小さなことを大切にしないと大きなものは手に入りません 2019-08-27 21:20:27 | 学問 ある学会に出たとき、高名な教授が、若い数名の女学生とともに参加していた。弁当がひとつ足りない、ということでいろいろと調べておられた。学会の権威が、ひとつ400円の弁当のことで、汗を流して調べておられる。そういうものかと思った。後、ある箴言に接した。「小さなことを大切にしないと大きなものは手にはいりません。」
タブレット端末を使って勉強する子どもたち 2019-08-02 22:41:53 | 学問 茅ヶ崎市は、義務教育先進地域である。それには長い歴史があるが、現在も子どもたちは、よく勉強している。写真は複合福祉施設「うみかぜテラス」であるが、ここでも、小学生たちが、みんなで「タブレット端末」を使いながら勉強している。他に、公民館、コミセンなどでも子どもたちがよく勉強しているんを見る。今は夏休みなので、図書館にも子どもが溢れ、パソコン検索をしている。冒険のできるところを探す試みもなされている。一方、上記のように、子どもたちは進んで勉強を進めているのである。
織田信長の実像とは? 2019-07-30 20:11:39 | 学問 以前の日本史の教科書には、織田信長の像が載せられていた。いかにもきかん坊で、アンバランスな絵であった。ところが、今では、この記事に載せたような絵が正しい、という説が通説となった。妹、市の方はたいへんな美人で、浅田長政の嫁になったというくらいだから、実はイケメンだったと思われる。これは、天童市三宝寺に残されたもので、宣教師が描いた、実物そっくり、と言われる。あなたの中の信長像は、どうだろう?
「現代戦争論」「戦争指導論」~高木惣吉 2019-06-07 21:26:00 | 学問 第2次大戦後、自衛隊の前身の軍が創設された。そのひとつ海上自衛隊幹部候補生学校の学校長は、学生に、実戦経験のある講師を聴かせるべく、経験者に依頼した。が、多くのものは、自己の責任回避をするばかりか、戦後は一切勉強をしない軍人の化石であった。しかし、高木惣吉は別もので、終戦に向けた研究は優れたものだったし、戦史に詳しく、戦後の有益な文献を消化し、「タイムズ」なども購読しており、参考になる講義をした。「現代戦争論」「戦争指導論」など。他に、山梨勝之進の講義も好評であった。自衛隊をどう評価するかは別にしても、海軍の経験者たちが、このように、戦後の学生に有益な知識の伝達を行った例もある。当然、元大将井上成美も適任者だったが、病身のため、講義は実現しなかった。
米内光政②~「マイン・カンフ」を原文で~ 2019-05-31 20:58:33 | 学問 米内光政が、海軍軍人出身で、総理大臣まで務めたことは、有名である。彼は、ロシア語にも堪能であったし、ドイツ語も読めた。戦争の前兆が日本を埋め尽くし、ドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結べ、と、国内世論と海軍少壮士官とが騒いだころ米内は海軍の要職にあった。その頃、海軍の若手将校たちが、ヒトラーの「マイン・カンフ(わが闘争)」(日本訳)を読んで感銘し、ドイツと手を結べ、と叫んで、米内の執務室に立ち入った。ところが、米内は、悠然と「君たちは『我が闘争』を読んだかねと聞いたね」と、いきりたつ若手軍人に尋ねた。彼らは、「もちろんです」と答える。米内は、おもむろに「我が闘争」の原書を示して、「この原書に、『日本人は低劣な民族だ』と書いてあるよ、と言った。いきり立っていた軍人たちは、ぐうの音も出ず、すごすとと退散したそうである。教養は、無駄にならないものである。
人を変えるには?~通信教育のレポートより~ 2019-05-25 20:32:12 | 学問 通信制大学の教員をしていた時、レポート添削は、ひとつの仕事であった。あるとき、教育学概論のレポートを読んでいると、学生さん(中学校の現役教員)が、「人を変えるには、まず自分から変わらなければならない」と書いておられた。学問上は、さほどレベルの高いものではない、と判断し、そのように評価したのだが、今考えると、たいへんな間違いだった。生徒や学生さんに接する時も、他の人間関係の場でも、これは、たいした見識である。現役の教員をしながら、この真理をつかまれたのだろう。今は、上記の表現は、極めて適切、重要なものだと思う。「人を変えるには、まず自分が変わることである」
ハイデッガー「存在と時間」読了 2019-03-11 12:28:20 | 学問 20世紀前半、 ドイツで活躍した、 ハイデッガーの「存在と時間」 を読み終えた。 詳しくは、 Wikipedia等で内容を調べられると良い。 ここでは、 わたしなりに 現在の社会状況と結びつけながら 感じたことを略記しておく。 結局のところ、 人間は死ぬ。 そのことを自覚したところから、 人間は、自己を、社会を 深い意味で考察し始める。 「死」の自覚によって、 哲学はじまるのである。 そこから、人間存在の ありようを、了解しようとする営みが始まる。 読み応えのある作品である。
思想的にすぐれた男は、駐米大使になった 2019-01-18 18:29:17 | 学問 高校時代、 成績を競った友人がいた。 いい男だった。 ただ、 わたしが何か意見を言うと、 「それはくだらん」 と、 一刀両断に切り捨てる。 それで、 どうも、自分には思想的な部分の才能が 足りないのだろう、 と思っていた。 しかし、それは、比較して、 ということだ。 おれだって、捨てたもんじゃない と思い直した。 そう思ったのは、 彼が、 後年、大出世し、 思想的に大変優れた男だったと わかってからである。 彼は 外交官試験を1番で突破し、 後年、外交官の最高ランクである、 駐米大使になったのだった。
