宮島峡の中央に鎮座する「比賣神社」は、延喜式神名帳の中の「越中国三十四座礪波郡七座」のうちのひとつとしてその名が記されています。
延喜式神名帳とは、延長5年(927)に朝廷によって編纂された日本全国の神社一覧のことです。
比賣神社は、朝廷から格式が高く、官社(朝廷より祈年祭・班幣を受けることができる神社)として認められていた古社です。
ひっそりと静まりかえった境内に悠久の時が流れていました。
比賣神社のもとの御神体は、かつて境内にあった大小の石を巻くように生えていた藤の巨木の枯木だといわれています。
石を巻きこんでいるその姿から「藤巻石」と呼ばれています。
天平時代、越中国司で万葉歌人でもある大伴家持は、比賣神社を厚く信仰し、多くの供物や修理費の寄付をしました。
「当社は古来より尊崇厚く、越中国司大伴家持参拝の際、斎木貞信を従六位に叙し、当社及び長岡神社の神官に任じ、礪波郡神祇の府とし宮島郷四十三ヶ村氏神惣社としたとある。」(案内板より)
「祭神・田心比売命は、国を守り、無病息災の願いをきく女神であったが、その霊験を証拠づける多くのいい伝えがある。・・・
元明天皇の和銅年間(708~714)には、越中国全域に疫病が流行したが、その時は、悪疫退治の祈願所となった。
聖武天皇の天平年間(724~748)には、国家平安祈願のために宝鏡が奉納されている。
同じ天平18年(746)の大かんぱつの時は、国司 大伴家持 が雨ごいの和歌を奉納したが、その験が現れて人々を助けたという。・・・」(ふるさとガイドおやべより)
比賣神社の近くには子撫川が流れています。
鵜飼の好きな家持が 小撫川(さき田川)でのアユ漁をこころまちにしているのを詠んだとされる歌があります。
「あら玉の年ゆきかはり春されば花咲きにほふ
あしひきの山下響み落ち激ち流る辟田の
川の瀬に鮎子さ走り島つ鳥鵜養伴いへ
篝さしなづさひ行けば吾妹子が形見がてらと
紅の八入に染めておこせたる衣の裾も徹りて濡れぬ」
「毎年に鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ」
「紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく吾かへり見む」
宮島峡の山と川を見渡し
鵜飼に興ずる家持の姿を思い巡らしてみました・・・