いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

宮柊二退職の日~家庭にて~

2019-06-30 22:20:59 | 短歌


専門歌人となるべく、会社を去った日、妻との時間、ひとりの時間を、
彼はどう過ごしたのだろうか。

……

数珠球に雨しぶき葉よりしたたり職退きてわが帰りくる道
 同僚から、餞別をもらう。ああ、芸術と金。

雨負ひて暗道帰る宮肇君絵を提げ退職の金を握りて
青春を晩年にわが生きゆかん離々たる中年の泪を蔵す
 平和なる生きの途を、自分から遮断したことになるのか。

生き生きてわが選びたる道なれど或ひはひとりの放恣にあらぬか

……

     
こうして、妻と向かい合って酒を飲み、
ひとりで酒を酌む、という情景で、
この連作は終わっている。

……

妻注げる酒のおもてに映りたる吾自らをしばし守りつつ
逝く際の師を知らざりき指を折りかつ伸べ盃を独り置く
(師とは、北原白秋のこと)

















宮柊二の決断~会社を去るその日~

2019-06-30 21:56:02 | 短歌


宮柊二が、勤め人と歌人の兼任から、専門の歌人になる日がやってくる。
彼は48歳で富士製鉄を退職し、専門歌人の道に入る。
その契機として、勤め人たる最後の日の感慨が、「私記録詠」第1部に語られる。
第1部は、会社におけるものである。

……

七階の下なる都心たまたまを往来絶えし車道歩道見ゆ
よろこびの炎のごとくは生き得ざりき個人の狭き範囲につきて

 大戦時の留守家族は会社の恩恵を受けた。戦後、反省の折々に湧く哀しさをう     づめるやうに、それへの感謝が私の胸中に住んでいるのであった。

生きえたる兵の奉仕の悔しさとよろこびと二つ吾を支へし

 習慣とは詠ったが、告白すれば、勤め人の生の心意気とでもいふべきか。

扉の把手をにぎりたるとき習慣の切実さにて喜び湧きき
階段を踏みくだりつつ中間の踊り場暗し勤めを今日去る

 日常の己を告白したのでない。心理の奥に隠れて住むものを、自分からひきずりだしてみただけだ。わたしのみの心理でない気もする。

行為なく逡巡につき逃走をつねに構えき有体に言はば
屋上にきたりて雨にたたずめり頭上左右にて雨空揺るる

……

こうした行為と思いのうちに、会社を去る、そうして、専門家人になる、という自覚を確かにする。

つづいて、家に帰ってからの感慨が詠われる。これは、第2部に譲る。














勤め人と歌人の間で~宮柊二~

2019-06-30 21:38:43 | 短歌


宮柊二が、今後も大切な歌人として語られるであろうことは確実である。
戦後短歌の旗手として、近藤芳美と並び称されたことは間違いのない事実だと言える。
北原白秋のもとを去ってから、芸術家と俸給取りという2面を持たざるをえなくなり、
そのことが、彼を煩悶させた。
現代の芸術家にも通ずるこの通底音を、しっかりと把握しておくことは大切である。
このような視点から、3首をとりあげ、
鑑賞しておく。

悲しみを耐へたへてきて某夜せしわが号泣は妻が見しのみ
わが一世喘ぐに似つつすぎむかと雨の夜明けの蛙ききをり
十年を苦しみ共に生きてきてまだ苦しまねばならぬこともある

これらの歌に見られるように、個人として、勤め人として、夫として、
各々の立ち場の相克の中で、中間者としての存在という位置を選び、
芸術性を高めていった、というのが、宮柊二の世界の総合的な歴史だと思う。