悪童たちの数学 2019-01-18 18:20:15 | 学問 高校時代、 数学は苦手であった。 成績も伴わず、 悩みの種だった。 あるとき、 自己最低点をとった。 クラスの悪童たちに ぼろくそに言われた。 数学には、ほんとうに 悩まされた。 ただし、 それは 比較的、 ということである。 わたしをあざ笑った悪童たちは、 みんな、わたしよりはやく 東大に入ってしまった。 比較の対象が悪かったのである。
経済学は人びとを幸福にできるか 2018-11-27 21:03:28 | 学問 宇沢弘文氏の 著書。 「経済学は人びとを幸福にできるか」 は、 経済学の可能性を わかりやすく解説した本である。 もちろん、 著者は、 できる と 言っている。 目次を挙げておく。 第1章 市場原理主義の末路 第2章 右傾化する日本への危惧 第3章 60年代アメリカ 第4章 学びの場の再生 第5章 地球環境問題への視座 ぜひ、読んでみてください。
宇沢弘文氏の著書2冊 2018-11-25 22:17:40 | 学問 「社会的共通資本」 のよさは、 広い研究にもとづき、 社会事象称に全般に目を向けて 易しく明らかにしていること。 目次の一部から。 序章 豊かな」社会とは 第1章 社会的共通資本の考え方 第2章 農業と農村 第3章 都市を考える 第4章 学校教育を考える 第5章 社会的共通資本としての医療 第6章 社会的共通資本としての金融制度 第7章 地球環境 ほかに、 「経済学は人びとを幸福にできるか」 も、 読み漏らしてはいけない。
カントと宇沢弘文の教育理論の類似点 2018-11-24 17:21:23 | 学問 ちょっと、 固い話になる。 教育学の総合、 ということを 書いたことがある。 なかなか難しい。 しかし、 これを可能にしそうな人がいる。 故・宇沢弘文氏。 今、その理論の見直しは、 娘さんの医師、占部さん等によって、 進められている。 氏は、教育理論についても 言及しておられる。 そのなかで、 デューイ等の主張に共感する 部分がある。 そのなかで、 人間に備わった、 「生得的な」能力に 言及した部分がある。 innate である。 これは、 哲学者カントが 「純粋理性批判」等で 明らかにした、 「ア・プリオリ」 な 能力と一緒なのだ。 こうして、 経済学と 教育学 および哲学の 統合、 といった問題が 明らかにされる可能性がある。 宇沢理論は、 自然科学・社会科学・人文科学を 統合した 汎学問的な理論として、 解明されていく。 娘の占部医師を中心にした活躍も、 目立った動きになってきた。
教育学の総合 2018-11-20 20:13:12 | 学問 教育学も、 他の学問と同様、 タコツボ化している。 分野は、 言わないが、 多様である。 かつて 存在したような 総合的に 教育学を まとめることのできる 人が いなくなった。 なげかわしい。 私の場合、 はじめに担当したのは、 1科目。 退職するときに担当していたのは 12科目。 そういう経歴から、 やはり タコツボ化は なげかわしいと思う。 専門家同士の対話が 困難になっている。 これから、 教育学の巨人は でるのだろうか?
教育学の入門と究極 2018-11-12 21:08:14 | 学問 教育学の基本は 「隠者の夕暮」 だと 書いたことがある。 そのとおり、 と今も 思う。 いろいろ 研究して、 もう1度 この本を読むと、 また、 新しい発見がある。 今日、 再読していて、 次のことを 見つけた。 終わりの方に、 教育の立場から、 法律や 政治の 態度を 批判した 部分がある。 長い間、 法学を 勉強していた。 教育学を 15年間 研究していた。 しかし、 今日初めて、 そのことに 気づいた。 教育学の 究極は、 ペスタロッチの 「隠者の夕暮」
あじけない講義?~桃太郎の話~ 2018-11-11 18:20:53 | 学問 地元の図書館で、 桃太郎の話を おとなとして 読むには どうすればよいか、 という 講義があった。 講師は、 大学から 派遣された。 講義は 一方的に 知識を並べる講義で、 なにか しらけた雰囲気になっていた。 それに、無性に腹が立ってきた。 で、 それなりの感想を 提出した。 しかし、 ふと 気が付いた。 自分自身に 怒りを感じていたのだ。 法学部の学生の頃、 「法学部砂漠」という 言葉があった。 多くの講義が、 一方的に 知識を授ける 講義であった。 そういう教師に、 腹を立てていた。 ところが、 卒業近くになって、 いつのまにが、 そのような態度に、 自分が染まってしまっているのに 気が付いた。 その、 過去の自分に対する怒りが、 講師に向けられたのだ。 過去の 自分自信を 否定していたのだ。 が、 自分では、 それを否定していた。 めざめた。 その、 わたしは、 「善意」であった。 そして、 この講師も、 善意なのだ。 どちらも、 いっしょうけんめいにやっている。 それは、 同じことだ。 もうひとつ、 気が付いた。 彼女とわたしの 年齢の違い。 経験の違い。 どちらも、 違いではあるが、 どちらが優れているか、 それは、神のみぞ知る、 である。 人間のわたしは、 それを 決定する権限をもたない。 それに 気づいたとき、 怒りはおさまった。 ある愛する友人の ことばも、 わたしをとらえた。 怒ってはいけなかったのだ。 敵は、 自分の中にいたのだ。 こうして、 わたしのこころは、 うちくだかれる。 「謙遜に」 と 心で思っていても、 実行できない自分。 そういう自分に腹を立てているのだ。 そして‥‥‥