ぜんきちの365日

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悲劇生んだカリスマ

2015-12-06 21:05:05 | 日記

  天草四郎 「四郎法度書」(1638年)

  場内の者はあの世までの友である

  江戸初期、島原半島南部郡(現・長崎県南島原市)の農民への扱いほど非道なものはなかった。
  領主・松倉勝家は飢饉で餓死者が出ても、年貢が払えない農民に蓑を着せて火を付けるなど
  虐待を繰り返していた。生きていて何の楽しみがあるのかー。農民たちが寛永14年(1637年)
  の秋に立ち上がり、有明海をはさむ一揆郡軍も合流したのが、「島原の乱」である。
  総大将は切支丹信徒で「年の頃16歳」の天草四郎。領主との戦いの末、3万7000人ともいわれる
  農民らと12月に籠城したのが南島原の廃城、、原城だった。元は農民一揆だが、切支丹が多く参加
  したため宗教一揆という見方もある。「四郎の並外れた人間的な魅力が3万7000人もの人が
  亡くなるという悲劇を生みだしたのかもしれません」。2月末、一揆軍は幕府側と内通していた一人を
  除いて全滅した。籠城する者には上・下がなく、みな仲間だと強調している。大勢の者を率した四郎の
  カリスマ性が図らずもにじみ出た言葉」と説明する。