自らの心を記録として詠む~勤め人と歌人~宮柊二

2019-06-29 21:07:01 | 短歌


宮柊二は、兵隊として中国に派遣される前、
北原白秋を師とあおいで、作品をつくっていた。
白秋は、勤めることを嫌い、文学者プロパーとして生きることを選んだ。
宮柊二が戦争に参加することは、師白秋の期待を裏切ることでもあった。
終戦から時を経て、宮柊二は、サラリーマンとして製鉄会社に勤めつつ、
歌人として、歌を詠む道を選ぶ。
そこから生まれる悩みを、さまざまな歌にして詠み、自分の人生を見つめた。

……

はうらつにたのしく酔へば帰り来て長く座れり夜の雛の前

ほのかな雛の灯のもとに座り続ける壮年の男。何か悲しい。自分はいったいなんだったのか。戦争に行き、辛くも生きて帰ってきた。大家族を抱え、しかも歌人と言う一面を出なかった。しかも、結社と言う組織にかかわってきてしまった。
師白秋との決別以来、さまざまな人生の局面で、決定的な決断をしないまま、
出来事たちと関わってきた。
その孤独感を、しんみり詠うのである。

……

あきらめてみずからなせど下心ふかく俸給取りを蔑まむとす
ある刹那こころたかぶる先生はみづからの家持ち給はざりけり

宮柊二は、白秋との確執以来、サラリーマンとして生きることの意味を問い続けたのであった。それでも生活はあり、仕事はあり、家族があった。また、結社のメンバーを率いなければならない立場にもあった。心の葛藤を持ち続けながら、現実に対応していったのであった。

……

貧しかる俸給取り兼詩人にて年始の道の霜にあそびつ
黙々たる一勤め人秋風の吹きのすさびに胸打たせ行く
沈黙を人に見せざる生活のこのあかつきのひとりの時間
自分のみ愛して遂に譲らずと妻言ひしこと胸に上り来
爪切れば棘のごとくに散らばれり汝が内を見るといふこと

……

歌人であり、サラリーマンであり、家を統べる大黒柱でもあった宮柊二には、別の道を選べない、という苦しみが常に伴うのである。




















父への挽歌~介護の末に~宮柊二の連作に見る

2019-06-29 20:41:01 | 短歌

宮柊二の連作に、父のことを含む家族詠があり、
父への挽歌「父最期」という連作に連なる。
子、妻、母とともに父の晩期を「介護」という形で看取った後、
集大成のように詠った。
切々と胸に迫るものがある。

……

「7日前に別離の言葉をしたためてゐた。乱れ乱れた字を辿れば、『長々御厄介になりまして、今日でお別れいたします』とあった。」

いざさらば別離と父が綴りたるいやはての字を辿りつつ読む
わが膝の上に抱かれ息をひく父を見守る家族十一人
苦しみが消えたる顔のま静かに整はりくるさまを見守る
花をもて埋めし父のなきがらを一夜守りつつ蛙ききけり
笹原の笹につばらに朝日来てこの静けさの悲しき朝かも
春の夜も雨とどろけり部屋にゐぬ父は何処に行きしかと思ふ

……

深い感動を味わいつつ、自らの人生で、父と別れた日のことを、しきりに思い出した。








海軍主計中尉小泉信吉の南方からの手紙~戦艦那須乗艦中~

2019-06-29 20:10:31 | 人生


昭和17年、海軍主計中尉小泉信吉(24歳)は、
戦艦「那須」に乗艦し、南方海上(ガダルカナル)にいた。
戦争の真っただ中とはいえ、国内との郵便のやりとりもでき、
日常の生活は生活として、淡々とすすんでゆく。
まるで、日本の中から日本の中への手紙のように、
何もないかのように交わされれる。
その感覚を理解できるようにするため、
信吉から家族4人への手紙を摘記してみる。

