞台である倶利伽羅峠では義仲に想いを馳せていたことでしょう。
倶利伽羅峠を横断する源平ライン沿いには芭蕉の句碑が二つ建っています。
「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」
この句は後に訪れた越前の燧ヶ城で詠んだものですが、義仲の生涯を偲び詠んだとされます。
「あかあかと 日は難面も あきの風」
句を詠んだ場所も解釈も諸説ありますが、残暑厳しい北陸路で得た旅情を詠ったとされています。
余談ですが、
随行日記に「…未の中刻金沢ニ着。」とあります。
『「加賀藩主参勤交代道程」によれば、高岡~金沢間は十里三十三丁である。途中に倶利伽羅峠もあるから、その日の未明に高岡を出立したとしても、未の刻(午後ニ時)の金沢到着は、大変な健脚である。』(「芭蕉・金沢に於ける十日間」 密田靖夫 より)
これも芭蕉忍者説の一因になるのでしょうか?
倶利伽羅峠は源平ラインを走るドライブはもちろん、「旧北陸道」や「ふるさと歩道」があり、ハイキングも楽しめます→倶利伽羅県定公園パンフレット(小矢部市観光協会)
倶利伽羅の紅葉シーズンはこれからが本番です!!