……

5月27日付

先日のお手紙に小生が下士官に講義をする予定と申し上げましたが、あれは無事に済みました。
上手に講義できたかどうかは自分ではわかりませんが、気が付いていることは、講義に際して非常に「それだからなあ」「そこでなあ」という口調をしたことです。これは講義を始めるとすぐ自分で気が付いたのですが、なんともなし難いのです。これが中学校か何かなら「なあ先生」とか「なあ公」とかいった綽名がつけられはしないかと考えています。試験を行わねばいかんのだそうで、問題を出せという命令です。実に何とも面映ゆいような気持ちで問題を作り、教育主任に手渡しました。わが身をつねって人の痛さを知れ……。極く易しい問題です。それからおかしく感じたことは、嘗て戦争の始まる前には胸がわくわくするだろうと考えていたのがなんでもなく、そして今度の講義をする前には何か落ち着かぬ気持になってしまったことで、不思議なものだと思いました。
(以下略)

昭和17年5月27日
                       那智艦上 信吉
父上様
母上様
加代子様
妙様

……

筆者の闊達な筆で、戦時中の戦艦の中のことを平易におもしろく語っている。


















介護時代以前の介護~宮柊二の歌にみる~

2019-06-27 21:20:56 | 短歌


約20年前に出版された本に、
宮柊二の家族詠の評論がある。
まだ、介護が今ほどの重要性を持たなかった時代、
宮柊二は、両親、妻、子どもという3世代家族を統べていた。
育児、仕事、介護という三重苦は、かれが長男である故、
より大変な生活を強いられた。

……

この生活を続けるうち、本人は身体を壊して入院し、
常に床に臥す父を介護していた母が、吐血して倒れる。
こどもも、病が絶えない。
忙しさに耐えられなかった妻が、自殺未遂をおこす。
それでも、一家の大黒柱としての宮柊二と妻とは、
生活の折り合いをつけねばならなかった。
病気の両親と夫婦、子供3人の生活。

今の時代を先取りする父の介護の歌を、宮柊二は詠む。
そこに、現在の時代への取り組みのヒントはないだろうか。
いずれにせよ、現代、痛々しいとばかりはいっておれない歌たちである。

……

老父を抱きかかえつつ巷かへる生の敗残に入りしかも父
人の生さまざまにして泪持つたとへば病み臥すわが父も一人
昂りて夜に喚く父の晩年をわが守るべし吾は子なるゆえ
妻と子と老父母をかいいだきわが往かんとすす病みてはならず
病み床に日中ねむれば尖りたる父喉仏冬の日を浴ぶ
玄関に父の笑ふが聞こえ来る笑わせいるは末の夏実か(夏実は宮の娘)
枇杷むけば汁したたるを床の上ゆ眼放たず父が待つなり
下痢後を処理してくれて嬉など感謝記せし父の日記はや

……

3世代住宅に住みながら、涙ぐましい努力が続く。
父の逝去前後のことは、改めてまとめたい。
























宮柊二「多く夜の歌」に見る視野のひろがり

2019-06-27 19:54:03 | 短歌

宮柊二の歌は、民衆の、庶民の歌であった。
彼が、朝日新聞歌壇の選者になったこともあり、
短歌界に、新風がおこる。
民衆の、民衆による歌が、受け入れられれるようになったのである。

……

あはあはと陽当る午後の灰皿にただ一つ煙をあぐる吸殻

吸殻からさそわれる人の姿はやはりちらつく。そこでこの歌には些細な素材を扱ったのだけれども、それは媒材で、間接的な表現のしくみを試みたものだが、言い換えれば、人事を直写することには窮屈さが避けられないで、些事を素材とし対象として、人事の広がりをさそい出そうと試みたのだった。私はこの歌で、一種の落ち着いた気分と、在来の歌には見られなかった、虚実の関係といった世界が、開けるいとぐちをとらえたような気がした、と思い出すことができる。(宮柊二)

……

同時期に、次のような歌もつくっている。

……

腕相撲われに勝ちたる子の言ひて聞けば鳴きをり藪の梟
イオシフ・ヴィッサリオのヴィチ・スターリン死す英雄の齢かたむきて逝くぞ悲しき
桔梗のかがやくばかり艶もちて萌え出でし芽を惜しみ厭かなく
才無きを恥ぢつつ生きてもの言ふにこころかなしき批評にも会ふ
竹群の空青々と音なくて寂しき春の時間ぞ長き

……














海軍主計大尉小泉信吉の一生を振り返って~小泉信三~

2019-06-27 19:13:24 | 人生

大正7年1月17日に生まれ、
昭和17年10月22日に戦死した
海軍主計大尉小泉信吉。
25歳であった。
極めて性格温良だったという。
慶應義塾の塾長小泉信三の一人息子である。
出生時、父は31歳、母は24歳であり、
のち、2人の妹が生まれた。

今回は、父信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」にまとめられた、
信三による、信吉の「こうであったろう」人生を、摘記しておきたい。

……

信吉の一生は、平凡な一生であった。
彼は平凡な家庭に生まれ、平穏無事に成長した。父も祖父も伯父叔父も従弟も学んだ同じ学校に入り、小学、中学、大学と一貫してそこで教育せられ、卒業して志望した銀行に採用せられ、図らずも少年の日の夢であった海軍士官となって第一線に戦った。
無事も無事、平たん極まる道を歩んだ男であって、最後の戦死そのことが彼の生涯の恐らく唯一つの事件であったろう。
彼に如何なる特徴があったか。親の私にはほとんど語ることができない。ただ父母同胞親戚友人を愛し、その人々に愛せられ、少しばかり学問を好み、同じく少しばかり絵画音楽を愛し、子どもの時から海洋、船舶、海軍に関する異常の憧憬をいだいたというだけの青年であった。
若し常の世に生きたら、彼は日々銀行の勤務につとめ、余暇をもって読書し、できれば著述し、妻を娶り、父となり、運が良ければ順当に昇進して老境に入るという一生を送ったであろう。
その信吉と言う男が、南太平洋上に敵弾に中って艦橋に倒れるとは、実に思いもかけぬことであった。
信吉が生まれた大正7年は、西暦1918年で、5年にわたる第1次世界大戦の終息した年である。
当時、この幼児の成長の暁に再び世界の対戦が起こり、この幼児そのものもこの大戦に死ぬであろうとは、何人も予想しなかったことであろう。その信吉自身が小時の夢に開戦に死ぬことを空想したというのは、今となってみれば不思議な暗合であった。
(以下略)

……

戦争によって愛児を奪われた老学者の回想には、胸を打つものがある。















山本五十六の書いた「小泉信吉君への追悼文」への感想

2019-06-26 21:14:47 | 思い出の詩


昭和17年10月22日の小泉信吉の戦死をいたみ、
山本五十六から、信吉の父小泉信三に追悼文が寄せられたことは、述べた。
それに対する小泉信三の感想を記しておく。

……

常に部下将兵のことを思うに篤い山本提督としては、或いは又海軍一般の気風としては、格別異例のことではないかもしれぬ。しかし、戦死した一大尉の父としては、親しく司令長官からかかる弔文を蒙るのは望外のことで、私は光栄に感激した。殊にそれほどの私交もない司令長官が、信吉の一人息子であったことまで承知せられ、又、私は贈呈した「師・友・書籍・第2編」の中の一編「私信」を読んで、それが信吉に対して書かれたものであることを直ぐ察知せられた心遣いに感動した。

……







海軍主計中尉尉小泉信吉君をいたむ~山本五十六~

2019-06-26 20:31:57 | 人生


ある人物の大要を知ろうとするとき、Wikipedia等を使うと、
なにか、かたい、得体の知れない姿にうつることがある。
ネットという特殊なツールだからであろう。
実際に遭ったとか、自分で調べたり文章を読んで知った、
ということになると、話は別で、
感想は、生き生きしたものになる。

一海軍主計大尉であった小泉信吉が25歳で戦死したとき、
さほど中の深くない山本五十六連合艦隊司令長官が、わざわざ
その父である慶応大学塾長小泉信三に、追悼文を送った。
小泉信三が、「師・友・書籍・第2編」を進呈したことを踏まえたうえでのことである。
内容は以下のとおりである。

拝復

11月2日付貴信ならびに貴著「師・友・書籍・第2編」拝承ありがたく御礼申し上げます。しかるところ時を同じゅうして海軍主計中尉のご令息には10月末南太平洋海戦においてご奮戦壮烈なる御戦死のおもむきを伝え承り、痛恨愛惜にたえず、ことに唯おひとりのご令息の由承り、一層ご同情の念深刻なる次第に御座候。御著書中の私信はご令息に対する御慰問御激励の文とも承り、御心情深くお察し申し上げ候。
(以下略)
11月尽日
                      山本五十六
小泉信三様

……

小泉信三が、以下のように説明している。その心情は、生の文章を読むからこそ伝わってくるのであろう。

山本司令長官とは深く交わったと言いうるほどの間柄ではない。かすかな面識は数年前からあった。
昭和12年の春、慶應義塾塾生が宮城前へ戦果行進の更新を行ったことがある。そのとき私は海軍省へも出頭して祝辞を述べた。それを受けたのが当時の山本海軍次官であった。大臣室であるか、応接室であるか、広い一間に招ぜられて、祝辞謝辞を交換した後、座って少しばかり雑談した。丁重な山本次官は、私の帰る時、玄関前まで送って出て、私の車が動き出してもなお、そこに立っておられた。その後教育審議会の会合その他で委員としての山本次官に会って、目礼したり数語を交えたりしたことがある。
(以下略)
……

こうして、文章を読み、味わうと、Wikipedia等では感ずることのできない、しみじみとした感慨が伝わってくるのである。







































海軍主計大尉小泉信吉②~その手紙~

2019-06-25 21:04:55 | 文学


昭和16年、17年といえば、
太平洋戦争の最中であるが、
海軍の士官には、艦内で私室を与えられることもあり、
読書や遊びに興ずるということも、なかったわけではない。
また、ちょっちゅう港には寄港するから、
戦艦所属の軍人が家庭にかえることもまれではなかった。
また、私信もゆるされたことがある。

小泉信吉の、家族あての私信の例を挙げてみる。

……

8月も終わり、9月1日となった今朝は、風が恐ろしく強く、雨が叩くような音をたてて船体を打っていました。こちらでは総員起こしが3時、朝食が5時、昼は10時、夜は3時で、ただ今の時間は午前6時半少し過ぎです。天気は治り、薄日がさしていますが、光線に力がないので、陸上の樹木の緑色は艶がなく、海面も鮮明な色を欠いて、一寸趣の変わった景色です。
さてまだまだ、内地向きの便がないので、この手紙出せそうもありません。しかし一応ここで区切りをつけ、余は「通信第4」に譲ることにしました。只今は9月5日の夜であります。ではみなさん、何とぞ御身くれぐれもご自愛ください。小生は相変わらず元気、程よき食欲あり。
                              信吉

父上様
母上様
加代子様
妙子様









海軍主計大尉小泉信吉~若き士官の死~

2019-06-25 20:28:52 | 文学


小泉信吉(こいずみしんきち)。
元慶應義塾塾長の小泉信三の長男。
祖父は、やはり慶応義塾塾長の小泉信吉(こいずみのぶよし)。
祖父については、Wikipediaを調べれば、大要はわかるが、信吉(こいずみしんきち)
は、若くして亡くなったので、詳しい記述はない。
以下、「しんきち」に関して書く。

彼については、父の小泉信三の「海軍主計大尉小泉信吉」を読めば、
人生の大要はつかめる。

信吉は、大正7年1月17日に生まれた。
慶応幼稚舎から慶応大学を卒業し、
三菱銀行に4か月、海軍に1年2か月にわたり奉職。
昭和17年10月22日、海軍主計大尉として南方で戦死した。
ときに25歳。
未熟児として生まれ、幼いときは、病弱であった。
後、慶応義塾大学在学中は、学問に興味を持ち、
一時は研究者になろうとの志望もあった。
しかし、海軍少年であった信吉は、卒業後、
海軍に奉職することになる。
始めは「那智」の主計中尉として乗船し、
後、「八海山丸」の主計長となった。

人柄はよく、
父信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」からわかるように、
多くの人に愛された。
我が子を25歳で失った信三の哀しみを癒すため、
信三の知人が、この思い出の書を書くことを勧めたのであった。

父信三は、
親子のことを、次のようにまとめている。

……

親の身として思えば、信吉の25年の一生は、やはり生きた甲斐のある一生であった。信吉の父母同胞を父母同胞とし、その他すべての境遇を境遇と死、そうしてその命数は25年に限られたものとして、信吉に、今一度この一生を繰り返すことを願うかと問うたなら、彼は然りと答えるであろう。父母たる我々も同様である。親として我が子の長命を祈らぬ者はない。しかし、我々両人は、25年の間に人の親としての幸福は享けたと謂いうる。信吉の容貌、信吉の性質、すべての彼の長所短所はそのままとして、そうして25までしか生きないものとして、さてこの人間を汝は再び子としてもつを願うかと問われたら、我々夫婦は言下に願うと言うであろう。
(以下略)

……





























地域医療センターの役割

2019-06-22 22:09:12 | 医療


長きにわたって、定時に開かれる病院にしか行かなかった。
ところが、先日、本日、とのっぴきならぬ症状が出て、難渋した。
昨夜から独特の症状が出て、収まらなかった。時間が遅いので、
主治医に診てもらうことができなかった。
今日は、午前、午後と会合に出たが、頭が重く、気持ちが悪くなった。
帰って寝ても、症状は収まらない。
しばらく我慢したが、意を決して、緊急にみてくれる医者を探した。
その末に、「地域医療センター」というものを見つけた。
平日、土曜は20時から23時まで、日曜、祝日には9時から23時まで診療している。
診察してもらった医師は、ベテランで、的確な分析をしてくれた。ただ、この時間の診療には限界があり、本格的に診てもらうなら、平日午前から大病院に行くのが良いそうだ。
地域医療センターでは、軽い事案を扱い、それで満足できない場合は、2次救急、3次救急で見てもらった方がよい、その責任は、患者自身にある、というスタンスである。自らの診療範囲を明確にし、医療にメリハリをつける制度の一種なのだろう。

いまだ、症状は残っているが、大々的な検査を受けるには、来週月曜日以降に大病院に行った方がよさそうだ。

医者とのつきあい方も、これからますます選択可能なものとなるのだろう。




「家族の歌~河野裕子の死を見つめた344日~」を読んで

2019-06-22 21:46:18 | 読書


永田和宏、河野裕子(戸籍名は永田裕子)、永田淳、永田紅は、
4人の家族がすべて歌人、という珍しいケースに属する。
父和宏、母裕子、長男淳、長女紅が、裕子の最後の344日間を綴った。
これが、「家族の歌~河野裕子の死を見つめた344日~」である。
河野は、54歳で乳癌を発病し、10年の闘病生活の後、64歳で亡くなった。
そこには、壮絶なドラマがあったが、最後の344日は、とくに、家族それぞれに深い意味をもつものであった。
読書感想文を投稿した。これも200字以内、という厳しい条件であったが、字数制限のゆえに、コンパクトにまとまったと思う。

……

巨大な女性歌人、河野裕子。家族はすべて歌人です。晩年の10年間、河野は乳癌に侵されながら、創作に生きました。2010年8月、64歳で逝くまでの344日、3人が河野を支えつつ、短歌とエッセイを書き継いだ記録です。各自の切々たる思いは、涙を誘います。俵万智さんの書評を紹介します。「家族というものの素晴らしさを、ひとつの普遍的な形で示してくれた1冊として本書を抱きしめたいと思った。」そういう本です。
……

これから短歌を始める人の入門書としても、いいと思う。